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 「学者バカ」って言葉は…「役者バカ」の捩りで、私(Zero)的な造語かと思っていたのだが、Weblioにも載っているから、相応に普遍的な言葉、らしい。
 尤も、Weblioには、
 
学者馬鹿
 読み方:がくしゃばか
 別表記:学者バカ
 専門的な知識はあるものの、一般常識に欠けている人のこと。
 
とあるから「専門バカの同義語」であるらしい。
 であるならば、「学者バカの日本国憲法学者」ともなれば、それはそれは凄まじい事になるのは理の当然で、その見本みたいなのが沖縄タイムスに連載記事を書いているってのも至極当然ではある。

【沖縄タイムス】木村草太の憲法の新手(54)教育勅語「国体」重視の教えは違憲
2017年4月16日 17:50

木村草太の憲法の新手 教育勅語 憲法 
木村 草太木村 草太(きむら そうた)憲法学者/首都大学東京教授  1980年横浜市生まれ。2003年東京大学法学部卒業し、同年から同大学法学政治学研究科助手。2006年首都大学東京准教授、16年から教授。法科大学院の講義をまとめた「憲法の急所」(羽鳥書店)は「東京大学生協で最も売れている本」「全法科大学院生必読書」と話題となった。主な著書に「憲法の創造力」(NHK出版新書)「テレビが伝えない憲法の話」(PHP新書)「未完の憲法」(奥平康弘氏と共著、潮出版社)など。ブログは「木村草太の力戦憲法」http://blog.goo.ne.jp/kimkimlrツイッターは@SotaKimura

【1】 3月31日、政府は、憲法・教育基本法などに反しない範囲で、教育勅語を「教材として用いることまでは否定されることではないと考えている」との答弁書を出した。教育勅語を完全に排除すべきではないとの趣旨の閣僚・政府高官の意見表明も相次ぎ、懸念が広まっている。

【2】 教育勅語は、明治23年10月30日付で示された、現人神たる明治天皇が教育に関する基本理念を述べた文書だ。その内容は、市民を「臣民」と位置づけ、大日本帝国の「国体」を「教育ノ淵源」と位置付ける。

【3】 「国体」とは難解な言葉だが、明治40年の文部省の公式の英訳では「fundamental character of Our Empire」とされた。帝国の基本的な性格くらいの意味に訳されている。

【4】 ポツダム宣言を受諾した日本政府は、憲法改正を決意し、1947年5月、日本国憲法が施行された。天皇は、現人神や大権の担い手ではなくなり、国家の象徴とされた。市民は、主権の担い手たる「国民」となった。こうして、神話的国家観に基づく大日本帝国は解体された。

【5】 当然、大日本帝国の「国体」は「教育の淵源」となりえなくなる。1948年6月19日、衆議院は、「主権在君並びに神話的国体観に基いている」との理由で教育勅語の排除を求める決議をした。参議院も教育勅語の失効を確認する決議を行った。これを重く受け止めた政府は、決議当日の衆議院本会議で、森戸辰男文部大臣が、「教育勅語は明治憲法を思想的背景といたしておるものでありますから、その基調において新憲法の精神に合致しがたい」と断言した<<< 「GHQに言われて」、ね。それを言うならば「新憲法=日本国憲法」も「GHQが強制した」憲法ではあるが。 >>>。

【6】 今回の政府答弁書は、「我が国の教育の唯一の根本とするような指導を行うことは不適切である」としつつも、教材としての利用は必ずしも否定しないという。この点、歴史の授業で教育勅語を紹介することは問題ないとの指摘もある。

【7】 しかし、歴史の授業だけを想定するなら、例えば「史料として用いることは否定しない」という言い方にすべきだった。答弁書の書き方では、歴史以外の授業での利用を促しかねない<。

【8】 また、菅義偉官房長官は、4月3日の記者会見で、教育勅語に書かれた「親を大切にする、兄弟姉妹は仲よくする、友達はお互いに信じ合うなど、ある意味で人類普遍のことまで否定はすべきではない」と述べた。これは、歴史資料ではなく、道徳などの教材として利用することを想定するかのような説明だ。

【9】 教育勅語には、親孝行や家族愛、学問を修めることなど、そこだけを切り取れば問題なく見える部分もある。しかし、それらは、大日本帝国の「臣民」が「天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼」するために遵守すべき規範とされていた(*1)。教育勅語を教材とすることは、「親孝行や学問の目的は、現人神たる天皇の位を護るためだ」と教えることを意味する。そのような教育は、明らかに憲法等に反する(*2)。

【10】 前回論じた道徳教科書の検定問題にしても、今回の教育勅語答弁書にしても、道徳教育への不信を高めるものだ。本来、道徳とは、国民一人一人が自らの良心に従って探求すべきものだ。声高に道徳を押し付けてくる者には、警戒せねばならない(*3)。
(首都大学東京教授、憲法学者)

<注記>

*1:  なればこそ、「天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼」する事は、単に「天皇陛下をお助けする」何て具象的レベルではあり得ない。精々が「宸襟を安んじ奉る」と表現する「我が国の安泰を願う」行動・行為であろうに。

*2:  無理矢理、もしくは実に非論理的な解釈をして、無理矢理憲法違反にして、批難してやぁがる。
 大体、合憲・違憲で道徳を判断することこそ、憲法の不遜であろうが。 

*3: 正気で言っているのかね?
 普通、道徳にはお手本、規範がある。その規範を説く者を全否定しての「国民一人一人が自らの良心に従って探求」なんて、何が出て来るか分かったモノではない。
 否、「規範を説く者を全否定し、自らの良心に従って探究した道徳を得る」なんて、常人では、不可能なレベルだろう。
 念の為に聞こうじゃないか。憲法学者・木村 草太。貴方も多分道徳をお持ちだと思うが、貴方の道徳は「如何なる他者からも説かれた事のない、自らの良心に従って探究した」ものなのかね。
 それともハナッから、道徳なんてお持ちではないのかね。 

幾ら憲法学者とは言え、日本国憲法が道徳規範とは、恐れ入谷の鬼子母神

 一方で、上掲記事を書いた木村草太氏は、上掲記事の〆を、
 
1〉 本来、道徳とは、国民一人一人が自らの良心に従って探求すべきものだ。
2〉声高に道徳を押し付けてくる者には、警戒せねばならない

とも書いている。ならば、なぁんだってその「国民一人一人が自らの良心に従って探求すべき道徳を、上掲記事で

3〉 「親孝行や学問の目的は、現人神たる天皇の位を護るためだ」と教えることを意味する。
4〉そのような教育は、明らかに憲法等に反する。

、「憲法を基準にして判定・批難」出来るんだ?

 日本国憲法は「国民一人一人が自らの良心に従って探求」して結果なのか?馬鹿も休み休み言うが宜しかろう。

 上掲記事の中でも突っ込んだが自らの良心に従って探求して、道徳を得るなんてのは、余程の聖人君子で無ければ不可能だ。それも、ブッタやガンジー、ダライ・ラマ級の聖人君子にして、初めて可能となろう。

 私(ZERO)をはじめとする一般人・凡人は、宗教や社会、両親や学校、世間様等によって「既製品の道徳」を提示され、吸収して自らの道徳にする。一般人・凡人にできるのは、「既成品の道徳を租借・吸収・理解して、己がものとする」のが関の山。

 その「既製品の道徳」の一つとして教育勅語があって、何の不都合があろうか。
 
 仮に「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ。」の一説を文字通りに「軍国主義的に」解釈したとしても、「既製品の道徳」の一つとして提示する分には、如何ほどの支障があろうか。

 それすらも「許さない」って「思想統制」するようでは、如何に「自らの良心に従って探求」したところで、ロクな道徳にはなりそうにないぞ。

 ま、木村草太氏がどのように自らの良心に従って探求」し、どんな「道徳」をお持ちなのか、私(ZERO)は知らないがね。
 
 ああ、一つだけ、「判っている」か。
 
 木村草太氏がお持ちの道徳は、「日本国憲法に反しない」合憲な道徳、に違いない
 
 それで上掲コラムのタイトルは「憲法の新手」なのだな。納得。ある意味。