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 なんだか、佳子妃殿下を巡っての実に胸クソをの悪い騒ぎの後だ。偶には趣味に走った記事も良かろう。
 
 「宇宙戦艦ヤマト」と言えば、松本零士原作(*1)で「一世を風靡した」と言って良いかつての人気SFアニメ。
 
 地球侵略にやってきた謎の異星人ガミラスの遊星爆弾攻撃により、海は干上がり、放射線は激しく、地表は「死の星」と化した地球で、地下都市に細々と生き延びた人類が、14万8千光年の彼方、「イスカンダル」から届いた「放射能除去装置がある」と言う情報の故に、最後の宇宙戦艦を以て人類初の銀河間航行に乗り出す。

 最後の宇宙戦艦の名は「ヤマト」。干上がった海底に鎮座在した、帝国海軍最大の戦艦大和に偽装して人類が建造した、「最後の希望」・・・
 
 何しろ「一世を風靡」し、私なんぞはこの冒頭を書くだけで血がタギってくるのを感じるほどの「今なお愛される」作品だ。リメイクができるのも、理の当然であろう。数年前にTBS開局60周年記念として、実写版化した映画となり、先頃改めてアニメーション「宇宙戦艦ヤマト2199」としてリメイクされ、地上波放送もされた。設定であるとか、艦名であるとか、配置や肩書きであるとか、あれこれ異なっているところもある。実写版映画「宇宙戦艦ヤマト」は、オリジナル・原点・全ての始まり「宇宙戦艦ヤマト」と、アニメ映画第二弾「さらば宇宙戦艦ヤマト」の「良い所どり」の様なストーリーになっているし、「宇宙戦艦ヤマト2199」はストーリーはオリジナルをある程度なぞっているようだが、やはり異なる部分はある。当然ながら、実写版と2199は、一致しない点が多い。

 両者の差異が気になったからこその、この一文ではある。ここで取り上げたいのは、冒頭近く、オリジナルでは「冥王星沖海戦」となっていた、沖田十三提督(後に宇宙戦艦ヤマト初代艦長)率いる最後の地球艦隊と、ガミラス艦隊の決戦と地球艦隊壊滅後、沖田十三と主人公・古代進の初めての出会いのシーンだ。

 沖田提督はこの海戦で、地球最後の宇宙艦隊を壊滅させてしまい、沖田提督座上のただ一艦( オリジナルでは「沖田艦」あるいは「英雄」。「2199」では「霧島」って、そりゃ巡洋戦艦/高速戦艦名前だろう。 )が生き残って地球に帰って来る。古代進の兄・古代守が艦長を務める宇宙駆逐艦「雪風」もまた戻らず、戦死と判定するほかない状況。

 地球に帰還した沖田提督の立場は、実写映画と「2199」では異なる。実写映画では地球最後の艦隊を壊滅させてしまった敗軍の将で、これはオリジナルのまま。対する「2199」では、海戦そのものが「イスカンダルからの連絡船到達を確実にするための陽動作戦」であり、連絡は取れたのだから、任務は完了。作戦目的は達したのだから、宇宙艦隊が全滅しようが「勝利」とも言い得る状況だ。

 実写映画の古代進(演じるは木村拓哉)は、「沖田艦に収容された一民間人」の立場ながら、暴れて沖田提督(演じるは山崎努)の居る第一艦橋に「殴り込む」。ただ一隻生きて帰ってきた沖田に「死んでいった者に、恥ずかしくないのか!」と詰め寄る古代に対し、「恥ずかしい?何故だ?」と、冷静に、見ようによっては冷酷に返す沖田提督。古代進は怒り、殴りかかろうとして、空間騎兵隊の銃口( と、飛び出してきた森雪の一発 )に止められる。

 「2199」の古代進は、火星に到着したイスカンダルからの連絡を回収し、地球へ持ち帰る国連宇宙軍の訓練生。やはり「雪風還らず」と知って、こちらは沖田提督が健康診断を受ける病院へと乗り込む。「兄の守が雪風の艦長」と知った「2199」の沖田提督は、いきなり古代進・訓練生に頭を下げ、「すまん」と詫びる。

 「沖田提督の古代進に対する態度」という点で、実写版と「2199」は、好対照といって良いほどの差異を生じて居る。一言で言えば「指揮官の責任」の問題であり、そこに「任務の成否」と「部下の生死/殺生与奪」が包含されている。

 「任務の成否」の方は、話が簡単だ。軍人にとって任務の完遂は至上命題。「死ぬことも任務の内だ」とは、映画「眼下の敵」でドイツ・潜水艦長(クルト・ユルゲンス)の台詞にもある所だ。その「任務完遂」という点で、「2199」の沖田提督は任務を全うしているのに対し、実写版は任務に失敗している。どちらでも「地球艦隊の壊滅」という損害は同じだが、その犠牲の意味するところは、天と地ほどにも開きがある。即ち「2199」の沖田提督は実写版より遙かに「強い」立場だ。

 一方、「部下の生死/殺生与奪」の方は少々複雑だ。まず第一に、軍隊というモノは「戦争」という国家の非常時にも国防の任に当たるものだから、前述の通り「死ぬことも任務の内」であり、指揮官としては配下の者を死地に赴かせることもある。

 平時や軍隊以外の組織ならば、殺人罪や自殺教唆に中りそうな「命令」も、戦時の指揮官は出さねばならない。出さなければ、戦争に負けてしまい、国が滅んでしまうのだから。

 言い換えれば、少なくとも戦時に於いて、指揮官は部下に「死ね」と命じることができるし、命じなければならない場合がある。ここで問題になっているのは、部下がその命令に従って死んだ後で、「死ね」と命じた指揮官の責任は、特に遺族に対して、どうあるべきか、という問題だ。(*2)

 人情的には「2199」沖田提督のように「すまん」と謝ってしまうところだろう。逆の態度をとれば、少なくとも「遺族の心情をないがしろにする」という批判・非難は免れ得ない。実写版・沖田提督が酷く冷血・冷徹に見えてしまう所以だ。

 だが指揮官としてあるべき姿、あらねばならない姿はどうだろうか。先述の通り指揮官は、その職務責務として、部下に「死ね」と命じなければならない可能性がある立場であり、指揮官である以上、以降も同じ立場にあり続ける。なおかつ下手なタイミングで辞職辞任を申し出ることは、敵前逃亡罪で銃殺になりかねない立場だ。故に、例え遺族に相対したときであっても、「部下に”死ね”と命じたこと」を、少なくとも「恥ずかしい」などと、口が裂けても言うべきではない。その点、実写版の沖田提督の態度を、私は決定的に支持するものである。

 ひょっとして、部下に「死ね」と命じたことは、決定的な誤りだったかも知れない。そのために軍法会議にかけられることだって、さらには銃殺になることだって、ありうる立場なのが指揮官だ。戦争という非日常的極限状態で、戦闘という非人道的であることが当たり前な行動を実施し、部下の命を預かり、殺生与奪をも決する立場が、「軍隊の指揮官」という立場。であるならば、実写版沖田提督の言葉通り「生きて帰るという任務がある。」のも確かならば、戦死者の遺族相手にも、天地俯仰に恥ずる処はない。

 先述の通り、「2199」の「さっさと頭を下げてしまう沖田提督」を否定するつもりはない。が、指揮官としての態度は、実写版・沖田提督の方が上である。

 「指揮を執った経験の無い者は、我々の苦しみは判らん。」ー実写版・沖田艦長(山崎努)ー
 

<注釈>


(*1) 著作権は西崎プロデューサーにある、らしいが、あの独特の画風でマンガを描いたのは、松本零士氏だ。
 
(*2) 厳密にいうならば、実写版にせよ「2199」にせよ、沖田提督は雪風艦長・古代守に「死ね」と命じてはいない。「雪風」の反転と援護は、古代守艦長の自発的意志・犠牲的精神による。薩摩で言うところの、「捨てがまり」戦法だ。