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弊ブログで再三「脱原発原理主義」と糾弾し、揶揄もし、ひょっとすると痛罵もしている東京新聞に対し、この私(ZERO)はこれまた再三繰り返す通り「福島原発事故を経てなお原発推進論者」である。両者の間には、それこそ「山よりも高く、海よりも深い」ギャップがあることは否定すべくもないが、だからと言って「東京新聞のすべての主張に私(ZERO)が反対している」訳では無い。
その事は「カンボジア国籍になる事で五輪出場を企んだ」芸人(*1)・猫ナントカに対する非難と言う点で一致を見た件で、弊ブログ記事(*2)にもしている。
であるならば、「私(ZERO)と東京新聞の主張が(珍しく)一致した」とて「異とするには足らない」と言うべきかも知れないが…これって、集団的自衛権に関わる件、だよねぇ。
<注釈>
(*1) らしいが、この件でしか私(ZERO)は知らないから、「有名な芸人」では無いのだろう。(*2) 主旨不明瞭―毎日社説「猫ひろしと五輪」を斬る! : http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/36973686.html
【私説・論説室から】時代は「テロと戦争」にTweet 2015年3月9日【1】 テロリストたちの残虐な行為が連日のように報じられている。テロとの戦いは中東にとどまらず、世界中に広がった。
【2】 この事態をどうみるか。私は世界が「平和と繁栄の時代」から「テロと戦争の時代」にモードチェンジしてしまった、と思う。
【3】 平和と繁栄の原理は共存共栄、別の言葉で言えば「ウイン・ウイン関係」である。人と企業、国同士が得意なモノとサービスを交換し合って、互いに繁栄を享受する。
【4】 テロと戦争の原理は違う。「お前は敵か味方か」と相手をしゅん別するのだ。共存共栄の理屈は通じない。テロリストはもちろん、実はクリミアに侵攻したロシアや南シナ海で無法を繰り返す中国もそうではないか。
【5】 本来なら、中ロ両国は国連安全保障理事会の常任理事国として世界の平和に貢献しなければならない立場である。ところが彼らは拒否権を行使できるから、国連は無法に対して実質的な機能マヒに陥ってしまった。
【6】 彼らのふるまいがテロリストたちの無法と暴力を加速させた面もあるに違いない。白昼堂々と無法を犯してもたいした懲罰を受けないなら、なんでも許されてしまう。
【7】 そんな時代に日本はどうやって平和と安定を守るのか。仲間をつくって責任を引き受けるべきだ。面倒の始末を他国に任せ、自分は安全地帯に逃げ込む「ひきこもり平和論」であってはならない。 (長谷川幸洋)
それこそ正に「集団的自衛権の行使」なんだが、気付いてる?
さて、如何だろうか。
1〉私は世界が「平和と繁栄の時代」から「テロと戦争の時代」にモードチェンジしてしまった、と思う。
1〉私は世界が「平和と繁栄の時代」から「テロと戦争の時代」にモードチェンジしてしまった、と思う。
と言う「私的断言」には首肯しかねる点が多々ある(*1)が、そんな「相違点」は上掲コラム最後のパラグラフ【7】が粉砕してくれる。
2〉 そんな時代に日本はどうやって平和と安定を守るのか。
3〉仲間をつくって責任を引き受けるべきだ。
4〉面倒の始末を他国に任せ、自分は安全地帯に逃げ込む「ひきこもり平和論」であってはならない。
3〉仲間をつくって責任を引き受けるべきだ。
4〉面倒の始末を他国に任せ、自分は安全地帯に逃げ込む「ひきこもり平和論」であってはならない。
…いやまあ、「諸手を挙げて賛同」したくなるほどの「意見の一致」なのである。上記4〉「面倒の始末を他国に任せ、自分は安全地帯に逃げ込む「ひきこもり平和論」」とは正しく冷戦時代に日本がとっていた「安全保障策」であり、湾岸戦争とその後の湾岸掃海で馬脚を現したモノであろう。その「引きこもり平和論」を「否定する」だけでも、東京新聞としては「格段の進歩」と慶賀すべき処であるが、上記2〉~3〉「仲間をつくって責任を引き受けるべき」と言うのは「同盟を組んでの集団的自衛権行使」と解釈するのが普通であろう。その前段パラグラフ【5】で「国連常任理事国の横暴=国連の限界」を指摘しているのだから、尚更だ。 問題は、「同盟を組んでの集団的自衛権行使」を、果たして東京新聞が「容認」どころか「称賛」するとは、俄かには信じがたい事だ。
幾つかのCaseが考えらる。
【Case1】東京新聞(の少なくとも一部)には真面な安全保障意識があり/芽生え、「集団的自衛権の行使を容認」するようになった。
【Case1】東京新聞(の少なくとも一部)には真面な安全保障意識があり/芽生え、「集団的自衛権の行使を容認」するようになった。
これが、私(ZERO)にとって「最も望ましいCase」であろう。「民主主義国家の国民には、軍事的知識が不可欠である」と言う随分古い記事を未だブログの一番目立つ処に掲げる当ブログとしては、「国民の国防意識・安全保障意識の向上」と解釈出来る「東京新聞の目覚め」は「誠慶賀に値する」事である。事であるが…やっぱり「俄かには信じがたい」。
【Case2】「仲間をつくって責任を引き受ける」のは、「同盟を組む」のではなく「新国連」ないし「ミニ国連」を目指している。
これが、「俄かには信じがたい」だけに「大いにありそうに思えるCase」である。「テロと戦争」時代以前が「平和と繁栄の時代」等と「無邪気にも断言」出来てしまうだけに、「常任理事国の横暴で機能停止した現・国連に取って代わる新国連/ミニ国連」を「仲間をつくって責任を引き受ける」と称している可能性。このCaseならば、「仲間をつくって責任を引き受ける」のに、集団的自衛権の行使は(必ずしも)必要としない。
「(集団的自衛権の行使が不要な)新国連/ミニ国連」と「(集団的自衛権の行使が必要な)同盟を組む」の相違は何かと言うと、「新国連/ミニ国連は非軍事的協力に限る」とか言い出しそうで、在りそうなだけに「怖い」Caseだ。
そもそもの国連が「国連軍」と言う独自の軍事力を(一応)想定していた事も、恐らくは「新国連/ミニ国連」には影響しないのだろう。まあ、国連軍なんざぁ朝鮮戦争の時に役立っただけだから、ある意味「無理も無い」処であるが。
とは言え、「非軍事的協力に限る新国連/ミニ国連」が、「責任を引き受ける」ぐらいなら未だしも、我が国の安全保障策として十全万全かと言うと、「全く当てにならない」としか私(ZERO)には思われないが、それだけに「東京新聞の主張としては、大いにあり得る」と思えてしまう。
上記【Case2】を考えると、章題にした「それこそ正に「集団的自衛権の行使」なんだが」と言うのは、「根源的な誤解である」可能性がある。
但し、「仲間をつくって責任を引き受ける」手段の一つが、上記【Case1】「同盟を組む=集団的自衛権を行使する」である事には、一寸疑義の挟み様が無い。従って、上記【Case2】が真実であるならば、上掲東京新聞コラムは「誤解を招きやすい表現」という事は出来そうだ。
それとも何かね。東京新聞のコラムを読むに当たっては「集団的自衛権行使容認なんてトンデモナイ」と言うのが、前提条件かね?
そもそも、上掲コラムは【Case1】「集団的自衛権行使を容認する」ものなのかね?
如何に、東京新聞。
如何に、長谷川幸洋記者。
如何に、長谷川幸洋記者。
<注釈>
(*1) 例えば、「冷戦時代」を「平和と繁栄の時代」とは到底呼べそうにないし、「冷戦後」にしたって「平和と繁栄の時代」と言うには程遠かろう。敢えて単純化するならば、第2次大戦後の世界は、「冷戦時代」と「対テロ戦争時代」に分けるべきであり、人類史上に「平和と繁栄の時代」なんてのは、希有であろう。