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「美醜」なんてのは、「善悪」以上に恣意的な基準である。それ故にこそ「惚れてしまえば痘痕も笑窪」と言うのが殆ど「万古不易の真実」になってしまう訳だが、それにしてもこの「美しさ」と言うのは、首肯しかねる。
「美醜」なんてのは、「善悪」以上に恣意的な基準である。それ故にこそ「惚れてしまえば痘痕も笑窪」と言うのが殆ど「万古不易の真実」になってしまう訳だが、それにしてもこの「美しさ」と言うのは、首肯しかねる。
【AFP】非バービー体型の人形、米で近く発売 「『普通』は美しい」
2014年11月22日 18:52 発信地:ワシントンD.C./米国
http://www.afpbb.com/articles/-/3032462
【11月22日 AFP】彼女は背が低く、髪はダークブラウン。平均的なプロポーションで、ニキビやセルライトもある──米国で近く、バービー人形とは「異なった」人形が発売される。
「普通であることは美しい」のキャッチコピーで来週発売されるこの人形、「ラミリー(Lammily)」を考案したのは、グラフィックデザイナーのニコライ・ラム(Nickolay Lamm)氏(26)。
AFPの取材に対してラム氏は、贈り物として人形を探していたときに「全ての人形がスーパーモデルのよう」だと気付いたことから、この人形を思いついたと説明した。
「(人形が)スーパーモデルのようであっても全く問題はないけれど、壁のように立ち並ぶ人形たちが、自分たちとは違う体型には何か問題があると言っているような気がした」。そのため、スーパーモデルのようではなくても問題はないことを知らせるために、バービーとは異なる体型の人形を作ることにしたという。
「ラミリー」の体型は、19歳女性の「平均的」な体格に基づいている。米疾病対策センター(US Centers for Disease Control and Prevention、CDC)の統計によれば、身長163.3センチ、体重68キロ、胸囲85センチがこの年齢の女性たちの平均だ。c)AFP
人形を大量生産するために必要な資金集めには、クラウドファンディングを利用した。一体当たりの価格は25ドル(約3000円)で、すでに金額に換算して22万5000ドル(約2650万円)相当の予約注文を受けている。
さらに、来年1月には、着せ替え用の服に加え、ニキビやセルライトがある肌にするためのシールも発売する予定だ。(
「一定の支持を集めた」って事なんだろうけれど、「美しさ」に政治性、思想性を求めていないか?
さて、如何だろうか。
何という事も無い記事である。「19歳女性の「平均的」な体格に基づいた」と言う「ラミリー」と名付けられた人形がまもなく発売されるそうだ。宣伝文句が「普通であることは美しい」だそうで、
1〉 人形を大量生産するために必要な資金集めには、クラウドファンディングを利用した。
2〉一体当たりの価格は25ドル(約3000円)で、
3〉すでに金額に換算して22万5000ドル(約2650万円)相当の予約注文を受けている。
2〉一体当たりの価格は25ドル(約3000円)で、
3〉すでに金額に換算して22万5000ドル(約2650万円)相当の予約注文を受けている。
という事で、章題にもした通り一定の支持を得て、既に9000体分も予約が在る様だから、なかなかの前評判とも言えそうだ。「スーパーモデルの様な体形の人形」ばかり(多分)の中で、「平均的な体形」とする事で「差別化」を図る、逆転の発想/逆張り/逆突きと言う処か。何にせよ、商業的に成功しそうなのだから、その点では多とすべきであろう。
だが、タイトルにもした通り、「普通であることは美しい」には、異を唱えたくなる。
確かに、先述したとおり、美醜なんてのは酷く恣意的な基準で人其々。「普通であることは美しい」と感じる人も中には居る、と考えるべきだろう。
だが、上掲記事の通り「ラミリー人形」を支持し、予約し、さらには購入する/する予定の方々に敢えて問いたいのだが、本当に「普通であることは美しい」と、感じているのか、と。
「普通であることは美しいべきだ」と、「考えている」のではないか?
「美しいと感じる」と「美しいべきだと考える」の相違は、前者が多分に感性により、直観的であり、しばしば理屈や論理を超越しているのに対し、後者が「理屈や論理から出発している」と言う点。
「美しいと感じる」と「美しいべきだと考える」の相違は、前者が多分に感性により、直観的であり、しばしば理屈や論理を超越しているのに対し、後者が「理屈や論理から出発している」と言う点。
言い換えれば上記の問いは、「理屈や論理によって感性を捻じ曲げて、”美しい”としているのではないか?」と言う疑義・疑問である。その「理屈や論理」が「平等主義」なのではないかと言う疑いが、タイトルの「悪平等主義」につながっている。
「平等」は、「自由」「博愛」共々フランス革命の宣伝文句になったくらい「訴求力のある言葉」であるし、一般的には「良い事」である。だが、「常に絶対的に良い事(*1)」では無い。運動会の徒競走も、学校の成績も、優劣順位がついて「格差」がある/生じるのは当たり前。そこを「ゴール前で待ち合わせて一斉にゴール(*2)」だの「全員の成績を同じにする」だので「格差を無くした平等」は、少なくとも「無条件に良い事」では無い。「実はある格差」を「表面上無い事にする」のは「最も不健全かつ無意味な事」。斯様な「平等」は、「悪平等」と評されるのが至当であろう。 斯様な「悪平等」をも許容してしまう「平等原理主義」が、「普通であること」を「美しい」と、「断定させてしまう」のでは、な・い・か?
大体、「美しい」と言う属性は、「そうやたらに在ってたまるか」と言うべき「特別な属性」だろう。だからこそ、「十人並み」と言うのは「美しくない」と言う意味になる。そりゃ大概の人は「美しい」と言われて悪い気はしないだろうし、女性ならば尚更だろうが、「世の中、美男美女ばかりでは無い」と言うのを「現実」と受け入れる限りは、「普通である事は美しい」訳が無い。
逆に、「普通である事は美しい」と正に「感じる」ならば、「この世は美男美女ばかり」と「感じている」筈だ。それはそれで、「幸せな事」なのかも知れないが、「そんな人間が数多居る」とは、全く以って信じ難い。
無論、先述の通り「美醜と言うのは恣意的基準」であるから、私(ZERO)が知らないだけで、「”普通”である事は美しく、この世は美男美女ばかりと”感じる”」人間が実は数多居ると言う可能性も、「信じ難く」はあるが、考えない訳には行かないな。
でもなぁ、そりゃヤッパリ「異常事態」だろう。
再三繰り返す通り私(ZERO)は「知性と理性こそ人類最強の武器」と断言公言し、可能な限り実践もしている心算だが、「美醜」と言うのは「感性」であって、「理屈や論理」ではあるまい。
再三繰り返す通り私(ZERO)は「知性と理性こそ人類最強の武器」と断言公言し、可能な限り実践もしている心算だが、「美醜」と言うのは「感性」であって、「理屈や論理」ではあるまい。
<注釈>
(*1) そんなモノは、滅多にあるモノでは無い。(*2) なんて愚挙が、リアルに実施されているかどうかは、定かではないが。ま、油断はできないな。「男女の制服を交換して一日過ごす」なんて愚挙は、実施されているからな。