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  「男女平等」ぐらいならまだしも、「ジェンダーフリー」なんて主張・思想・思考となると、胡散臭くて適わない。男女の性差もさることながら、生まれついての盲目聾唖や、後天的な盲目聾唖、果ては四肢の欠損まで、「持って生まれた格差」も「後天的に生じた格差」も、在って当然。「無い」のは「理想」かも知れないが、まず「あり得ない」のだから(*1)、「ジェンダーが、フリーな訳が無い」。従って、「ジェンダーをフリーにしよう」なんてのは、「愚挙」としか私(ZERO)には思われない。
 
 況や、こんな「粗製乱造のお鍋お釜」で、何が起こるものかよ。

 

<注釈>

(*1) 無論、最悪なのは「実際には格差がある」のに「無い事にする」状態だ。 
 
 Fuji Hokuryo High School 山梨県のある高校が、違う観点から世界を見る方法を生徒に教えるため、独特の方法を編み出した。
この高校は県立富士北稜高校。同校では今週、「セクスチェンジ・デー」と呼ばれるイベントが行われた。この日は男女生徒300人近くが異性と制服を交換し、授業を受けた。
 
  「これは男らしさ、女らしさという固定概念を離れたらどうなるかを考察する課題研究だ」と教頭先生は言う。
 
 この日、生徒は登校した後、男子はスカートやリボンを、女子はズボンやネクタイを身につけ、通常どおり授業を受けた。事前の聞き取り調査で「参加したくない」と答えた8%の生徒には強制しなかったという。
 同校では生徒の感想をまとめている段階だが、一部の男子生徒からスカートが寒かったとの声が出ているという。

 学校は「セクスチェンジ・デー」を毎年行うかどうかまだ決めていないとしている。
 
原文(英語):Students at Japan High School Switch Uniforms with Opposite Sex
http://blogs.wsj.com/japanrealtime/2014/11/13/students-at-japan-high-school-switch-uniforms-with-opposite-sex/
 

「男女逆転祭り」は、「祭り」にしかならない

 さて、如何・・・も何もないな。県立富士北稜高校で「男女の制服を男女逆にする、セクスチェンジ・デー」なるイベントを開催したんだそうな…私(ZERO)の様な「異教徒(*1)」が真面目に考えると、「愚挙」としか評しようが無い。
 
 以前弊ブログで紹介したアニメ「コードギアス」の主たる舞台「私立アッシュフォード学園」では、お祭り好きの生徒会長ミレイさんの強烈な指導力の下で種々の「イベント」が開催されている(*2)。その中の一つが章題に取り上げた「男女逆転祭り」。男子生徒が女装し、女子生徒が男装して「一日楽しんで仕舞おう」と言う企画。男装/女装と言うよりは仮装に近い者も数多あって、物語の上とは言え(*3)、盛り上がっていた。
 
 男女の服装が逆転すると言うのは、日本の奇祭の幾つかにも見られるし、たしか昭和天皇陛下は宮中の慣習によって御幼少の頃は女児の服装で育てられたと聞く。「アニメ・コードギアスの男女逆転祭り」を引き合いに出すまでも無く、「女子の男装/男子の女装」と言うのは、「イベントとしてはアリ」なのだろう(*4)。
 
 問題は、そのイベントの「意図」であり、「目的」だ。
 
 「長年の風習」とか「伝統的行事」なんてのは、ある意味「仕方がない」。不条理不合理だろうが、「不必要」だろうが、「通ってしまう」理屈である。また、多少の不条理不合理不必要でも「通って来た」からこその「伝統」でもあろう。 だが、上掲記事にある「セクスチェンジ・デー」なるイベントは・・・
 
〉「これは男らしさ、女らしさという固定概念を離れたらどうなるかを考察する課題研究だ」
 
・・・とまあ、ある種社会実験(*5)らしい。
 
 「男らしさ、女らしさという固定概念を離れる」のに「男が女装し、女が男装する」事が「役に立つ」事ぐらいはあるかも知れない。
 
 だが、「男が女装し、女が男装する」だけで「男らしさ、女らしさという固定概念を離れる」のに十分であるのならば、人の意思/人間の思考は「服装の奴隷になって居る」と言うことであろう。そりゃ「男として思考・行動するも、女として思考・行動するも、服装次第」であるならば、「男女の肉体的性差からは”フリー”」と言えるかもしれないが、「服装的性差には完全従属」と、なりはしないか。
 
 県立富士北稜高校の生徒たちの「魂の自由」とは、その程度のシロモノか?
 
 「その程度の魂の自由であれ」と、上掲記事の教頭先生は、期待して居る様だが。
 
 ああ、期待しているのは、教頭先生ばかりでは無い様だ。

 

<注釈>

(*1) ジェンダーはフリーな訳が無い」し、「同性愛は、異常だ」と考える 
 
(*2) 多分に、「主人公ルルーシュによる復讐劇」と言う陰湿な一面を軽減する「お笑い要素」なのであろうが。 
 
(*3) 全体的なストーリーからすると、「寄り道」と言うか「道草」と言う観があるが。ま、それでこそ、「陰湿な復讐劇の中の、お笑い要素」なのであろう。 
 
(*4) 私(ZERO)自身は、全く参加する気になれないが。 
 
(*5) 「社会実験」ってのも、私の様な「理系の人間」には非常に胡散臭いのだが。
 「人文科学は、何処まで科学か?」と言う根源的疑問は置くとしても、たかだか一高校で一日だけ実施した社会実験で、どれほど意味あるデータが取れようか。
 「実施対象の高校生たちをアンケート調査」ぐらいはできるだろうが、自己申告の回答に、どれほどの信頼性があろう。
 況や、試験条件の設定が…(後略) 
 
②【朝日】自分は男でも女でもない 多様な性、否定や強制しないで
自分は男でも女でもない 多様な性、否定や強制しないで

二階堂友紀、高橋末菜
http://www.asahi.com/articles/ASGCH0V11GCGULFA03X.html?iref=video_all
2014年11月15日23時26分
【動画】山梨県立富士北稜高校で男女が制服交換=河合博司撮影
写真・図版左から、山本ヒカルさんと真境名薫さん、母の法子さんと夫の宇田川敏さん=二階堂友
 2、3日に掲載した「男/女が生きる」シリーズの「らしさって?」。ありのままに生きることを阻まれる性的少数者LGBTや、「男らしさ」に縛られる男たちを取り上げたことに、多くの反響が寄せられました。さらに取材を進め、ひとくくりにできない多様な性について考えました。

男らしさ女らしさって… ありのままの自分でいたいのに
男の成功像、生き方縛る 「逃げたっていいんだ」
特集:女が生きる 男が生きる

 「カミングアウト(公言)し、こういう記事を書かなくてはと思いますが、勇気がなくて」。メールをくれた20代の新聞記者は「オシャレな男」に見えた。
 
 体は男だが、心は女。心と体の性が一致しないトランスジェンダーだ。中3の時、女として男を好きになる自分に気づいた。
 
 自分は女だという意識ははっきりしているが、手術で体を変えたり、スカートをはいたりしたいわけではない。外見は男で通せるので、誰にもカミングアウトしたことはない。
 
 同僚がLGBTを取材していても無関心を装う。「『隠れLGBT』はたくさんいます」
(続きは有料)
 
 

如何にも朝日、だな。

 上掲記事の残りは有料で、端的に言って「金を払ってまで読む気にはなれない」ので、読んではいない。だが、まあ、朝日新聞が(やっぱり)LGBTとやらに好意的であるのは間違いなさそうだ。
 
〉 自分は男でも女でもない
 
ならば、普通は、「人間では無い」ってのが、結論だな。