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何度か書いているが、私(ZERO)は理系の人間で、理系でありながら歴史・戦史は大好きなのであるが、文学史は大嫌い。文学も、まあ、好きとは言えないから、文学史なんてモンは、不要になった瞬間にまとめて忘却土に叩っ込んでしまった。だ から、「白樺派」だの「逍遥派」だの「言文一致」だの、文学用語は「聞いた様な気がするな」程度で殆ど意味すら忘れている。
一方、後掲記事の筆者・大津 雄一氏は、早稲田大学教育・総合科学学術院教授の文学博士だそうだから、押しも押されもせぬ文学の専門家。その文学の専門家・大津 雄一氏が平家物語を評したのが後掲記事なのであるが、私(ZERO)は浅学非才の理系の身ながら、この平家物語評が「気に入らない」。
その「気に入らない」事が本記事を書く動機だ。普通に考えれば、「理系の素人が文学博士に平家物語論を挑む」のは、「身の程知らず」という事になろうが、負ける気/負ける心算は、全く無い。
『平家物語』と近代日本-創られた「国民叙事詩」-
大津 雄一/早稲田大学教育・総合科学学術院教授
http://www.yomiuri.co.jp/adv/wol/opinion/culture_131007.htm『広辞苑』で『平家物語』を引いてみると、「軍記物語。平家一門の栄華とその没落・滅亡を描き、仏教の因果観・無常観を基調として、調子のよい和漢混淆文に対話を交えた散文体の一種の叙事詩」とある。しかし、「散文体の一種の叙事詩」というのは妙な表現である。詩は韻文であって散文ではない。散文体の叙事詩など存在するわけがない。だから「一種の」と断っているのだろう。どうしてこのような説明が辞書にあるのだろうか。
国文学の誕生
1889年(明治22)、『大日本帝国憲法』が発布され、翌年には選挙が行われて通常議会が招集される。日本は、まがりなりにも近代国家の相貌を整えたのである。一方、文明開化の熱気はすでに失せ、その反動として社会は保守化し、伝統への回帰が強まる。1889年、帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)に国文学科が設立されたのもその一つの表れであり、この時に制度としての国文学は誕生したのである。明治政府の喫緊の課題の一つは均一な国民の養成にあった。その要請に応えて、日本文化の伝統を教育するために国文学は誕生した。翌1890年には、本格的日本文学史の最初のものである、三上参次・高津鍬三郎の『日本文学史』(金港堂)が出版され、博文館は最初の日本古典文学全集である『日本文学全書』24冊を刊行する。
叙事詩願望
こうして、日本の「正典」(カノン)が生み出され日本文学の伝統が形成されたのだが、一つ困った問題があった。それは日本には西洋のような「詩」がないということである。西洋の文学において最も尊重されるのは詩であった。だから、西洋に引けを取らない詩の創作が急がれた。抒情詩はそれなりに発展していった。しかし、良質の叙事詩はいつまでたっても誕生しなかった。これはゆゆしき問題であった。叙事詩は、古代ギリシャの詩人ホメロスにより吟唱されたという『イーリアス』と『オデュッセイア』に始まる。それらのように、民族の歴史を英雄の活躍を中心に詠う長編の英雄叙事詩こそが、民族の全体性を示すものだったからである。
1895年の日清戦争における勝利と、それにもかかわらす三国干渉によって遼東半島を放棄せざるをえなかった事実は、日本の国家意識を急速に高揚させることになる。1896年5月、当時強い影響力を持っていた民友社の雑誌「国民之友」は、その社説で、日本の歴史は英雄的出来事や戦闘に満ち、西洋にもない特異な事件もあって、その材料に満ちているのに、叙事詩を作れる人物がいないのは「遺憾千万」であると悲憤慷慨している。今や西洋の列強と肩を並べようとしている日本に叙事詩がないということは、許しがたかったのである。このままでは、いつまでたっても日本は「二等国」のままだと深く憂いたのである。しかしその後も、望まれたような叙事詩は誕生しなかった。
叙事詩『平家物語』の「発見」
1905年5月、日露講和条約が調印された。実質はともかく、西洋の大国に勝利したという事実は、国家意識をますます高揚させることになる。そのような中、叙事詩が「発見」される。「発見者」の名は生田弘治である。後には長江と名乗って社会評論家として活躍することになる。1906年に東京帝国大学哲学科を卒業した彼は、この年の「帝国文学」3月~5月号に「国民的叙事詩としての平家物語」を発表し、貴族の時代から武士の時代へという民族の変革期を源義経をはじめとする英雄の活躍を通して描き、琵琶に合わせて語られた『平家物語』こそが、日本の国民的叙事詩であると主張したのである。新たに叙事詩が作られる見込みがたたない中で、なんと埋もれていたお宝が過去から「発見」されたのである。この「発見」は大歓迎され、『平家物語』は西洋のそれに劣らない、いやそれ以上の素晴らしい長編叙事詩であると盛んに論じられることになる。
もちろんこれは「発見」ではなく「捏造」である。『平家物語』は物語であって詩ではない。自明のことである。坪内逍遥も1893年に発表した「美辞論稿」で『平家物語』は叙事詩ではなく「野史」(民間で書かれた歴史)の類であると明確に断じているが、逍遥のように、西洋文学を学んだ人々にとって『平家物語』を叙 事詩と認めることはとうていできなかった。だから当然、韻も踏んでいないのにど うして詩と言えるのかという至極まっとうな反論があった。だがその声は、詩は形ではなく心であり、この日本に叙事詩がないなどと言うのはとんでもない「偏見者」であるという愛国の声によってかき消されてしまう。こうして『平家物語』は、明治の末に国家の自尊心を満足させるために国民的叙事詩としてでっちあげられたのである。
そして、この「捏造」はその後も否定されることはなかった。その結果、『広辞苑』は「散文体の一種の叙事詩」という苦しい説明をせざるをえなくなっているの である。
古典は、時代の要求によって適宜読み替えられるものである。
大津 雄一(おおつ・ゆういち)/早稲田大学教育・総合科学学術院教授
【略歴】
1954年生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。博士(文 学)。著書に『軍記と王権のイデオロギー』(翰林書房 2005年)、『『平家 物語』の再誕―創られた国民叙事詩―』(NHK出版 2013年)、共著に『新編 日本古典文学全集 曾我物語』(小学館 2002年)、共編著に『平家物語大事 典』(東京書籍 2010年)、などがある。
芸術の価値は受け手が決定し、受け手しか決定しえない。文学もまた然り。
さて、如何だろうか。
如何も何もないな、「平家物語を「国民叙事詩」とするのは捏造である」と言う糾弾記事。その根拠は、①押韻された詩の形式では無い。 ②近代日本が「国民叙 事詩」を必要とし、平家物語はこれに「祭り上げられた」 という事らしい。
1〉 叙事詩は、古代ギリシャの詩人ホメロスにより吟唱されたという『イーリアス』と『オデュッセイア』に始まる。
2〉それらのように、民族の歴史を英雄の活躍を中心に詠う長編の英雄叙事詩こそが、民族の全体性を示すものだったからである。
2〉それらのように、民族の歴史を英雄の活躍を中心に詠う長編の英雄叙事詩こそが、民族の全体性を示すものだったからである。
上掲記事及び上記1〉~2〉で言う『イーリアス』と『オデュッセイア』に始まる西洋叙事詩が、押韻された詩の形式をとっていると言うのは事実だろう(*1)。一方で我が国に左様な「叙事詩」が、厳密には存在しないし、今に至るもなさそう だ、と言うのも。大東亜戦争を扱った文学作品も数多あり、山下清作「戦艦武蔵の最期」や山岡荘八作「小説・太平洋戦争」など優れた文学作品もあるが、厳密な意 味で「叙事詩」と言えるものは少ない(多分)。
だが、果たして「叙事詩」は、厳密な意味で「詩」でなければならないのだろう か。「叙事詩」の本質は、「押韻された詩」と言う形式であろうか。上掲記事の中にもある通り、
3〉詩は形ではなく心であり
ではないのか。
そもそも、我が国に於いて「押韻された詩」と言う文学形式、さらには「叙事 詩」と言うモノが、さほど重要重大なモノであろうか。我が国最古の文学は「万葉 集」に見られるとおり和歌であり、形式は厳密だが、押韻はさほど重視されない(多分)。尚且つ万葉集の多彩多様な作者群は、この「和歌と言う文学形式」が相当広 範に普及していた事を示唆している。無論、当時の和歌は単なる文学作品では無く、多分に宗教的・呪術的な意味合いを持っていたから(*2)だろうし、それは同時に当時の政治・政(まつりごと)と も密接な関係にあったから、でもあろう。
一方で、上記2〉「民族の歴史を英雄の活躍を中心に詠う長編」と言う点におい て、我が国に於ける平家物語は、端倪すべからざるものがあろう。
〉 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹花の色、盛者必衰の理を現す。奢れる者も久しからず。
と言うのは、あまりに有名な平家物語冒頭。そりゃ押韻はされて居ないし、和歌の形式でもないが、文学であり且つ「詩的」である事に、如何ほどの異論・異存があ ろうか。
〉 梶原景時 「良き大将軍と申すは、駆く可き所をば駆け、退く可き所をば退きて、身を全うして敵を滅ぼすを以って良き大将軍とは申す候。片趣をば、猪武者とて、良きとはせず。」
〉 源義経 「猪、かのししは知らず。戦は唯平に攻めに攻めて勝ちたるぞ、心地よき。」
とは、「逆櫓」に於ける源義経と梶原景時の掛け合い。「日本初のアイドル」とも言われる源義経は、「平家物語」のメインヒーローであり、その面目躍如とも言う べき名科白。この名科白は、
〉 源義経 「逆櫓を立ちょうとも、逆さま櫓を立ちょうとも、殿バラの船には百 丁、千丁でも立ちたまえ。義経は元の船にて行く可し。」
と言う胸のすくような短歌、もとい、啖呵で〆られる。これまた「詩的な文学」で あり、『イーリアス』『オデュッセイア』に始まる西洋叙事詩に対し、おさおさ引けをとるとは思われぬ。
殊に、同じ言語同じ文化同じ伝統を共有する、日本人に対しては。
事実、歴史好きだが文学史嫌い(*3)で理系の私(ZERO)が、中学だか高校だかの古典で習った平家物語の一節を未だに諳んじてしまうぐらいの影響力を、我(ZERO)が身以って実証してい る。
なるほど、上掲記事で大津雄一教授が指摘するとおり、「平家物語」を「国民叙事詩」と呼ぶのは、厳密な意味では「誤り」であろうし、「捏造」と評されるのも致し方ないかも知れない。
だが、西欧に於ける『イーリアス』『オデュッセイア』に相当する地位を、日本に於ける「平家物語」が占めていると言う主張は、大いに説得力がある。その事を、「国民叙事詩」「散文体の一種の叙事詩」と表現する事は、少なくとも文学的 表現として許容される範囲であろう。
よし「近代日本が国民叙事詩を必要とした」としても、「現代日本における平家 物語の価値」に、直接の影響はあるまい。
如何に、大津雄一教授。
<注釈>
(*1) 浅学 非才で理系な私は、『オデュッセイア』をダイジェストに知る程度で、何れも原文を読んだ事は無いと、告白せねばなるまい。多分読めないだろう事も。
(*2) 「天地をも動かし、鬼神を泣かしむる」と言う「和歌の効用」は、当時の日本人にとっては「冷厳たる事実」であったろう。
(*3) 告白するならば、平家物語の様な和漢混淆文は好きだ。