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 そりゃ「平和ボケ」ってのは、ある種の馬鹿ないし根源的認識欠如なんだから、間抜けなのは当たり前で、間抜けにならない方が不思議…と言うよりは、そもそも「間抜けでない」馬鹿や根源的認識欠如ならば「ボケ」何ぞとは呼ばれない。言い換えれば「間抜け」な惨状を曝すからこそ「平和ボケ」と呼ばれ、間抜けでなければ、まあ「平和主義者」とか何とか評価されるのだろう。
 
 であるならば、ある事象・対象が「平和ボケ」と判定される基準の一つは、「それが"ボケ"と呼ばれるほどの"間抜け"か否か」である。
 
 では、以下に掲載する特定秘密保護法案を巡る相変わらず毎日の社説と、連載社説第一回である東京新聞社説はと言うと…まあ、御一読あれ。

 
①【毎日社説】:秘密保護法案を問う 刑事裁判
毎日新聞 2013年11月18日 02時31分
 ◇「秘密」のまま処罰とは

 何が秘密なのかも秘密、というのが特定秘密保護法案の最大の特徴である。安全保障に関する情報が行政機関の判断だけで特定秘密に指定され、秘密は国民にその内容を知られることなく、半永久的に秘密のままであり続けることができる。

 こうした制度設計のもとで、特定秘密を知ろうと情報入手を試みた人が罪に問われ、刑事裁判の被告になったらどうなるのか。特定秘密は法廷でも公開されず、秘密の中身が明らかにされないまま有罪とされる可能性がある。憲法が保障する刑事裁判の適正手続きや裁判の公開に反する疑いがあり、被告の人権が守られない懸念は大きい。

 法案によれば、刑罰に問われるのは、特定秘密を漏えいした公務員や脅迫・不正アクセスなどによって特定秘密を取得した人だけではない。未遂も処罰されるほか、漏えいや取得をめぐって共謀したり、そそのかしたり、あおったりした人は、実際に情報が漏れなくても懲役5年以下の罰則が適用される。それは記者に限らず、知る権利に基づき情報を得ようとする市民も対象になる。

 法案は、特定秘密を行政側が捜査・公判のために検察側に提供したり、公判が始まる前の整理手続きで裁判所に提示したりするケースは認めているが、被告・弁護側への提示は認めていない。とりわけ問題になるのは、被告がそそのかしなどに問われ、特定秘密を入手していないケースで起訴された場合だ。被告・弁護側は秘密の内容を知らないまま争うことになり、大きな不利益を被る。

 立証のあり方も課題だ。国会審議で政府側は、特定秘密の中身を公開の法廷で明らかにすることはできず、代わりに「外形立証」という方法で立証可能と強調している。

 外形立証は秘密の内容をそのまま明らかにしなくても、秘密に指定された手続きやその種類、指定の理由などを立証して「外堀」を埋める方法。それによって、単に指定されたから秘密だというだけでなく、実質的にも秘匿するに値する内容だと推認できるとするものだ。
 
 1967年に摘発された外務省職員によるスパイ事件の判決などで外形立証が認められた例はある。だが、推認のレベルで有罪にできるのかとの疑問は法学者の間にも根強い。

 そもそも特定秘密の範囲があいまいなうえ、行政が恣意(しい)的に指定できる余地がある仕組みだ。そうした中で、秘密が秘密のままに裁判が進むことは極めて危うい。将来に禍根を残すと危惧せざるを得ない。
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②【東京社説】特定秘密保護法案(1) 自由に壁が築かれる
2013年11月18日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2013111802000144.html
 特定秘密保護法案は「戦争をしない国」から「戦争ができる国」に進める歯車の役目さえ果たす(*1)。

 
 日本版NSC(国家安全保障会議)を設ける法案とセットで提案されているうえ、その先には国家安全保障基本法案が見えているからだ。自民党の法案概要では、憲法九条を改正しなくとも、集団的自衛権の行使ができる魔法のような法案だ。

 同党幹部は米中央情報局(CIA)のような諜報(ちょうほう)機関を新設することも公言している。この文脈が示すのは、軍事や治安分野への傾斜度を格段に高めることだ。秘密保護法案をめぐる国会の議論は、この大きな視野が欠けている(*2)。

 政府は米国から情報をもらうために秘密保護法が必要だと説明する。だが、他国の軍隊や治安機関から情報を得るには、相互主義が基本である。「ギブ・アンド・テーク」が鉄則とされる。
 
 「秘密保護」という表面の言葉に惑わされず、裏面の「ギブ」にも注意を払うべきだ。米国に提供されうる重要情報である。現状は不明だが、その収集活動にあたるのは防衛・公安当局などだ。

 
 対象は中国や北朝鮮、イスラム系など在留外国人の動向にとどまらないはずだ。米軍基地の反対運動や反原発運動など、幅広い市民活動に対しても監視が強まるだろう。これを正当化し、本格化させるのが裏面の目的といえよう。

 そもそも、法案の前提にされる「日本はスパイ天国だ」という指摘は本当だろうか。安倍晋三首相が「過去十五年間で情報漏えい事件を五件把握している」と答弁したのが、正直な現状ではないか。現行法でも十分に対処できるうえ、立法事実も存在しない(*3)。

 もし、この法案が成立すれば、蛇口を閉じるように、行政機関からの情報量が大幅に減る心配がある。何が「特定秘密」かも明らかでないため、公務員側はジャーナリストの取材にたじろぐ。一般情報さえ口にしにくい空気が役所内部に醸成されよう。

 個人情報保護法ができたとき、さまざまな名簿が忽然(こつぜん)と消えた。それ以上の萎縮効果が広がるだろう。民主主義社会は自由な情報に基づいて築かれている。厳罰法制は、知る権利や報道の自由などに鎖をつけるに等しい(*4)。

 行政機関の情報漏えいならば、内部の情報保全を徹底すれば済む。社会全体に投網をかける必要はない。情報統制色を帯びる法案を成立させてはならない(*5)。 (論説委員・桐山桂一)
 
 

<注釈>

 
(*1) 国が「戦争できる」のは当たり前で、「戦争できない」のは国の怠慢だ。 
 
(*2) 逆だろう。戦後この方、日本国憲法前文世界を現実と勘違いした「平和ボケ」を克服するには、「軍事や治安分野への傾斜度を格段に高める」事が不可欠だ。「大きな視野」からも、特定秘密保護法は制定されるべきだ。 
 
(*3) 法律が無いのに、立法事実が無いのは、当然だろうが。「立法事実が無い」事を、「現行法で充分に対処できる」「日本はスパイ天国では無い」と主張する論拠にするとは、一体どういう論理構造、否、頭の構造なんだ? 
 
(*4) 軍法ならば、スパイは銃殺が通り相場ですが、何か? 
 
(*5) 情報統制が全く不要だなんて、何故断言出来るのだ? 
 

【問題】上掲毎日社説及び東京社説に欠けている根源的認識とは、何か?

 さて、如何だろうか。
 
 章題を【問題】形式としたが、これに対する「解答」は、上掲二紙社説に関する限りは、毎日と東京新聞とでは解答が異なろう。
 
 上掲①毎日社説について言うならば、【解答①】「秘密に対する認識」であろう。

 上掲①毎日社説「何が秘密なのかも秘密」というのが特定秘密保護法案の最大の特徴として、これを縷々非難糾弾しているのだが・・・「秘密にされて居るモノが何か、判っている」という事は、それだけである程度「秘密が漏れている」という事に、何故気が付かないのだろうか。

 例えば、今回制定される(であろう)特定秘密保護法によて特定秘密に指定される項目のリストがあったとしよう。このリスト自身が特定秘密に指定されず、あまつさえ情報公開されでもしたら、「我が国が何を秘密にしている/秘密にしようとしている」のか、一目瞭然とは言わぬまでも、かなりの程度知られてしまう事になる。これは我が国の国益に反する事だ。

 刑事裁判上の手続きや法律論よりも、我が国の国益を優先するほどの情報であるからこそ「特定秘密」に指定し、保護するのである。その全てかどうかは議論の余地はあるモノの、少なくとも一部は「秘密である事さえ秘密」とし、「秘密の内容は刑事裁判と雖も公開はしない」のが当然であろう。
 
 左様な認識が無いから、上掲①社説の様な間抜けな主張が「新聞社の主張」として公開され、公言されてしまう…まあ、平和ボケの当事者には、何が間抜けかさえも、判らないのであろうが。
 
 上掲②東京新聞社説についているならば【解答②】「国の、戦争に対する義務の認識」と言えよう。

 上掲②東京新聞社説の冒頭に、それは端的に表われている。
 
②1〉特定秘密保護法案は「戦争をしない国」から「戦争ができる国」に進める歯車の役目さえ果たす。
 
…いや、この冒頭の一文だけで、「殆ど生まれついての右翼」たる私(ZERO)なんぞは、呆れて言葉も無いのだが
 
 大凡国には、最低限存続して国民の生命財産をある程度保全し、国家安全保障を実現する義務があろう。「存続」も「保全」も常に完璧万全ではあるまいが、少なくとも努力する義務が。
 その義務の中には、「戦争に備える」と言うのがある筈だ。戦争に対処できるのは国だけであるから、「戦争に備える」事が出来るのも国だけ。言い換えれば、国には「戦争できるように準備しておく」義務がある。
 
 「戦争が出来る国」でも「戦争をしない」事は出来る。従って、「戦争が出来る国」と日本国憲法の言う「平和主義」は矛盾しない。(*1)
 
 なるほど、「戦争が出来ない国」は「戦争をしない」事しか選択のしようが無い。だがそれは、「戦争が出来ない国」は「戦争になってしまったら、自動的に負けてしまい、国が無くなってしまう」からだ。左様な「戦争が出来ない国」を目指すと言うのは、ある種の「国としての自殺」だ。 

 従って大凡国と言うモノは、「戦争が出来る国」である事を目指す。目指さないとしたら、それは国の怠慢だ。「平和主義」だの「平和国家」だの美辞麗句を付けた処で、怠慢であり間抜けであり「平和ボケ」である事に変わりは無い。否、左様な怠慢を隠蔽隠匿するための美辞麗句であろうと、推定するが至当と言うモノだ。
 
 で、「戦争ができない国」を目指せと、上掲②東京新聞社説は「情報統制社会の恐怖」を描き出しつつ公言してしまう訳だ…正に、絵に描いた様な「平和ボケ」。
 
 「平和ボケ」のままでいられて、何も問題ないと言う状態は、ある種の理想状態であり、「幸福な状態」ではあろう。
 
 だが、一朝問題が発生し、「戦争の危機」が訪れた時、「平和ボケ」且つ民主主義体制にある国では、そんな「幸福な状態」は忽ち雲散霧消し、存亡の危機を迎える。「戦争できない国」に対する「戦争を含む恫喝」は、極めて効果的であり、恐らく結果は「敗戦」ないし「敗戦並みの譲歩」に終わるだろう。
 
 そうならないための安全保障であり、「戦争ができる国」である…一寸冷静に考えれば、ごくごく当たり前のことなのだが。
 
 「平和原理主義」とでも呼び、理解すればよいのかねぇ。
 でも、納得はできないぞ。

 

<注釈>

(*1) 矛盾する様ならば、「日本国に自殺を強いる」ような日本国憲法の方が間違っている【強く断言】。
 ま、その出自=占領軍による大日本帝国解体を狙ったモノ からすれば、そんな「間違った憲法」であるのも、理の当然だが。