応援いただけるならば、クリックを⇒ https://www.blogmura.com/
タイトルに「狂気」とはしたものの、東京新聞の脱原発原理主義ぶりが最早狂気の域にある事は、既に何度も当ブログ記事にした処。そもそも「脱原発主義」ならぬ「脱原発原理主義」と、「原理主義の一種」と断じ時点で相当に「狂信的である」と言う意味が込められている。また、「脱原発」なんてのをまじめに主張するためには、左様な狂気・狂信が不可欠なのだろう、と、「福島原発事故を経てなお原発推進論者」たる私(ZERO)は推測している。
ああ、自分自身の事を「原発推進論者」として「原発推進原理主義者」とはしない理由は、何度も書いているが、「脱原発も原発推進も、エネルギー政策の一手段/一方針」と割り切っており、原発政策の上位にあるエネルギー政策の目的は「電力の安定供給にあり」と喝破/達観しているから。言い換えれば、「電力の安定供給に十分な目途を持つ脱原発策」ならば受け入れる/甘受する用意が私(ZERO)にはあるから、だ。
しかしながら、脱原発論者の、脱原発原理主義ぶりは、今日も今日とて裏書きされるばかりの様だ。
【東京社説】小泉元首相 まっとうな脱原発論だ
2013年10月31日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2013103102000160.html
小泉純一郎元首相が脱原発を唱えている。社民党の吉田忠智党首とも会談した。世論を喚起し、政府にエネルギー政策の転換を促すことが狙いだ。多くの国民がうなずけるまっとうな議論でもある。
会談で小泉氏は「世論を変えることで、脱原発に向けた政治決断をさせることが必ずできると確信している」と強調、原発推進に積極的な安倍晋三首相に「お互いの立場で脱原発を訴えていこう」と語ったという。
小泉氏は折々に原発ゼロは無責任だとする経済界などに対して、「核のごみを処分するあてもないのに原発を推進するのは無責任だ」とやり返してきた。
小泉氏には原発ゼロの思いを決定づけた伏線がある。フィンランドの核廃棄物最終処分場「オンカロ」や、脱原発を宣言して風力や太陽光などの自然エネルギー先進国に躍り出たドイツの視察だ。
「最終処分場は四百メートルの岩盤をくりぬいた地下にある。十万年後まで管理できるのか」「原発ゼロを自民党が打ち出せば、自然エネルギーによる循環型社会に向けて結束できる」などとよどみない。明快、かつ説得力も併せ持つ。
オンカロは世界でただ一つ着工された最終処分場であり、原発は「トイレなきマンション」も同然だ。日本には原発が燃やした一万七千トンの使用済み燃料が原発の建屋などに積み上がっている。
放射性物質が減衰するとされる十万年もの超長期にわたり、地震国の日本で安全な保管が可能なのか。学者の間にも懐疑的な意見がある。オンカロには、小泉氏に理解を得ようと原発メーカーの担当者も同行したが、逆に脱原発志向をより強固にさせてしまう事態を招いてしまったともいわれる。
いかに原発ゼロに近づけ、自然エネルギーを基幹電源に育て上げる社会を築くのか。小泉氏は、エネルギー転換こそが日本の未来をひらくと力説もするが、民主、共産、社民、みんな、生活の党など、原発ゼロを目指す勢力との連携には否定的で「それぞれの政党が努力していくべきだ」が持論だ。
「大方の国民は賛成してくれる」とも語っている。自民党にも脱原発グループが存在する。与野党、国民が束になっての原発ゼロへの挑戦が視野にあるのかもしれない。小泉氏は十一月十二日に東京で記者会見し、自らの脱原発論を語る。私たちも、日本のエネルギー社会のありようと、あらためて向き合う機会とすべきだ。
引退した政治家の無責任なパフォーマンス
さて、如何だろうか。
毎日新聞並びに読者諸兄に問おう。上掲社説に表れた「小泉脱原発論」の、一体どこが「まっとうな脱原発論」と評しうるのか?
私(ZERO)の立場は冒頭に記した通りだ。「まっとうな脱原発論」であるためには、最低限「電力の安定供給を阻害しない目途が必要」だ。然るに上掲東京新聞社説に表れる「小泉元首相の"まっとうな"脱原発論」と来た日には…
1〉「世論を変えることで、脱原発に向けた政治決断をさせることが必ずできると確信している」
2〉「原発ゼロを自民党が打ち出せば、自然エネルギーによる循環型社会に向けて結束できる」
…政治決断さえすれば実現出来るのならば、我が国は大東亜戦争に勝利していようが。そんな結束や確信や決断なんぞは、1kwとて発電しはしない。せいぜいが、節電によって発電需要を圧縮できるぐらいだ。
3〉 いかに原発ゼロに近づけ、自然エネルギーを基幹電源に育て上げる社会を築くのか。
4〉小泉氏は、エネルギー転換こそが日本の未来をひらくと力説もする
4〉小泉氏は、エネルギー転換こそが日本の未来をひらくと力説もする
とも「力説」したそうだが…ここで言う「自然エネルギー」は「基幹電源に育て上げる」必要があるのだから、水力では無い筈だ。水力はかつて、我が国電力のおよそ半分を占めていた、「基幹電源たり得る自然エネルギー」だ。だが、今では電力の1割しか占めていない。「水力の発電量が減った」訳では無い。「日本の電力需要が爆発的に増大した」結果である。水力発電は、自然エネルギーながら一定範囲で発電量を制御出来、尚且つそのレスポンスは「火力発電よりも早い」ぐらいの「理想的な自然エネルギー発電」なのである。国土が山がち(*1)である我が国の国情にも適しているが、残念ながら適しているだけに開発が進んでおり、ダムを利用した大規模水力発電には殆ど伸びしろが無い。小規模水力発電はこれからだが、こちらは数を増やしてもダムの発電量にはテンで敵わない。従って日本の水力発電は、「原発を代替する基幹電源」にはなりえない。
だが、水力はまだ良い方だ。「私の自然エネルギー推進論(*2)」で論じた通り、太陽光や風力はじめとする大半の自然エネルギーは「発電量が制御不可能」であり「大容量・高効率な畜放電技術」と組み合わせない限り「基幹電源たりえない」。尚且つ「大容量・高効率な畜放電技術」なんてのは、概念すらも未だ怪しい超技術。実用化から普及まで、一体何十年かかるのか、目途すら無い。
菅直人の最後っ屁「自然エネルギー発電全量高価買い上げ法」にも拘らず、我が国の太陽光や風力などの「水力以外の自然エネルギー発電」が、1%から1.6%に増えただけなのは、稼働率の低さ(*3)や必要面積の広大さもさることながら、「発電量が原理的に制御不可能」という事も影響していよう。今現在我が国で、原発を代替しているのは、火力以外の何ものでもない(*4)。
即ち、「自然エネルギーを基幹電源に育て上げる社会」は、その言葉こそ「美しい」と言えようが、「大容量・高効率な畜放電技術が実用化・普及するまでの間、火力か原子力に基幹電源を頼る社会」と、我が国ではならざるを得ない。無論、火力に頼れば、二酸化炭素排出量は確実に増えるが、そんな事は脱原発原理主義の東京新聞(*5)も、「まっとうな脱原発論」の小泉元首相も気にしない。
5〉「核のごみを処分するあてもないのに原発を推進するのは無責任だ」
と言うのだから、火力発電全面依存の、二酸化炭素排出量増大は決定的だ。鳩山由紀夫が「国際公約」した「二酸化炭素排出量の総量25%削減」なんてのは、反故にするつもりなのだろう(*6)。
だがそれは、「安定した電力供給」とは言い難かろうに。
法螺吹いてんじゃねぇよ。小泉元首相も。東京新聞も。
まあ、東京新聞は、いつもの事だが。
<注釈>
(*1) と言うよりは、海底山脈の山頂部分が海面上に突き出しているのが、我が日本列島と言っても、過言では無かろう。(*2) 私の自然エネルギー推進論―フクシマ後も原発推進の立場から http://www.blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/35778053.html(*3) 定格発電量に対し、太陽光で1割。風力で2割。冷たい計算式/推算式シリーズ参照(*4) また、「火力が原発を代替している」からこそ、電力料金値上げも現状程度で済んでいる。発電コストが原発・火力よりも若干高い水力の、さらに数倍である太陽光や風力が、もっと大きな割合を占めたら、電力料金はさらに上がり、尚且つ電力供給の安定性は低下する。(*5) 「最後の一行でアリバイ作り」で取り上げた東京社説は、二酸化炭素排出量を気にしていた東京新聞だが、あくまでも「原発以外の二酸化炭素排出量削減策はある」と抜かすんだから、やっぱり原理主義者は原理主義者だ。(*6) まあ、最大の二酸化炭素排出国であり、さらにその排出量を絶賛増加中の中国を何とかしなければ、地球上の二酸化炭素総量なんざぁ、減りはしないのだが。 中国の暴走-COP15直前 各国二酸化炭素排出数値目標の比較 ... http://www.blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/30844339.html
私の原発推進論&「自然エネルギー推進論」
① エネルギー政策の目的は、見通せる将来に渡って「電力の安定供給」である。電力を電力需要にあわせた必要充分な電力量を停電させずに安価に安定した電圧で給電する事である。② 現時点においては大容量の電力を蓄電する技術は、無い。精々が揚水式水力発電の上の方のダムに水として蓄える程度である。また、将来的に大容量蓄電技術が確立普及したとしても、蓄電して取り出す電力には必ず損失が付きまとう。③ 大容量蓄電技術が普及するまで、電力は、必要量に応じて発電し送電しなければならない。④ 必要に応じて発電できる、制御可能な発電力は、火力、原子力、大分落ちて水力である。⑤ 「再生可能な自然エネルギー」太陽光、風力、地熱、潮汐力などは、「態と発電しない」ことしか出来ず、原理的に制御不可能な発電力である。これは、発電コストが如何に安くなろうと変わりようが無い。⑥ 従って、大容量の蓄電技術が普及するまで、「再生可能な自然エネルギー」は発電の主役たり得ない。⑦ 少なくとも大容量の蓄電技術が普及するまで、発電の主役は、火力、原子力、大分落ちて水力である。これに付け加えられるとすれば、バイオマス火力発電ぐらいである。この中で原子力は、制御のレスポンスが鈍い恨みはあるモノの、比較的狭い敷地で大きな発電量を二酸化炭素排出なしで発電できる利点を持つ。また発電コストとしても、「福島原発事故に対する補償や対策を加味して漸く火力に負けるかも知れない」程度であり、水力に対しては依然優位である。⑧ 従って、火力と原子力は共に不可欠な発電方であり、水力以外の「再生可能な自然エネルギー」の発電量は、全体の1割程度とすべきであろう。尚且つ我が国では、水力発電の開発が進んでおり、水力発電の劇的増加は望めない。⑨ 以上から当然ながら、我が国に原発は不可欠である。我が国の現時点での脱原発なぞ、愚挙にして暴挙である。⑩ ドイツやベルギーがお気楽に「脱原発」を実施できるのは、電力が足りなければフランスの原発から電力を輸入できるからである。これら西欧諸国の「脱原発」は、「ナンチャッテ脱原発」と呼ばれるべきであろう。