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国を守るため」に、「戦争の準備」は、あって当然、無ければ不備。集団的自衛権はその一つである。QED


 さて、如何だろうか。

 上掲①は「記者の目」と銘打たれた毎日新聞コラムであり、上掲②は毎日新聞の社説。何れも安倍首相が進める「集団的自衛権の行使を可能にするための憲法解釈の変更」に対する反対論なのであるが、その反対理由を数え上げると、以下の通り。

(1) 集団的自衛権の行使には、解釈改憲では無く憲法改正が必要だ ①

(2) 「集団的自衛権の行使を可能にする」事を急ぐ目的や必要性が不明だ ①②

(3) 米軍の自衛力は高いから、集団的自衛権の行使=「自衛隊による米軍防衛」が必要な差し迫った課題は無い。①②

(4) 日本が他国の戦争に巻き込まれる事態も予想される。 ①

(5) 国民に理解してもらうのも難しいのではないか。 ②

 上記(5)は結構無理やり抽出したが、「新聞社としての主張」である筈の上掲②社説にあまりに「集団的自衛権の行使を可能にするための憲法解釈の変更」反対理由が少なかったから。だがまあ、上記(5)は「集団的自衛権行使の必要性を説明する(であろう)安倍首相」と、「それを理解するものと期待される国民」の問題である。毎日新聞は「オピニオンリーダー」として「国民の先頭に立つ」心算なのかも知れないが、突き詰めれば脇役であるし、「スッコンでろ」と言いたくなる。つまり上記(5)は、反対理由としては極めて弱い。少なくとも相当に「他力本願」だ。

 さはさりながら、従前の憲法解釈では「我が国は集団的自衛権を有するが、集団的自衛権の行使は憲法9条に違反する。」であった事は、上掲②社説にも縷々述べられている処。「有するが行使できない権利」なんてモノを「有する」と称し満足できてしまうのだから、憲法学者だの法律家だのってのは、余程二重思考に慣れているらしい。魂の自由を愛し、ダブルスタンダードも二重思考も嫌い、理系の人間たる私なんぞには、想像する事すら難しい(※1)。
 普通に考えれば「権利を有しているからこそ行使できる」のであり、「権利を有さないから行使できない」のである。第一「行使できない権利」なんてのは、「権利を有さない」状態と全く変わらない。これが「嫌煙権」のような「その権利を行使しようがすまいが大差はない」権利ならばそれでも良かろうが、「集団的自衛権」とは正真正銘掛け値なしに「国家の存亡に関わる権利」であろうが。

 その「国家の存亡にも関わる集団的自衛権」を「有するが行使できない」と言う奇怪な状態のまま放置しておけたのは、我が国にとっての僥倖であろう。

①1>  戦後の日本は戦争放棄を定めた平和憲法の下、経済優先の道を歩んできた。
①2> その中で、戦争への反省から「軍隊=悪」というイメージにとらわれ、
①3> 国防や軍隊について深く考えることを避けてきたように思う。

と言う、「安保バブル状態」で「平和ボケ」などと言う、ある意味相当な贅沢を享受できたのも、その僥倖あればこそ。

 だが、僥倖なんてものは、長続きするものでは無い。「安保バブル」=冷戦時代以前から、我が北方領土はソ連(当時)に、竹島は韓国に占領されていた訳だが、冷戦終結後は「安保バブル」ははじけ、北朝鮮の恫喝は「核恫喝」に格上げされ、尖閣諸島から沖縄にかけては中国共産党政権が「核心的利益」と称する領土的野心を剥き出しにしている。東日本大震災による自衛隊に対する好感度上昇・支持率向上があろうがなかろうが、「兵は凶事」と言う故人の言の通り、国防は国家の存亡をも左右しうる大事であり、国防の根幹は軍隊だ。我が国の軍隊とは、憲法が何と言って居ようと、自衛隊三軍に他ならない。

 「集団的自衛権を行使できない」とは、極単純には「同盟軍に当てにしてもらえない」と言いう事である。これは、直接的には交戦規程の問題であろうが、交戦規程の上流にあるのが個別的自衛権であり集団的自衛権である。従前の「日本は集団的自衛権を有するが、行使できない」と言う立場からは、「同盟軍を守る事は出来ないが、同盟軍は守ってね。」と要求する事に他ならない。そんな身勝手な要求が「常に通ると言うのが国家安全保障の前提」では、真面な安全保障は期待出来ない。上記反対理由(2)、(3)は「そんな(身勝手な)要求しなければならないケースは希ないし想定し難いとして反対理由としている訳だが、希なケース=非常時に備え、一日のために百年兵を養うのが、国防と言うモノ。上掲①②の毎日主張では、集団的自衛権が行使できないと困るような差し迫った具体的な課題」が現出してから「憲法改正を始めろ」と言うのだから恐れ入る。平和ボケも大概にするが宜しかろう。

 毎日新聞の平和ボケは、反対理由上記(4)にも表れる。そりゃ「行使できない集団的自衛権」の下では「他国の戦争に巻き込まれる事態」は減らせるだろうが、「自国の安全を危険に曝す」事でもある。大概の国が「当然ながら行使できる集団的自衛権を有する(※2)」のは、「他国の戦争に巻き込まれる」リスクよりも「自国の安全を確保する」メリットを優先し重視するからであろう。その逆を唱える上記反対理由(4)は、「我が国は侵略されない/戦争を仕掛けられない」と言う絶対的確信があるからなのだろうが…度し難い。「憲法9条に従ってさえいれば(集団的自衛権も行使しなければ)、我が国は平和安泰」と吹聴する社民党と、変わる処が無い。端的に言えば国家安全保障的気違いだ。

<注釈>

(※1) だからこそこの世は面白い、んだが。

(※2) と言うか、我が国以外で「集団的自衛権を有するが行使しない」なんて国を、私(ZERO)は知らない。無論、「私(ZERO)が知らない」だけかも知れないが。 



結果に着目すれば、交戦規程の確立が急務だ


 上記反対理由(1)「解釈改憲より憲法改正」と言うのは、ある意味「正論」ではあろう。が、現行憲法が制定された戦後この方、つい先日まで「憲法改正論議」事態がタブー視され、殆ど封印されて来た史実や、それ故に「解釈改憲」により「合憲」化された自衛隊三軍が存在する。この期間は「安保バブル」を享受し、「平和ボケ」を謳歌していた時代とも重なる。その間、集団的自衛権も、その下流にあたる交戦規程も、等閑に付して来た史実・事実は猛省すべきとしても、今為すべき事は、憲法改正議論の開始であろうか?

①4〉 首相が繰り返すように「断固として領土を守り抜く」ために何が必要か、
①5〉国民一人一人が考える絶好の機会だ。

 上掲コラム①の上記①4〉~①5〉の一文は、弊ブログの一番目立つところに鎮座ましましている記事「民主主義国家の国民には、一定レベルの軍事知識が不可欠である  http://www.blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/12932026.html 」に通じるものがあり、その意味で上掲①記事の中で珍しく同意できる点である。

 而して「断固として領土を守り抜く」上で絶対に不可欠であるのが、「戦時の想定」であり「覚悟」である。「戦時の想定」も「覚悟」も無いならば、日本に戦争しかける国にとってはまことに好都合で、その戦争は日本の負けに決まったも同然であるから、その戦争は引き起こされる公算大である。逆に言えば「戦争の想定や覚悟」を放棄する事は「対日戦争の誘引」に他ならない。

 「断固として領土を守り抜く」上で「戦争の想定と覚悟」が不可欠である以上、そこに直接影響するのは交戦規程である。例えば、他国の軍艦から射撃管制レーダー照射を受けていると判明した時に、即座に取るべき対応処置を定め、その措置の責任を明確にするのは交戦規程だ。交戦規程が不明確ないし「無い」場合は、現場の指揮官が独自に判断する事を強いられる。その結果「勝手に戦火拡大」となっても、「軍の暴走」などと非難は出来ない。独自の判断を強制された現場の指揮官=軍は、「暴走する事を強いられた」と、少なくとも弁解出来る。
 まあ、「軍の暴走」の責任問題なんてのは、些事だ。問題は「軍の暴走」を引き起こしかねない状態。これを回避するためにも、交戦規程は明確に定めなければならないし、公知周知される方が望ましい。無論交戦規程なんだから、集団的自衛権も個別的自衛権もその上流にあるモノとして関与する。憲法は集団的自衛権/個別的自衛権のさらに上流だ。

 であるならば、根源的急務は交戦規程の確立明確化であり、「集団的自衛権行使の合憲化」はその一背景。「解釈改憲か、憲法改正か」は「集団的自衛権行使の合憲化」の手段でしかない。

 手段と割り切れば、手っ取り早い方を選ぶのが正であろう。

 先ずは解釈改憲で、「集団的自衛権行使の合憲化」を為し、これに基づいて交戦規程を明確化する。憲法改正は、後から追いかけたって構わない…と考えるか否かは、詰まる所「交戦規程明確化」をどこまで急務と考えるか、にかかって来そうだ。

 で、上掲①②に表われ、折々表明される通り、毎日新聞は「交戦規定の明確化」なんて、殆ど考えていないんだろうな。めでたいったらねぇな。全く。