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先行する記事「読解力の問題― http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/38417792.html 」に於いて私(ZERO)は、昨年の沖縄県民大会決議全文と建白書全文を掲げ、これらが「オスプレイは危険だから、沖縄配備だけ反対」を主張しているとしか読めない事を論じ、左様な主張は「オスプレイが沖縄以外の何処で墜落しようが知った事ではない」と同義であるから「オスプレイに搭乗する米軍人も、沖縄以外の基地周辺住民も、いくら死のうが知った事ではない」と公言しているのであり、「非人道的なほどに利己的な主張である」と断じた。オスプレイ反対派を「非人道的なまでに利己的」と断じる主張は弊ブログ以外では滅多に見ないから、斯様な考え方は少数派ではあるのだろう。だが、オスプレイは既に採用後5年以上を経て実戦にも投入され、配備も着々進んで、今度は英国にも配備される以上、「オスプレイは危険だ」と断じつつ、その飛行停止・運用停止・製造中止ではなく「沖縄配備だけ反対」する事は、突き詰めて考えれば「非人道的なまでに利己的」とせざるを得ない。
「非人道的なまでに利己的」と断じるまでに、「突き詰めて考える」プロセスが必要なのは確かだろう。オスプレイがすでに実戦にも投入され、着々と配備され続けていると言う知識が無いと、県民大会決議や建白書が「沖縄配備だけ反対」と「だけ」付きである事に気づかない事もあり得よう。だが、一度「沖縄だけ配備反対」と、その理由たる「オスプレイは危険だから」と言う事象を結びつけたならば、「オスプレイに搭乗する米軍人や沖縄以外の基地周辺住民は無視している」と気付くのにには僅かばかりの想像力しか必要としない。「危険なオスプレイ」に対し「オスプレイに搭乗する米軍人や沖縄以外の基地周辺住民は無視している」という事は、「オスプレイに搭乗する米軍人や沖縄以外の基地周辺住民の危険を無視している」事であり、「オスプレイに搭乗する米軍人や沖縄以外の基地周辺住民はいくら死のうがあずかり知らぬ」事に他ならないと気づくのには些かの論理性が必要だろう。
だが、それぐらいの想像力と論理性=突き詰めて考える力は、普通の人間にならあるだろう、と私(ZERO)は考えた。小学生ではちょっと無理があるかも知れないが、中学生・高校生程度ならば十分に。だから、以下のいずれかの可能性がありそうだ、と考えた。
【Case1】 沖縄県民大会決議や建白書の主張や、オスプレイ沖縄配備(だけ)反対派の主張は「オスプレイは危険だから、沖縄配備だけ反対」ではない。全く別の解釈がある。
【Case2】 沖縄県民大会決議や建白書の賛同者や、オスプレイ沖縄配備(だけ)反対派の(少なくとも)一部は、「突き詰めて考えて」いない。「オスプレイは危険だから、沖縄配備だけ反対」と言う主張の持つ意味・意義を、些かの想像力と論理性を以って考える事を(まだ)していない。
「それぐらいの想像力と論理性=突き詰めて考える力は、普通の人間にならあるだろう」と考えた私(ZERO)は、上記【CASE2】の場合、「オスプレイは危険だから、沖縄配備だけ反対」と言う主張の持つ意味・意義を説き、その「非人道的なまでの利己主義性」を審らかにすれば、「オスプレイ沖縄配備(だけ)反対派」が減るなり、その主張を再検討なり、するのではないかと考えた。自らの主張が非人道的なまでに利己的である事にすら気づかぬほど理性を失っているのならば、理性を取り戻させれば、少なくとも建設的な方向(※1)に「オスプレイ反対運動」も向うのではなかろうか、と。
どうも、大いに甘かったようだ。
オスプレイ沖縄配備反対を大々的に掲げるブロガー、”星の歌”氏( http://blogs.yahoo.co.jp/kirikumi299/9946675.html .)及び”アワモリ ”氏( http://blogs.yahoo.co.jp/awamori58/39655985.html)との一連のコメント応酬から判明した事は、少なくともオスプレイ沖縄配備反対派の一部は、沖縄県民大会決議及び建白書に従い「オスプレイは危険だから、沖縄配備だけ反対」を主張するが、「オスプレイに搭乗する米軍人や沖縄以外の基地周辺住民はいくら死のうがあずかり知らぬ」とは「意図していないし、明言もしていないから、主張していない。」と、こう主張されるのである。私(ZERO)流に言うならば、己が主張の意味意義を「突き詰めて考える」事をしていないと公言するばかりか、「する気も無い」、もしくは「する能力が無い」と、自白している。即ち、私の想像外のCaseが存在した訳だ(※2)。
【Case3】 沖縄県民大会決議や建白書の賛同者や、オスプレイ沖縄配備(だけ)反対派の(少なくとも)一部は、「突き詰めて考え」ない。「オスプレイは危険だから、沖縄配備だけ反対」と言う主張の持つ意味・意義を、些かの想像力と論理性を以って考える事をしない、もしくは出来ない。
上記【Case3】を、どう評価すべきだろうか。上掲コメント応酬では「些かの想像力と論理性を以って考える事をしない、もしくは出来ない。」事を以って「思考停止」と断じ、糾弾している。「知性と理性こそ人類最強の武器(※3)」と信じる私(ZERO)としては、斯様断じる他なかった。再三繰り返す通り、オスプレイは既に配備され、着々と配備され続けている。これに対し、「危険なオスプレイ」を「沖縄の空から排除する」事で事足れりとし、あまつさえ「米軍兵士をオスプレイ反対運動に誘ってはどうか」と言う当方提案に「英語が出来ないからお任せする」などと間抜けな回答を返すようでは、「オスプレイに搭乗する米軍人も、沖縄以外の空も、思考の範囲外」としか、理解のしようが無い。
で、左様な当方指摘に対し、『「オスプレイは危険だから、沖縄配備だけ反対」を主張するが、「オスプレイに搭乗する米軍人や沖縄以外の基地周辺住民はいくら死のうがあずかり知らぬ」とは「意図していないし、明言もしていないから、主張していない。」』とは、以下のいずれかを意味するものと、考えられる。
【Case3-1】「オスプレイに搭乗する米軍人も、沖縄以外の空も、思考の範囲外に置くし、それで構わない。」
【Case3-2】「オスプレイは危険だから、沖縄配備だけ反対」と言う主張は金科玉条であり、一言一句、改変も解釈も演繹も許さない。
【Case3-2】は、恐るべき教条主義であり、思考停止と言うより強制的な思考硬直であり、大凡魂の自由に一定の価値を見出す者には耐えがたい状態であるが、「オスプレイ沖縄配備反対派(の一部)」が左様な状況にある事は、あり得る事だろう。ま、自由意思で加入脱退出来る限り、「オスプレイ沖縄配備反対派(の一部)」がいかに教条的でも、それこそ「私(ZERO)の思考の範囲外」ではあるが。
【Case3-1】は…これは「いくら死のうが構わない」と言う処まで「突き詰めて考えようともしない」だけで、「沖縄さえ良ければ良い」と言う事。「非人道的なまでに」と断じるには議論がありそうだが、利己的である事は間違いようが無い。
それにしても「危険なオスプレイ」に対しては、「オスプレイに搭乗する米軍人や沖縄以外の空」にも思いめぐらすのが、「人の道」だとは思うのだが、それを放棄し、試みようとすらしないのは、何故だろうと考えた時、思い当たるのは「無責任」の一語である。
「オスプレイは危険だから、沖縄配備だけ反対」とは主張するが、沖縄だけが問題であり、それ以外の米軍人や沖縄以外については、言及どころか意識すらもしない。既に配備が開始され、さらに配備が進む「危険なオスプレイ」が「沖縄の空に居さえしなければ良い」と言うのは、「オスプレイは危険」と知る者としては相当無責任である。また、「オスプレイは危険だから、沖縄配備だけ反対」との主張が演繹すれば「オスプレイに搭乗する米軍人や沖縄以外の基地周辺住民はいくら死のうがあずかり知らぬ」となると考えないのは、世情を騒がす「SNS悪ふざけ写真」の「その場さえ良ければ事後の影響は考えない/考えられない無責任ぶり」と相通じるものがあろう。
逆に言えば、SNS悪ふざけ写真にも通じる「オスプレイ沖縄配備(だけ)反対運動の無責任ぶり」は、「流行の最先端」という事も出来そうだ。無論、褒め言葉ではない。
だが、以上の通り考察すると、「ちょっと普通の人間では考えられない(と、私=ZEROは考えていた )程の想像力と論理性の欠如、或いは無責任」が「オスプレイ沖縄(だけ)反対運動である」。と断じる解釈=【Case3】~【Case3-2】の他に、別の解釈が見えてくる。即ち、
【Case4】「オスプレイは危険だから、沖縄配備だけ反対」と主張してはいるが、実は「オスプレイは危険ではない」と承知している。
オスプレイ、特に海兵隊型オスプレイの飛行実績が高い安全性を示している事は、統計学上明らかだ。「10万飛行時間当たりのカテゴリA(重大)事故率1.93件」と言う下手な民間航空会社が裸足で逃げ出す低い事故率=高い安全性は、その後に発生したカテゴリA事故によって変動している筈だが(※4)(※5)、軍用輸送機としては充分な安全性であり、それ故にVIP輸送機として採用もされれば、米軍人たちも文字通り「オスプレイに命を預けている」のである。実は「オスプレイは危険ではない」と承知していれば、「オスプレイは危険だから、沖縄配備だけ反対」と言う主張の「非人道的なまでの利己主義性」は免れる。
無論、【Case4】の場合、「オスプレイは危険だから、沖縄配備だけ反対」と言う主張の、前提条件が崩壊するのだが。
それでも「オスプレイは危険」と主張し続ければ「県民の不安は払しょくされない」と言い続ける事が出来る。否、「県民の不安は払しょくされない」と言い続けるためには、「オスプレイは危険」と主張し続けなければなるまい。実際に危険であるか否かに関わらずであり、寧ろ「実際には安全」であってくれた方が都合が良い。
以上の考察からすると・・・
【Case4】が真実ではないのかね?オスプレイ沖縄配備(だけ)反対派よ。
<注釈>
(※1) 上述の通り「オスプレイは危険だから、沖縄配備だけ反対」と言う主張が「非人道的なまでに利己的」と気付くのに必要なのは、些かの想像力と論理性だけ。それが日本政府や米政府、米軍の「誰にもない」なんて事は、想定し難い。となれば、特に米軍が、「米軍兵士なんかいくら死のうと知った事ではない」と公言する者を、真面に相手する訳が無い。「前向きに善処します」とか何とかリップサービスするのが精々だ。これは「オスプレイ沖縄配備反対運動」としても不毛な…筈だ。(※2) 無理やり県民大会決議や建白書を曲解して、【Case1】なんじゃないかと、想像していたんだが。(※3) 断わっておくが「万能だ」なんて主張する気はないよ。あくまでも、人類が保有する武器の中で最強、と言う意味だ。(※4) 一概に「1.93件より上がった」とは断定しかねる。その後も無事故で積み重ねた飛行時間があるから。まあ、多分、「上がって」は居るのだろうが。(※5) 事故率は増減するが、事故件数は増加しかしない。だから、「墜落事故が後を絶たない」なんてのは、大凡ありとあらゆる現役航空機に対して使える表現だ。些か極言ではあるが、「墜落しない航空機は、飛ばない航空機だけだ。」