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結論: 纐纈厚氏は、真の歴史学者ならず
「曲学阿世の徒(きょくがくあせいのと)」と言う言葉がある。吉田茂が好んだフレーズで、「世に阿(おもね)って、学問を曲げる輩」と言う意味。真の学問を追求せず、世情世論など(※1)に迎合し、「ウケの良い学問・学説を為す似非学者」の事。実験と検証を旨とする自然科学では容易には発生しない(※2)が、実験や検証よりも説得力が幅を効かせ易い人文科学では往々にしてこういう似非学者が発生する。
そんな「曲学阿世の徒」なんて言葉を思い出したのは、前の章までの考察を踏まえて、山口大学副学長たる纐纈厚氏を、「真の歴史学者」ではないと、考えたから。その理由を列挙すれば、以下の通り。
① 史実・事実を一面的に恣意的に評価している。
それ故に、「投入兵力と戦費」だけで「大東亜戦争(通称・太平洋戦争)の敗因」を断定出来てしまう。
② 異論異説を許容寛容しない
「正しい歴史認識」などと公言できるのは、「それ以外の歴史認識は、正しくない」と言う断言である。
さらには、これは、「学問の自由」の否定でもある。学問の自由を否定する者は、断じて学者ではない。
③ 歴史認識が現代政治に与える影響を、画一的・ステレオタイプに考え、公言している。
「こういう歴史認識を持つ者は、こういう抗議行動をする筈だ/するべきだ」などと言う断言を、歴史学者が歴史学者として、できる訳が無い。歴史学者が影響するのは、せいぜいが「歴史認識」まで。その歴史認識がどんな行動として発現するかは、各個人の自由意思だろう。(※3)
纐纈厚氏は、扇動者、あるいはうんと贔屓目に見て、政治家か教育者、ではあるかも知れない。
だが、章題にした通り、「真の歴史学者」ではない。
而して、真の歴史学者ならず、「曲学媚中の徒」とも言うべき纐纈厚氏が、上掲記事の通り結構な現政府・現政権批判を公言できるのは我が国の言論の自由のおかげであり、上掲記事にもある「トンデモ大東亜戦争(通称・太平洋戦争)敗因論」を出版・刊行できるのは、我が国の学問の自由のおかげである。
<注釈>
(※1) もともとの意味では、多分、為政者・政府・権力に阿って(※2) そうはいっても、政治的背景などで、発生することはある。(※3) 仮に「歴史認識の統一」なんて思想統制が、完了したとしても。まあ、そんなことを実施しようなんて「独裁者」は、その後の「行動」まで指導扇動しそうであるが、その「独裁者」は、決して「真の歴史学者」ではないだろう。学問の自由とも、思想言論の自由とも、相容れない存在だ。