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私は、逆立ちしたって美食家ではない(*1)。流石に若い頃の様に人民解放軍ばりドクトリン「質より量!」を標榜する事はなくなったが、「美味さに大金を払う」と言う感覚も理解できなければ、「食は三代」なんて言葉はもっと理解できない。三世代かけて出来ることが「真の美食家になる事」では、ソリャ「”売家”と、唐様で書く三代目」にもなるわなぁ、と、半ば呆れてしまう。
だから、「ミシュランガイド」なる本も、「有る事は知っている」ばかりで、見た事も無ければ読んだことも無い。勿論買ったことも無ければ、買う気はもっと無い。それでも…このWSJ紙記事には、一定の価値を認めてしまった。
<注釈>
(*1) 他に( 思いつくまま )私が「逆立ちしたってなれない/なりたくないモノ」を挙げるならば、一神教徒、原理主義者、共産主義者、芸能好き・・・結構あるな。ま、この身は一つで、私は器用な方ですらないから、そんなにあれこれ手を広げた所で失敗する。Que Cera Cera whatever will be will be.
【WSJ】アジア版ミシュランガイドに意味はあるか?
http://jp.wsj.com/article/SB10001424127887324829004578269300732280858.html
By ADAM LIAW
1世紀余りにわたり、ミシュランガイドは星の数で欧州のレストランの一流度を示す目印となってきた。星を1つ獲得すればシェフとしてのキャリアを築き上げることができるかもしれないし、もしくは星を1つ失えば逆にそこでキャリアを失いかねない。しかし、このフランスの小さな赤い表紙の本は、5年前に発行され、現在では3地域を数えるアジアではどれだけの意味があるだろうか。
2000年代半ばに東京に住んでいた筆者がランチを食べるのにお気に入りだったレストランの1つは、青山にある日本料理店「えさき」だった。こぢんまりとした店構えで、ランチセットが5000円と手ごろな値段だったが、料理は素晴らしかった。店の自慢料理である百合根(ゆりね)団子――百合根の団子とパリパリとしたせんべいが風味豊かな出汁に入っている――は筆者の人生で一番のお気に入り料理の1つだ。東京で2008年に発行された最初のミシュランガイドで、「えさき」は二つ星を獲得し、後に三つ目を得た。
だが、筆者はその後、そこで再び食事をすることはなかった。
ミシュランガイドが日本で発売された際、伝統的な欧州中心主義のミシュランスタイルがあらゆる方面から非難された。レストラン経営者、批評家、それに一般大衆までも、一部のレストランがミシュランの星を得る一方、すでに名声を得ている他のレストランが見過ごされるのはどうかと議論した。
Magnolia Pictures
ミシュラン3つ星レストラン「すきやばし次郎」の店主・小野二郎さん(左)
ミシュランによると、ガイドを編さんするに当たっては、日本人の調査員が欧州の調査員と一緒に作業したという。だが、多くの日本人は、外国人の調査員が日本料理を情報に基づいて評価する際に要求される経験が足りないと確信していた。(最初の東京ガイドに関わった5人の調査員のうち、2人は日本人で3人は欧州人だった。)
西側諸国のシェフや批評家らは日本のミシュランガイドの評価が甘すぎるとして不満をあらわにした。東京は世界のどの都市よりも星の数が多く、比較的規模の小さな人口150万人の街、神戸でも十数軒のレストランが二つ、もしくは三つ星を獲得した。これはロンドン全域より多い。
日本でミシュランガイドが発行された初期の頃は、星を獲得した日本のレストランのごく一部がこれは外国のものだとして、これを取り合わないと主張した。なかには、ミシュランに店の写真を入手させなかったところもある。これはガイドブックに載らないようにする効果的な方法だった。しかし、ほとんどの店は、おそらく評価を期待していなかったこともあり、それを喜んで受け入れた。
「ミシュランガイド東京・横浜・湘南」は現在、5版目が出版されているが、全員日本人の7人の調査員によって監修されている。初期の頃の批判はほとんど静かになったが、欧州のミシュランガイドは料理界の最高の栄誉とみなされているかもしれず、米国でも国際的な支持を得ている兆候があるが、アジアの場合は依然として、外国人による評価として扱われている。
もちろん、アジアの地元で暮らす人々はおいしい店を探すために外国のレストランガイドなど必要なかった。口コミから新聞、雑誌、それに日本では「食べログ」、香港では「オープンライス」といったサイトに至るまで、ミシュランが登場するずっと以前からおいしいレストランについて人々は情報交換していたし、フランスのガイドがどのレストランを評価するかは関係なく、この先も地元の評判を信頼し続けていくのだろう。
それでもなお、ミシュランには読者がいる。香港の人目につかない場所にある点心専門店の「添好運」は世界で最も安く食べられるミシュランの星がついた店と言われ、そこに並ぶ人の列は常に途切れることがない。だが、最近、店に並んでいるのは人の多くは西側諸国やアジアからの旅行客だ(彼らは電話で事前に点心を注文しておくことを知っている)。一方、東京で三つ星をつけた10席しかない銀座の「すきやばし次郎」は予約を取るのが至難の業だ。ミシュランに動機づけられた海外からのほとんどの旅行者は、外国人が利用しやすい六本木の店へ行くように奨励される(星は二つしかないが)。
「えさき」がミシュランの星を獲得してから、何年も筆者がこの店に行っていないのは、店が上流気どりになったからでも、品質や価格がどうにかなったわけでもない。料理は特別に素晴らしいままだし、価格も筆者が通っていた頃からほぼ変わっていないと聞いている。しかし、ミシュランが発行された後の東京では、店の予約をとることが、筆者にはとても克服できるものではなくなってしまった。これはおそらく、小さな赤い本の威力の証しなのだろう。
完璧なガイドや賞、レストランレビューはない。どれも批判から逃れられない。アジアのミシュランは欧州で得ているほどの尊敬を受けていないかもしれず、品質に関する疑問の余地ない承認とも受け止められていないかもしれない。本質的にミシュランは1つの解説であり、だからこそ、それは議論の終わりなのではなく、むしろ議論の源なのだ。
単純な真実はこうだ。仮にミシュランガイドがアジアで意味がないのであれば、誰も話題にすることさえないはずだ。だが、現実はこの通りだ。
(アダム・リャオ氏はシェフで作家、TVプレゼンター。2010年に豪州の人気料理番組「マスターシェフ オーストラリア」で優勝した。リャオ氏は世界中で暮らし、働き、食べてきた。滞在した国のなかにはオーストラリア、マレーシア、中国、インドが含まれ、最近は7年間、東京で過ごした。リャオ氏は常に、おなかをすかしている。)
空腹は最高の調理人
さて、如何だろうか。
正直言って、「やはり私(zero)は美食家ではない/美食家になれない」と再確認せざるを得ない。「5000円のランチ=昼食」を「手ごろな値段」なんて、思う処さえ想像できない。だが、上掲記事を書いたリャオ氏を紹介する最後の一文、即ち・・・
> リャオ氏は世界中で暮らし、働き、食べてきた。
> 滞在した国のなかにはオーストラリア、マレーシア、中国、インドが含まれ、最近は7年間、東京で過ごした。
> リャオ氏は常に、おなかをすかしている。
には、共感を覚える。
左様、世に数多居る料理人たちと、それ以上に居るだろう美食家たちには申し訳ないが、章題にもした通り、「空腹は最高の料理人」である。
無論、この「空腹」と言うのは、飢餓状態とか絶食状態ではなく、「健康的な空腹」であり、一定程度の健康状態を維持している事が前提であるが。
空腹コソは、我が名誉(Really?)