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一般論からいこう。須く、国家たるモノは、戦死者・殉死者を追悼し、敬意を表するものである。その形式こそ無名兵士の墓の様に記念碑であったり、アーリントン墓地の様に国営/公営の墓地であったり、種々あろうが、根源は「国家による公式な戦死者・殉死者への追悼」である。さらには、その追悼に、戦死者の従事した戦争の勝敗は無関係である。アーリントン墓地には朝鮮戦争やベトナム戦争の戦死者も葬られているが、アメリカにとって朝鮮戦争は「引き分け」、ベトナム戦争は「負け」であろう。
考えれば当たり前のことだ。国家が戦死者・殉死者を追悼するのは、「国家のために命を捧げた人たち」に国家として当然の謝意を表すると同時に、その英霊たちに続く、「国家のために命を捧げる覚悟を擁する人たち」を、少なくとも一定数確保するため、だ。左様な「確保」を国家がもくろむ理由もまた自明であろう。即ち、「国家危急存亡の折りに、国家に命を捧げる者がいなければ、その国はあっさり滅びるほかないから。(※1)」いわば、国家の自衛手段として、「戦死者・殉死者を国が公式に追悼する」事は必要であり、それ故に、洋の東西を問わず「戦死者・殉死者を国が公式に追悼する」事は国防上の大問題なのである。
ここで「国防上の」と言うのは「如何にして戦争に勝つか」と言う「戦略」よりもさらに上位の、「戦略準備」あるいは「戦略前提」のレベルの問題である。勝ち戦だって、ふつうは戦死者は出るのだから、当然だ(※2)。
また、この場合、戦死者・殉死者は「国に命を捧げた」のであるから、「戦争で死んだ民間人(※3)」たとえば「空襲で焼死した民間人」とは区別されなければならない。「戦争で死んだ民間人を追悼する」事は国として当然のことではあろうが、それと「戦死者・殉死者を国が公式に追悼する」のとは、自ずと意味が違う。
以上は一般論である。古今東西と言って良いぐらい、須く国家は「戦死者・殉死者を公式に追悼する」モノであり、以て「英霊達に続く者」を、いわば「養成」するのである。
翻って我が国で言えば、「戦死者・殉死者を公式に追悼する」施設は、基本的に戦前戦中戦後を通じ、一貫して靖国神社である。近隣諸国(※4)がなにやら騒いだり、その尻馬に乗って日本のマスコミやら世界のマスコミやらが騒いだりもするが、上記の通りの一般論からすれば、騒ぐ方がどうかしている。況や、「宗教と政治の分離」をたてに「靖国神社公式参拝」を「憲法違反」と判決するようでは、それもまた憲法九条と共に「GHQ占領憲法の欠陥」とするべきだろう。政府が公式に英霊達を追悼するからこそ、「英霊達に続く者」を「養成」出来るのだから。
大東亜戦争を、「侵略戦争だ!」とか「間違った戦争だ!」として「A級戦犯分祭」を主張する者もあるが、浅慮どころではない。大東亜戦争に対する評価とは別に、「国に命を捧げた」からこそ、国は公式に追悼するのである。此は、英霊達に対する敬意である。戦争の勝敗も正邪も、A級もC級も、「先も大戦に対する反省」も、関係ない/関係させるべきではない(※5)。左様な反省は、「次の戦争に勝つこと」と同様に、次の戦争へ向けて必要ではあろうが「戦死者・殉死者を公式に追悼する」のとは、別の話。次元が違う。
「誰もがわだかまりなく追悼できる」として靖国神社に代わる「新たな追悼施設」あるいは「無宗教な追悼施設」なんて提案をする者もあるが、本気で追悼する気のない者が吐く戯れ言としか思われない。大体、「無宗教で追悼」なんて、表現からして言語矛盾である。何をどうするというと「無宗教で追悼」出来るのか。「神社でも仏閣でも教会でもモスクでも無く」した所で、「死者の魂」を仮定した時点で、それは(※6)宗教以外のナニモノでもなかろうが(※7)。
ただ単に「新しい」に至っては、言葉もない。大東亜戦争集結からも70年になろうという今頃になって、その約70年間追悼施設であった靖国神社を凌駕する(※8)「新たな追悼施設」を、一体何をどうやって作り、そこでどんな「追悼をする」モノか。そりゃ今現在ある「伝統ある」靖国神社に参拝しても「形式だけ」という輩も、中には居よう。だが、そんな輩が「新たな追悼施設なら、心を入れ替えて心から参拝する」なんて想像は全く出来ない。以前にも書いたが「新たな追悼施設」は、詰まるところ「誰も追悼しない施設」に堕する他ないだろう。
「新しい追悼施設に戦争で死んだ民間人も祭る」なんてのは言語道断だ。先述の通り、「国のために命を捧げた人」を祭るために「戦死者・殉死者を公式に追悼する」のである。
根源的なところ、「靖国神社に公式参拝する」と言うのは、単純に「過去の英霊達を祀る」為だけではない。
「現在及び未来の英霊達を「養成」する」為なのである。
それ故にこそ、首相は、閣僚は、国会議員は、靖国神社に公式参拝すべきなのである。
その公式参拝が「憲法違反」ならば、変えるべきは憲法の方であろう。
<注釈>
(※1) 「金もいらず、命もいらず、名誉も要らぬ者は、始末に困るものなり。なれど、天下の大事はかような者にしか任されん。」とは、確か大西郷の言葉。国としてはせめて、名誉で応えるのが、道理であろう。(※2) 逆に、「戦死者さえ出なければ、負け戦をしても良い」訳でもない。(※3) 一説によると、戦争で死んだ戦闘員と非戦闘員の割合で、戦闘員の方が上回っていたのは第1次大戦までで、それ以降は非戦闘員=民間人の死者の方が多いそうだから、この区別は案外重要だ。(※4) といっても具体的には半島は韓国と大陸の支邦・中国共産党政権、それにせいざい北朝鮮の三カ国ぐらいだが(※5) 大東亜戦争に対する評価で私(ZERO)に大いに異議があるのもさることながら、「次の戦争の正邪」がリアルタイムで「判る」と考えるべきではなかろう。「歴史的評価」なんて下せるのは、遙か後代の人間で、現場は「目の前の戦争にどう勝か/どう防ぐか」しかない筈だ。無論「私(ZERO)に異議がある」ぐらいだから、少なくとも「大東亜戦争の評価さえ定まっていない。」(※6) 「先祖崇拝」と呼ぼうが、「土着信仰」と呼ぼうが、呼び方には迷うかもしれないが(※7) 最大限好意的に解釈すると”「無宗派の追悼施設」を言い間違えた”と、解釈しうるが・・・「無宗派」にすることで「近隣諸国の批判をかわせる」なんて、本気で思っているのか?思っているならば、正気を疑うぞ。(※8) 「凌駕しない」のならば、そもそも「新しい」意味が全くなくなる。敷地面積や設備の豪華さだけ「凌駕」しても同じことだ。「凌駕する」には、少なくとも戦後約70年間参拝され続けた「重み」を凌駕しなければならない。
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(3) 大局観とは、片腹痛い-【朝日社説】「靖国問題―政治家は大局観を持て」の浅はかさ http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/38120591.html(5) 菅内閣、靖国神社に参拝する閣僚皆無-売国行為にして統帥権の放棄であろう- : http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/33387365.html(6) 首相は靖国神社に堂々参拝すべきである。-麻生首相の靖国参拝に中国が不快感を表明- http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/26506407.html