応援いただけるならば、クリックを⇒ https://www.blogmura.com/
麻生副首相ら閣僚をはじめとする国会議員の靖国神社参拝に、例によって例のごとく中国・韓国が「反発」し、これに日本のマスコミが阿ると言うのもいつもの図式である。三アカ新聞と当ブログが読んでいる朝日やら沖縄二紙、さらには三アカに準じる毎日が(※1)それぞれ社説に取り上げて、「中国、韓国との友好が大事」だの「大局観を持て」だの、いつも通りの尤もらしい小理屈で中国・韓国を支持・擁護し、靖国神社参拝に反対している(※2)。
一方で、麻生副首相ら国会議員の靖国神社参拝を支持し、安倍首相の靖国神社参拝に期待する、つまりは当ブログのような社説を掲げるのは産経のみ。「社説比較」シリーズでは時に「産経グループ」と呼ばれる事もある読売からして、こんな社説を掲げている。
<注釈>
(※1) 今回、三アカに準じる東京は未だ社説に取り上げていない様だ(※2) ああ、沖縄二紙だけはチョイと違うな。「歴史問題」ってやぁがる。歴史認識の違いなんだろう。
【読売社説】閣僚の靖国参拝 外交問題化は避けるべきだ
(4月24日付・読売社説)
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20130423-OYT1T01545.htm
日本政府には予想外の反応だった、ということではないか。
韓国の尹炳世外相が、26、27日に予定されていた日本訪問を中止した。麻生副総理ら閣僚3人の靖国神社参拝に対し、「侵略戦争の美化」と反発したためだ。
尹外相の来日は、5月下旬の日中韓首脳会談が中国の消極的姿勢で見送られる見通しとなる中で、議長国として会談開催の環境整備を図ろうとしたものだった。
緊張の高まる北朝鮮の核・ミサイル問題での日韓連携に加え、李明博前大統領の竹島訪問などで悪化した日韓関係を朴槿恵大統領の下で改善する機会でもあった。
それだけに、尹外相の来日中止は残念である。
韓国の外交姿勢には疑問が残る。従来、小泉首相の靖国参拝に反発して盧武鉉大統領が訪日を見合わせたことはあっても、閣僚の靖国参拝をここまで外交問題にしたことはなかった。
日本政府が、歴史認識をめぐる問題について「それぞれの国にはそれぞれの立場があり、影響を外交に及ぼすべきではない」と主張するのは、その通りだ。
戦没者をどう追悼するかは他国に指図される問題ではない。立場の相違を外交全体に極力影響させない努力が双方に求められる。
一方、菅官房長官は「靖国参拝は心の問題だ」と語り、麻生氏ら閣僚の参拝をことさら問題視しない考えを示している。
しかし、麻生氏らの靖国参拝が日韓関係に悪影響を与えたことは否定できない。政治も外交も重要なのは結果であり、「心の問題」では済まされない。麻生氏は副総理の要職にある以上、より慎重であるべきではなかったか。
首相は、かつて第1次安倍内閣時代に靖国参拝できなかったことを「痛恨の極み」と述べたが、歴史問題が外交に悪影響を与えないよう細心の注意を払って政権運営してもらいたい。
尖閣諸島の問題で日中関係が険悪になる中、まず日韓関係を改善することは、安倍外交にとって最優先の課題であるはずだ。
靖国神社参拝をめぐる問題の根底には極東国際軍事裁判(東京裁判)で処刑された東条英機元首相ら「A級戦犯」が合祀ごうしされていることがある。韓国や中国だけでなく、日本国内にも戦争を招いた指導者への厳しい批判がある。
誰もが、わだかまりなく戦没者を追悼できる国立施設の建立に向け、政府は議論を再開することも考えるべきだろう。
(2013年4月24日01時38分 読売新聞).
肝心なところが大間抜け
さて、如何だろうか。
中国や韓国を讃え、擁護したり、妙な歴史認識を振りかざしたりしない分は、朝日はじめとするアカ新聞とは一線を画して居よう。
読1〉 日本政府が、歴史認識をめぐる問題について
読2〉「それぞれの国にはそれぞれの立場があり、影響を外交に及ぼすべきではな
い」と主張するのは、その通りだ。
読3〉 戦没者をどう追悼するかは他国に指図される問題ではない。
読4〉 立場の相違を外交全体に極力影響させない努力が双方に求められる。
と言うのも、概ね首肯できる処だ。
だが、
読5〉 尖閣諸島の問題で日中関係が険悪になる中、まず日韓関係を改善することは、安倍外交にとって最優先の課題であるはずだ。
と、「日韓関係改善」を「最優先課題」と位置付ける辺りから、おかしなことになる。無論私の主張は、先行記事にある通り「靖国神社参拝は、単に歴史認識や、英霊に対する鎮魂と言う過去の問題ではなく、今現在の国家の安全保障に関わる問題」なのであるから、「おかしい」と感じるのは当然だ。
挙句の果てが上掲読売社説の〆は・・・
読6〉 誰もが、わだかまりなく戦没者を追悼できる国立施設の建立に向け、政府は議論を再開することも考えるべきだろう。
と言うのだから大笑い。これでは「〆」と言うより、「オチ」だ。
頭冷やして考えて見るが良い。「死ねば誰でも仏様」と言う我が国と違って、大陸は「罪人は死んでも罪人で、子子孫孫まで罪人」とされる処。半島はその「ウリナラ半万年」なる歴史の大半を「大陸の尻尾」として追従してきたところだから、ほぼご同様。「A級戦犯を分祀」しようが何しようが、「日本人が英霊として祀られている」限り、「誰もが、わだかまりなく追悼」なんてできる訳が無い。
第一、我が国の戦没者を追悼する施設に、日本人以外の追悼は、別になくても構わない。上記の通りの精神風土である大陸人や半島人の「追悼」は、特に不要だ。故に我が国で戦没者を追悼するのに、現存の靖国神社を変更やら代替やら、する必要なんざ、欠片もない。
第一、戦後も70年になんなんとする間。否、それどころか、戦前戦中を通じて、「戦没者の御霊が還る処」として靖国神社は祀られ、拝まれてきたのだ。今更何をどうして「新たな国立施設」を作ったところで、現存の靖国神社を代替できるものになんかなるモノか。せいぜいが「中国・韓国向けのパフォーマンス」でしかなく、仏作って魂入れずの見本。上記読6〉では「無宗教の」とは言っていないから、一応「拝むだけ」は出来るかも知れないが(※1)、新興宗教の祭壇以上のモノではない。
左様な「新たな国立施設」は、「誰もが、わだかまりなく戦没者を追悼できる場所」には、断じてならない。
そこは、最後には「誰も戦没者を追悼しない場所」に成り果てるだろう。
左様な「新たな国立施設」の顛末なんざぁ、実は些事だ。重大なのは、そんな施設のために我が国が「誰も戦没者を追悼しない国」に堕してしまう危険だ。
先述の通り、私(ZERO)が「日本国首相は、日本国首相であるが故に、靖国神社に公式参拝すべきである」とするのは、「戦没者を追悼すること」が、我が自衛隊三軍の士気高揚に役立つ他に、「戦没者に続く者」=「我が国のために戦死する覚悟を有する者」を、保持・維持・継承する効果があると信じるから、だ。
逆に上記読6〉の様な「新たな国立施設」を作って、そこに幾ら「首相が公式参拝」しようが、当の英霊たちが「祭られ、敬われている」と考えるとは思われない。無論、これは「思われない」だけなのであるが、所詮、死者の声を聴くのは生者の耳。生者の在り様で、聞こえる声も聞こえなくなるし、聞こえない声も聞こえるようになる。従って『当の英霊たちが「祭られ、敬われている」と考えるとは思われない。』と生者に思われる「新たな国立施設」に、死者の魂が「祀られる」訳が無い。せいぜいが「祀られた」と言う「形が出来る」だけ。何と空虚な「追悼施設」である事か。「無宗教である」のと、大差はない。
で、そんな砂上の楼閣頼りで「靖国参拝より日韓友好を主張する、上掲読売社説の、何と間抜けな事か。
<注釈>
(※1) これが「無宗派の追悼施設」であるならば、「拝む真似」しかできない。大体「無宗派」のくせに「追悼」しようなんて、図々しいのである。「無宗派の追悼施設」なんてのは、言語矛盾だ。