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 敢えて多くは語るまい。唯、「原理主義」について補足説明して、「原理主義」を頭の片隅に置いて、以下の朝日社説を御一読頂きたい。

 「原理主義」は、ウイキペディアでは「理念的な原理や原則を重視し、典型的には近代的な世俗主義を邪教とみなすような信念や傾向のこと。」とされている。が、これは「宗教的原理主義」を主として説明しているように思われる。以前から書いている処だが、当ブログでは「原理主義」を、「何らかの思想や主張を”原理”に祀り上げ、全てに優先させ、”原理”に反する事は全て無視ないし排斥する信念ないし傾向。」としており、それ故に「ある種の思考停止」と評している。

 さて、その上で御一読頂きたいのは、以下の朝日社説だ。

【朝日社説】大飯原発―司法の変化が見えない  平成25年04月18日(木)
http://www.asahi.com/paper/editorial.html

 「基準を満たしているか」ではなく、「どれだけ安全か」を追究し、問題があれば遠慮なくストップをかける。国内で原発事故を経験し、裁判所は変わるべきではないか。大阪地裁であった裁判は、そこを考える課題を残した。

全国でここだけ運転している関西電力大飯原発3、4号機の停止を、周辺府県の住民が求めた仮処分の申請だった。

大阪地裁は、2基の原発が国の今の基準を満たし、想定を上回る地震が起きても安全は保たれると判断し、求めを退けた。

住民側からは「時代に逆行している」との批判が相次いだ。

仮処分の審理は急ぐので、裁判所が住民と関電の主張を十分に聞いているわけではない。

それを考慮しても、原発事故後の初めての司法判断としては、期待はずれとの思いがぬぐえない。

住民側は、政府が決めた暫定的な安全基準は不十分だとし、原発周辺の三つの活断層が同時に動くなど、想定外の地震が起きれば重大事故につながる恐れがあると訴えた。

これに対し地裁は、暫定基準は「現在の科学技術水準に照らして合理的」と評価した。3連動地震が起きる恐れがあることは認めたが、関電側が主張した安全機能が働き、原子炉を問題なく止められると述べた。

政府が決めた基準を判断の根拠とし、それを満たしていれば安全とするのは、愛媛県の伊方原発をめぐる92年の最高裁判決以来の司法の主流だ。

専門家がつくった基準の是非を判断するのが難しいという考え方が根底にある。

ただ東京電力福島第一原発の事故は、時として科学の想定を超える災害が原発を襲い、甚大な被害をもたらす実例を突きつけた。暫定基準だけで原発を動かし続けていいのか。地裁はその判断に踏み込まなかった。

一方、原子力規制委員会が活断層かどうかを調べている敷地内の断層については「地滑り跡の可能性が高い」と述べた。

周辺で起きる津波の最大高さについても、安全限界を超えることはない、と判断した。

どちらもいま議論になっている問題だ。現時点で安全と断言するのは勇み足ではないか。

関電は近く、規制委の新規制基準に大飯が適合していると報告し、運転の継続を求める方針だ。ただ、基準が「100%の安全」を保証するものではないことは規制委も認めている。

3・11後の司法には、住民の安全の視点にたって、積極的な役割を果たしてほしい。


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原発事故で、司法が変わるか?


 さて、如何だろうか。

 殆どタイトルだけで中身の見当が付いて、また中身がその「見当」を裏切らない様な朝日社説だが、言わんとすることは明白だろう。

朝1】 司法は変われ。変わって大飯原発稼働停止を判決すべきだった

 本文の中で国の安全基準を疑問視したり、あたかも「100%の安全」を求めるのが当然かのごとく主張したりしているが、それらも上記朝1】に比べれば、些事だ。その事は、上掲社説最後の一文にも表れている。

1〉  3・11後の司法には、住民の安全の視点にたって、積極的な役割を果たしてほしい。

 さて、読者諸兄に尋ねようではないか。なるほど、東日本大震災と、それに続く福島第一原発事故は、我が国にとって戦後最大と言って良い大災害であり、大事件であった。だがそれは、「司法の判定基準を変える」様な事件・事象であるか。【Q1】

 上記1〉並びに上掲社説で朝日新聞は、住民の安全の視点にたってなどと婉曲表現しているが、要は脱原発・反原発」と言う「時流」或いは「100%安全の追求に従って、司法の判断基準は変わるべきだとしているのだが、果たして、それは、正しいか。

 朝日も朝日ならば、当該裁判で「敗訴」の形となった、「大飯原発稼働停止を求
める周辺住民(※1)」

2〉  住民側からは「時代に逆行している」との批判が相次いだ。

 さて、今度はその「住民側」とやらに尋ねようではないか。司法の判断基準は、「時代の流れにより変化する」モノではあろう。だがそれは、「時代の流れに先行する」ものであるべきなのか。言い換えれば、「司法は流行の先端を行くべきモノ」なのか。【Q2】

 先行する数多の記事で述べている通り、私(Zero)は「福島原発事故を経てなお原発推進論者」だ。「我が国で脱原発なぞ愚挙にして暴挙」と再三繰り返しているし、  「福島原発事故を経て脱原発に転じた国は西欧諸国数か国にしか過ぎず、それらも西欧の発達した電力網のお蔭で、不足すれば電力輸入が出来るのだからナンチャッテ脱原発でしかない」とも繰り返している。だから、当該裁判を起こした「大飯原発稼働停止を求める周辺住民」や朝日新聞からすれば「異教徒」も良い処だろう。

 だが、その「異教徒」が、「異教徒である事」を別にしても、上掲二つの疑問、朝日社説や「大飯原発稼働停止を求める周辺住民」ならば大声で【Yes】と答えるであろう疑問に、何れも【No】と答える。

 【Q1】について言うならば、事件や事故や災害が、直接「司法の判断基準を変える」なんて、滅多にあるものではない。況や「安全と証明されなければ危険」と判定し、「100%の安全」を追求するなんてのは、狂気の沙汰だ。

 【Q2】について言えば、司法の判断基準は政治動向や流行に左右されるべきではない。況や「民意の暴走」や「世論の発狂」に阿る何ぞ、問題外だ。

 で、そんな「問題外且つ狂気の沙汰」を堂々と主張できてしまう処が、「原理主義」だと言うのだ。この場合「原理」に祀り上げられているのは、「脱原発」或いは「絶対安全」であろう。

 まあ、何を「原理」に祀り上げて、勝手に思考停止に陥ろうとも、それは朝日新聞や「周辺府県住民」の勝手ではある。

 だが、「思考停止に陥った国民」を擁して居ては、民主主義体制は長くはもつまい。

 而して、我が国は曲がりなりにも民主主義体制だから(※2)、「国民が思考停止に陥ったまま」と言うのは、大いに困るんだがね。



<注釈>

(※1) 表記は周辺府県の住民」となっている。と言う事は、大飯原発の立地する福井県以外の住民と言う事だ。違うのかな。 

(※2) ソリャ、神ならぬ身の人が為す事だから、古今東西あらゆる社会と同様に「完全には程遠い」ものではあるが。