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リスクだけを言い、メリットを言わなければ、大概のモノの廃止を主張できよう

 さて、如何だろうか。

 社説二本、約四千字を費やしているが、主張している事はさほどないのではなかろうか。「ポイントが絞れている」と言えば肯定的評価だが、そのポイントを列挙すると、以下の様になろう。

 (1) 原発に対するテロや軍事攻撃も原発リスクだ(①)

 (2) 上記(1)のリスクを回避するには、全原発廃炉にして核燃料を特殊容器に格納すべきだ(①)

 (3) 福島原発事故の恐怖を、もう一度日本人で共有しよう。(②)

 こうして並べると、直接には書いていないが上記(3)の結論もやはり、上記(2)即ち全原発廃炉」=「原発ゼロである事は殆ど明白であろう。従って、四千字程の朝日社説二本は、ほぼ上記(1)~(3)の三項目に絞れてしまう。さらに絞り込んで「キーワード」化するならば、原発の恐怖と言う事ができよう。上記二本の社説を通じて、朝日新聞が訴えているのは「原発の恐怖」のみである。

 所で、その「原発の恐怖」。中身は何かと言うと、福島原発事故後の放射能に対する恐怖と言い得よう。水素爆発で吹っ飛んだ原子炉建屋と言えども、かの東日本大震災とその後の津波による被害に対し物理的破壊と言う点で本質的な差異はない。第一、その東日本大震災にも関わらず、当時稼働していた全原子炉は正常に稼働停止され、その後の津波でディーゼル発電機が冠水して機能停止するまで原子炉冷却にさえ何の問題も生じていなかったのだから、論理的に「原発そのものに対する恐怖」ではありえない。

 左様、論理的には、だ。感情的には「原発そのものに対する恐怖」たり得る事は認めるし、上掲朝日新聞社説もその二つを区別しているようには見えない。否寧ろ、両者を混合し、「福島第一原発事故に対する反省」を「原発そのもに対する恐怖」に変化させようとしているように見える。

 なるほど「恐怖」は感情だ。感情だから論理に従うとは限らない(※1)

 だが原発は、原発政策は、原発の存否は、我が国のエネルギー政策の根幹にも関われば、既に我が国の発電総量の3割を占める大黒柱(※2)なのだから、影響も甚大だ。非論理的思考や感情如きで、決められて良いものではない。よしそれが、「世論」であり「国民の願い」であろうとも(※3)、だ。

 であると言うのに、上掲朝日社説二本は、「原発の恐怖」を煽り、福島県の斎藤健治議長の言葉として以下のように引用している。

②1〉 「『原発は必要』という人ほど事故後の福島を見に来ない。
②2〉 会合の場でも言ったよ、自分で3号機の前に立ってみろって。
②3〉 そしたら再稼働なんて簡単に言えなくなる」

 Negative.否定。

 確かに私(Zero)は「自分で3号機の前に立ってみた」事は無い。それは認めよう。だが、そこに立ったとして見えるのは「破壊された3号機の惨状」でしか無かろう。ソリャそれだけ断言するのだから、それはそれは凄まじい惨状なのであろうが、所詮は水素爆発による破壊でしかなく、今回の福島第一原発事故で言えば、ディーゼル発電機が津波で冠水しないよう対策されていれば防げた事態だ。原発の安全性向上に福島第一原発事故の教訓を生かすのに「ディーゼル発電機の冠水対策」だけで事足れりと言うつもりはないが、相応に対策した原発を再稼働するのに、「3号機の惨状」が妨げになぞなるモノか。

 と同時に、「原発の恐怖」なる感情だの、上記②1〉~②3〉のような感情論・浪花節だのに頼って「原発ゼロ(※4)を主張する朝日社説に対して、如何に「脱原発原理主義」とは言え非論理が過ぎよう、と批難する。社説、新聞社の主張たる筈の社説が非論理的な感情論で、論理ではなく感情に訴えるだけならば、アジ演説と何の相違があろうか。まあ、全国紙の社説でアジ演説打つと言うのは、朝日新聞らしいと言えば朝日新聞らしいが…それは、「新聞らしく」はあるまい(※5)。

 だが、しかし、上掲①朝日社説にも一定の存在理由・存在意義はありそうだ。

 それ即ち、国防意識の高揚」と言う意義が(※6)。

 原発のリスクを考える上で、テロ攻撃や軍事攻撃も考慮すべきであると言う点には、私も賛同する。その上で、朝日新聞が上掲二本の社説を通じて全く触れようとしなかった原発のメリット、即ち、敷地当たりの圧倒的に高密度且つ制御可能な発電力や、発電に二酸化炭素排出を伴わず、燃料補給も長期にわたって不要である事を勘案して、やはり私は原発推進派である事を宣言する。

 テロ攻撃や軍事攻撃に対する対策は、なるほど完全ではないだろう。

 だが仮に朝日新聞主張する通りの「原発ゼロ」政策を決定し、全原発廃炉に決めたとしても、確かに「使用済み核燃料」は増えなかろうが、「未使用核燃料」と「使用済み核燃料」とが混在したまま処理しなければならなくなる。仮に使用済み核燃料と未使用核燃料の分離が可能で、未使用核燃料が転売できたとしても、「完全未使用核燃料」さえ買いたたかれるのだから、「リサイクル未使用核燃料」なんざもっと安く買われる事は自明だ。その経済的損失もさることながら、その分離やら転売やら、さらには原発そのものの廃炉にも、相当な、恐らくは着手してからでも10年以上の時間がかかる。この間、テロ攻撃や軍事攻撃に対する「まだ廃炉になって居ない原発による放射能のリスク」は、さして減らない(※7)。ソリャ稼働中の原発にテロ攻撃や軍事攻撃を掛けられるよりは低いリスクとなろうが、その程度のメリットしかない。
 対するデメリットは、先述の経済的損失に加えての核燃料分離や廃炉のコストは無論、失われる膨大な発電能力が挙げられよう。

 で、ここが肝心なんだが、章題にもした通り「リスクだけを言い、メリットを言わなければ大概のモノの廃止を主張できる」し、逆に「メリットだけを言い、リスクを言わなければ大概のモノの推進を主張できる」のであるから、原発であれ何であれ、その存廃を議論する上ではそのリスクとメリットと、両方を考えなければならない。それも冷静に、冷徹に、できれば定量的に、さらに重要な事には、自分の頭で、だ(※8)。

 「朝日新聞の社説がこう言っている」と言うのは「Zeroのブログ記事がこう言っている」のと同様に、参考意見でしかない。肝心なのは貴方が、貴方の意見を、貴方の考えを、どう組み立て、どう考えてるか、だ。

 「一身独立して、一国独立す」とは、福沢諭吉の言葉(※9)
 ここで言う「一身独立」は「一身自律」でもあり、己が頭で考え、己が意見を有する事を指そう。国民一人一人が左様な境地に達しない限り、「一国」は、少なくとも民主主義国家としては「独立」どころか「成立」すら、覚束ない。

 で、私(Zero)は読者諸兄に問おう。

 私は、福島原発事故を経てなお原発論者だが諸君は、諸君自らの意見では、原発をどうすべきと考えているのか、と。


<注釈>

(※1) とは言え、「知性と理性こそ人類の有する最大の利点」と考える私としては、「感情とて論理に基本的には従うべき」と、考えるが。 

(※2) 無論、福島原発事故後の管直人の延命パフォーマンス「ストレステスト」とその後の原子力規制委員会のごたごたで、今は殆どの原発が稼働停止、その分もう片方の大黒柱・火力が頑張っているのだが。
 ああ、水力以外の「再生可能な自然エネルギー」も「急速に増加」はしているな。だが、1%から1.4%に増えた程度では、水力の占める1割のさらに十分の一でしかないぞ。屁のツッパリと言うのさえ憚られる上、発電量が制御できないと来ている。気休めと言うよりは、自己満足だろう。 

(※3) それを「世論」「国民の願い」で決めると言う事は「世論の暴走」と呼ばれるべきだろう。 

(※4) 以前にも書いたが…いやな呼称だね。Zeroと名乗ったのは、私の方が先なだけに。 

(※5) それでかね。朝日新聞がネット上に無料で公開する社説を、とうとう当日の社説だけにしてしまったのは。「恥ずかしくて、翌日には頬被りして無かった事にしたくなる社説」と、自覚しているから、かね。 

(※6) 逆に言えば、「朝日新聞が、国防意識を高揚してまで原発ゼロを推し進める」と言う事態に、「脱原発派の黄昏=衰退化」を見るんだが、どうだろうか。 

(※7) ああ、定量的に評価したいところだなぁ。テロ攻撃や軍事攻撃によって原発が破壊された場合の影響をモデル化して、その確率を仮定すれば相応に計算できそうだが・・・ 

(※8) この辺の「異論・異説をも認める」態度が、ひょっとして「スタンスが一定しない」とか評価されてしまうんだろうか。
 だとしても私としてはこれを、「議論を極力客観的にするためのモノ」と考えているから、止める心算はサラサラ無いが。
 とは言え、こんな考え方ができるようになったのは、「お前(Zero)のスタンスは一定していない」と批判してくれたコメントのお蔭であるから、感謝しないといけない。
 森羅万象皆我が師。
 仲々実践はできないがね。 

(※9) 告白するならばNHKドラマ「坂の上の雲」で渡辺寛演じる秋山好古が引用していた科白の孫引きだ。あのドラマもあれこれ問題あるが、秋山好古と広瀬武夫をカッコ良く描いた点は、評価してよかろう。