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 当ブログで再三「脱原発原理主義」として槍玉に上がっている東京新聞が、3.11東日本大震災に関連して福島第1原発事故がらみの社説=新聞社の主張を掲げるとなれば、これはもう中身は決まってしまったようなもので、読まなくても判りそうなぐらいだ。が、それは少なくとも「福島第1原発事故を経てなお原発推進論者」たる私に対する異論・異説であるし、東京新聞がひょっとして(※1)「脱原発原理主義」の内「原理主義」からは脱する事ぐらいあるかも知れない、と期待はしないが希望はしつつ(※2)読んでみたが・・・


<注釈>

(※1) 「脱原発主義」の方は無理だとしても。 

(※2) ソリャ原理主義なんて箸にも棒にもかからない相手じゃ、議論しかけるのも虚しいからな…やらない事も無いし、やった覚えはいくらもあるが。 



転載開始=========================================

【東京社説】3・11から2年 後退は許されない

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2013031102000153.html
2013年3月11日

 風化が始まったというのだろうか。政府は時計の針を逆回りさせたいらしい。二度目の春。私たちは持続可能な未来へ向けて、新しい一歩を刻みたい。
ことし一月、フィンランドのオンカロ(隠し場所)を取材した。使用済み核燃料を地中深くに埋設する世界初の最終処分場である。
オンカロを運営するポシバ社の地質学者のトーマス・ペレさんが、その巨大な洞窟の道案内を務めてくれた。
二〇二〇年ごろから核のごみを搬入し始め、八十年で処分と管理を終えて埋め戻し、入り口はコンクリートで固く閉ざして、元の自然に返すという。
◆ゼロベースで見直すと
「地上には何の印も残さない。そこに何かがあるとは、誰も気付かないように。ここは忘れるための施設なんだよ」
ペレさんのこの言葉こそ、忘れられるものではない。
忘れることで危険がなくなるわけではない。先送りするだけなのだ。いつかきっと誰かがそこを掘り返す。
あれから二年、安倍政権には後戻りの風が吹いている。
首相は一月の国会答弁で「前政権が掲げた『二〇三〇年代に原発ゼロ』の方針は具体的根拠を伴っていない。ゼロベースで見直す」と、脱原発の方針をあっさり打ち消した。
先月末の訪米時には、ゼロ戦略の見直しと原発維持を、オバマ大統領に告げている。
また施政方針演説では「妥協することなく安全性を高める新たな安全文化を創り上げます。その上で、安全が確認された原発は再稼働します」と、早期再稼働に意欲を見せた。
安倍首相の発言に呼応して、霞が関も回帰を急ぐ。エネルギー基本計画を話し合う有識者会議から、脱原発派を一度に五人も追い出した。
核のごみでは、前政権が打ち出した直接処分の検討を撤回し、使用済み燃料からプルトニウムなどを取り出して再び使う再処理を維持しようという動きもある。再処理を維持するということは、トラブルだらけの核燃料サイクル計画を続けていくということだ。
そういえば、忘れていたようだ。電力業界ともたれ合い、半世紀前から国策として原発立地を推し進めてきたのは誰だったのか。安全性や核のごみ処理を置き去りにしたままで、世界有数の地震国に五十基を超える原子炉を乱立させたのは、ほかならぬ自民党政権だったのではないか。
◆どうしようもないもの
政権の座に返り咲いた自民党こそ、福島原発の惨状を直視して、自らの原子力政策がどこで、どう間違ったのか、つぶさに検証すべきである。
検証も反省もないままに、国民の多くが支持した「原発ゼロ」の上書きだけを急ぐのは、とても危険なことではないか。
福島第一原発の解体作業を阻んでいるのは、水である。原子炉を冷やすのに一時間あたり約十五トンの冷水を注ぐ必要がある。このほかに毎日四百トンの地下水がどこからか流れ込んでくる。
最新の浄化装置を使っても放射性物質を完全に取り除くことは不可能だ。敷地内を埋め尽くす巨大なタンクなどには、すでに二十七万トンもの汚染水がなすすべもなくたまっている。これだけを見ても「安全文化」などとはほど遠い。
核のごみ、活断層、汚染水…。人間の今の力では、どうしようもないものばかりである。エネルギーとしての原子力は持続可能性が極めて低いという現実を、福島の惨事が思い知らせてくれたのだ。
見方を変えれば原子力時代の終焉(しゅうえん)は、持続可能な社会への移行を図るチャンスに違いない。そのような進化を遂げれば、世界に範を示すことにもなる。
オンカロを見学したあと、デンマーク南部のロラン島を訪れた。沖縄本島とほぼ同じ広さ、人口六万五千人の風の島では、至る所で個人所有の風車が回り、「エネルギー自給率500%の島」とも呼ばれている。
デンマークは原発をやめて、自然エネルギーを選んだ国である。ロラン島では、かつて栄えた造船業が衰退したあと、前世紀の末、造船所の跡地に風力発電機のブレード(羽根)を造る工場を誘致したのが転機になった。
◆福島の今を忘れずに
当時市の職員として新産業の育成に奔走した現市議のレオ・クリステンセンさんは「ひとつの時代が終わり、新しい時代への一歩を踏み出した」と振り返る。
二度目の春、福島や東北だけでなく、私たちみんなが持続可能な未来に向けて、もう一歩、踏み出そう。そのためにも福島の今を正視し、決して忘れないでいよう。


=================================転載完了

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前進せよ、日本


 さて、如何だろうか。

 先ずは共感できる処から行こう。多くの人が首肯するのではないかと想像するが、私は「後退」よりも「前進」、「撤退」よりも「進撃」、「退歩」よりも「進歩」、「退化」よりも「進化(※1)」の方が、語感としては好きだ。景気が良いし、文字通り「前向き」であるから。

 無論「語感が良いから好き」と言うだけであって、時に「後退」や「撤退」や「退歩」が「正しい判断」である事は有るし、「撤退戦」と言うのが最も判断力や戦術的手腕が問われる局面である事も知っている。だから、常に「前進/進撃/進歩」が善であり美である訳ではない。とは言え、「3.11から2年 後退は許されない」と言う上掲社説のタイトルは、タイトルだけならば「一理ある」どころか、「思わず首肯」してしまいかねないほどだ。

 だが、無論、そこは(やっぱり/相変わらず)脱原発原理主義である東京新聞と、「福島原発事故を経てなお原発推進論者」たる私(Zero)との間には、男と女の間どころではない暗くて深い溝があり、水さえ流れていないようだ。

 その「暗くて深い溝」と言うのは、詰まる所はタイトルにした通り、「何を以って後退とし、何を以って前進とするか」と言う解釈・理解の違いであろう。上掲東京新聞社説は、安倍政権を「民主党が打ち出し、国民の多くが支持した原発ゼロ戦略から後退しようとしている」として非難している。即ち東京新聞にとっての前進とは「原発ゼロ戦略の実現」なのである。

 流石は脱原発原理主義者と言うべきだな。なるほど「世論調査の結果」は「原発ゼロ戦略を支持する」者が多いと示している(  と、少なくとも解釈し得る  )のだろう。だが、2030年代までに原発ゼロを打ち出した、つい先ごろまで政権与党であった民主党をはじめとして「脱原発」を標榜した数多の政党の殆どが先の衆院選挙で敗退した(※2)事実を全く無視している。だから先行記事にもした通り、「原発ゼロ戦略を掲げて衆院選に敗退した民主党」に「自民党政権に対し原発ゼロの実現を迫れ」などと負け犬に遠吠えせよとしか主張できない。ああ、自民党に「国論統一のために原発ゼロ戦略にかじを切れ」と主張しない分だけ、いつぞやの地方選挙の頃よりマシになった、と見るべきか。

1〉  見方を変えれば原子力時代の終焉(しゅうえん)は、持続可能な社会への移行を図るチャンスに違いない。
2〉 そのような進化を遂げれば、世界に範を示すことにもなる。

…この現状認識も酷いね。「酷い」と言って悪ければ、私(Zero)との現状認識の乖離は目も眩むばかりだ。「原発時代」ですらなく、原子力時代の終焉てやぁがる。「原発時代ならぬ原子力時代」とは、「原発と原子力推進と核兵器の時代」であろう。原発について言えば「脱原発」を宣言したのはイタリア、ドイツ、デンマークと、いくつかの西欧諸国のみ。何れも西欧の発達した電力網の恩恵あらたかで「電力が足りなければフランスの原発から輸入できる」国ばかりだから、ナンチャッテ脱原発でしかない。それに対して原発を新たに導入する・増やす国は、ベトナム、トルコ、ウクライナ、チェコ、韓国、中国とある。原子力推進は現状、米英仏露中印程度で、今後余り増えそうにないが、軍艦、特に潜水艦との機関として圧倒的な優位をもたらすから、減る気配はもっと無い。核兵器に至っては米英仏露中印に、パキスタン、イスラエルが加わって、イランや北朝鮮もこれに加わろうと虎視眈々と狙っているのだから、一体どこにどう目をつけると「原子力時代の終焉」なんて言えるのか、実に不思議な…まあ、それ故の「脱原発原理主義」ではあるか。

3〉  オンカロを見学したあと、デンマーク南部のロラン島を訪れた。
4〉 沖縄本島とほぼ同じ広さ、人口六万五千人の風の島では、至る所で個人所有の風車が回り、
5〉 「エネルギー自給率500%の島」とも呼ばれている。

…これが「風力発電の自慢」として記述できてしまうんだから、脳天気も甚だしい。風力に限らず電力と言うものは極小口の「一般家庭向け」程度でない限り、蓄電池などに「貯めておいて後で使う」訳には行かない。ロラン島がエネルギー自給率500%の島なのは、風力発電の平均稼働率約20%であり、尚且つ大口の電力消費者が居ない」から違いない(※3)。ソリャ人口6万5千で産業が漁業か農業ならばナントカなるのかも知れないが、ルソーばりの「自然に還れ」に近く、発展も進歩も期待薄だぞ。

 福島第一原発事故は確かに悲劇であり、その教訓は生かされるべきだ。
 だが、その教訓を受けて「原発ゼロ戦略」に転じ「脱原発」を目指すのは、欧州諸国の様に「電力を輸入する」事すらできない我が国においては愚挙にして暴挙であり技術的・知的敗退であり、「後退」に他ならない。

 我々は、福島第一原発事故を教訓として、より安全な原発・原子力技術として具現化すべきなのである。

 前進せよ、日本。
 Japan Vor!


<注釈>

(※1) 急いで付け加えるならば、生物学で言う「退化」は「不要なものがなくなる/小さくなる」のであるから、本質的には「最適化」であり、「進化」と「退化」の間に優劣はない。 

(※2) 「脱原発を標榜した政党の支持票を集めると、自民党支持票を上回る」と言う説も在る様だが、もしそれが統計として正しい数字だとしても、「脱原発統一候補」を立てて自民党に対抗できなかったことも含めて「敗因分析による反省点」ではあっても 

(※3) ひょっとしたら違うかも知れない。ロラン島は「電力が余って居るときは島の外に電力を輸出している」かも知れないし「自給率500%」は風車以外の例えば火力発電所と併せての値、かも知れない。