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証言と主張の整理

 さて、始めようか。

 「社説を斬る!」シリーズで多くの社説を斬り、「社説比較」シリーズでもっと多くの社説を扱ってきた当ブログである。「記事を斬る」のは初めてではないが、曲がりなりにも「新聞社の主張(の筈(※1))」である社説と違って特集記事だから、章題にした通り引用されている発言者(※2)毎に先ずは整理しようとした。が、案外と引用される発言者は少なく(※3)以下に列挙する、たった二名だ。

 (1) 民主党政権下の内閣官房国家戦略室で企画調整官として原発ゼロ戦略の立案に携わった伊原智人

 (2) 市民団体ネットワーク「eシフト(脱原発・新しいエネルギー政策を実現する会)」の吉田明子

まあ、肩書からすれば大体言い出す事は予想のついて言しまう布陣だが、上掲記事は<1>~<4>全部で4つのパラグラフの内、<1>~<3>の相当部分を上記(1)伊原ナントカの発言が占め、最後の<4>にようやく上記(2)吉田明子が登場する。この二人の発言以外は何かと言うと、毎日新聞自身の意見が合いの手の様に入る構成。記事としてみるならば、殆ど「伊原智人インタビュー」だが、そこは「特集記事」と言う事で新聞社の勝手ではあろう。連載社説の大半が「フィンランド紀行文」だった東京新聞(※4)よりは、マシと考えて良かろう。それにしたって、社説ではなく記事だからと毎日新聞の主張を他者に代弁させる姑息さは、東京新聞と良い勝負だ。

 ま、「姑息」や「代弁」なんてのは些事だ。問題なのはその主張の中身である。上掲毎日「特集記事」、繰り返す「特集記事」は、民主党が出した「原発ゼロ政策」を否定した安部首相を批難している。だからこそ上記(1)民主党政権下の内閣官房国家戦略室・企画調整官などと言う、肩書だけは仰々しいが「一体何をやって居たの?」と聞きたくなる伊原某の発言を引用して曰く。

1>  安倍首相の根本には経済的メリットの追求を優先する考えがあるのでしょ
う。
2> しかし国民の安全に勝るものはない。
3> であれば、福島の事故を経て原発のない社会を目指さないのはウソですよ。

 Negative.冗談ではない。

 先ず第一に上記2>「国民の安全」には「経済的メリット」も「電力の安定供給」も含まれる。逆に「電力が安定供給されず」「経済的にデメリット」な状態で、たかだか「原発事故の恐怖がなくなる」だけで、何が「国民の安全」なものか。

 第二に「国民の安全」として求めるべきは「絶対安全」ではなく、「相対安全」である「絶対安全」なんてモノは滅多にあるモノではないし(※5)、それを求めるのは強請集りの論理。何故ならば「絶対安全」を要求すれば、いくらでも政府から金をむしり取れるから、だ。政府が実施できるのは「相対安全」であり、「許容すべき/許容し得るリスクレベル」と言うのは、必ずある。 その「許容し得るリスクレベル」をどこに設定するかは、政治的な決断であるが。再三繰り返す通り「福島原発事故後も原発推進論者」を公言する私としては「原発稼働のリスクは、許容可能なレベルに抑え込める」と、当然主張する。
 この主張を支持する者は、なるほど日本国内には少ないのかも知れない。が、我が国の原発が輸出されようとしている世界の現状を見れば、殊に、日本海を挟んでの隣国である支那や南朝鮮のの現状と将来計画を見れば、私の主張は必ずしも奇異なものでは無かろう。少なくとも議論の対象・相手たりえよう。

 であるならば、上記3>福島の事故を経て原発のない社会を目指さないのはウソですよ。と言うのは、それこそ伊原ナントカの思い込みだ。なるほど、福島原発事故後に「原発の無い社会を目指す」とした国は、ドイツなど数か国ある。だが、今の処西欧諸国以外に「今ある原発を無くす」ことを目指した国はなく、西欧諸国は発達した送電網のお蔭で「足りない電力は外国から輸入できる」のだから、「西欧諸国の脱原発」は、「ナンチャッテ脱原発」にしかならない。「輸入する外国の電力」の相当部分は、フランスの原発から来ているのだから。

 まあ、伊原ナントカは、「新たに民間企業で再生可能エネルギーの普及を目指」しているそうだから、「原発ゼロで全原発廃炉」は福音であろうし、「とりあえず原発稼働停止」だけでも相当な「ビジネスチャンス」ではあろう。「私の自然エネルギー推進論(※6)」や「冷たい計算式」シリーズ(※7)で指摘した通り、「原発一基を代替するのに凄まじい数のメガソーラーが必要」であり、(※8)しかもその発電量は全量電力会社が高価買い上げしてくれるのだから。

 かと思うと、最終パラグラフ上掲<4>にだけ登場する吉田明子も酷いもんだ。

4> 「原発を動かせば必ず事故のリスクがあり、
5> パブコメでは即時廃止を求める声が一番多かった。
6> かろうじて30年代にゼロとなったのに、安倍首相はそれさえ否定する。
7> 民意を無視しています」

 これを受けての上掲毎日特集記事の〆は、

8>  安倍首相はアベノミクスによる人気を盾に、国民の目をそらし続けることはできないだろう。

…つまりは、国民の注目がエネルギー政策に集まれば、必ず脱原発・原発ゼロに民意は結集される。(そうなれば安部首相も無視は出来まい)」であり、吉田明子の主張なんだか毎日新聞の主張なんだか…まあ、両者共通の主張何だろう。

 だがしかし、パブ・コメや、世論調査がどうあろうとも、民意でエネルギー政策が決まる」などと言う事は、少なくとも「無条件に正しい」事ではない。

 「民意」と言うならば、先の衆院選挙では、それまでの与党であり「原発ゼロ」を打ち出した民主党や、殆ど「脱原発」しか看板が無い(※9)「未来の党(現在は分裂)」をはじめとして「脱原発」を標榜する政党が目白押しになり、殆どの党が惨敗したのもまた、民意であり、間接民主主義の下では世論調査やパブコメなんぞよりも、遥かに正当性のある「民意」であろうが。

 脱原発=原発ゼロも、私が主張するような原発推進も、我が国のエネルギー政策の一方針であり、10年単位の長いスパンで考えなければならないものだ。それは、世論調査だの、パブコメだので決せられるべきではないし、「民意に阿る」大衆迎合で決せられるべきでもない。

 当該毎日特集記事は、あくまでも「原発ゼロ」「原発の無い社会」「脱原発」を前提にし、そこへの「数値目標」を掲げない安部首相を批難している。

 頓珍漢も甚だしい。安部首相が目指すべきは、電力の安定供給を含めた「国民の安全」であり、そこには原発再稼働は勿論、原発(少なくとも)維持が含まれている。

 であるならば、安倍首相に「原発ゼロへ向けての具体策」なんざぁ、ある訳が無いし、あってはならないのである(※10)

<注釈>

(※1) そうではないんではないか、と言う疑義ある社説も散見されるが、面と向かって尋ねられれば、多分、「新聞社の主張だ」と明言するだろう。多分、だが。 

(※2) その相当部分は、新聞社主張の代弁者と見なせるが。 

(※3) で、ありていに言ってその全員が毎日新聞の代弁者と来た。 


(※5) 新幹線なんて、そんな「滅多にない」絶対安全の例があるから、誤解されやすいのだろうが。



(※8) 尚且つこれらがまともに電力と期待できるためには大容量の畜放電技術の完成・普及が不可欠 

(※9) まあ、人によっては「小沢一郎」ってのが大看板に見えるんだろうが。 

(※10) 近づく衆院選挙での政権交代=民主党の野党転落を見越して、或いは「あわよくば支持率向上」目指して、「数値目標」だけ掲げた、民主党とは違うんだよ/違うと期待する。 



補足 新聞の存在意義

 ところで、冒頭( の末尾 )で触れた「新聞の存在意義は、社説と特集・連載記事である」と言う私の考えに対する解説がまだだったな。前半部分「社説が新聞の存在意義である」と言うのは何度も繰り返しているが、「特集・連載記事の意義」は久しく触れていないので、改めて解説しよう。

 新聞と言う紙媒体で日刊で発行されるメディアは、かつてはマスメディア・マスコミの王道であった。いつごろからか、と言うと、多分、新聞と言うメディアがグーテンベルク発明の活字印刷機で量産されはじめてから。我が国で言うと明治維新の頃からで、その「マスコミの王道」の座はテレビ放送が普及するまで殆ど揺るがず、インターネットと動画配信の普及によってようやく凋落が明らかになった、と言う処。その王座を追われたのは、一つはテレビ放送やインターネット情報の即時性・速報性に日刊と言うサイクルでは全く太刀打ちできなかった事と、動画の放送・配信がテキストベースの新聞より遥かにインパクトがあった事、の二つに依ろう。即時性・速報性では新聞を上回るラジオ=音声放送や、動画ではあるが配信サイクルが長いニュース映画(※1)では新聞の王座は揺るがなかったのだから。

 いずれにせよ、「動画の即時配信」によって王座をすでに追われた新聞が、その存在意義・存在理由を発揮できるのは、「ニュースの伝達」ではないだろう。それは即時性・速報性に優れたテレビやネットに「お株を奪われて」久しく、「新聞をテレビ化ないし動画配信化」すれば追いつけそうではあるが、優位には立てない。第一、①紙媒体 ②日刊 ③テキストベース と言う「伝統的な」新聞形態を、少なくとも「全て放棄」しては、それはもう『新聞』とは呼べまい。

 呼び方呼び名はどうでもよい話ではあるが、新聞社、新聞社員、なかんづく新聞記者と言う「新聞社の資産」を有効活用して「新聞社の存在意義・存在理由」を発揮するためには、上記①~③として挙げた新聞の(伝統的)形態の内、②日刊 ③テキストベース を保持しつつ、「単なるニュースの伝達」ではなく「ニュースの分析・解説」と言う付加価値を与えるのが正攻法であろう。それ故に、「ニュースの分析・解説」に特化した特集記事、連載記事、社説が「インターネット時代の新聞の価値・存在理由」を示す指標とすべきであろう。

 故に、言うのである。新聞の存在意義・存在理由は、社説と連載記事/特集記事にこそあると。

 無論以上の推論・論考は、「新聞社自身が何らかの存在理由を欲している」と言うのが前提条件になっている。即ち新聞社には「社会の木鐸」と言うほど明確・厳密なモノではなくとも、何かしらの社会的貢献を果たそうとしており、「とにかく売れて儲かればそれで良い」と言う過度な商業主義には陥って居ないとして、の話だ。


<注釈>

(※1) 週刊ベースだったらしい。「映画館で見なければならない」と言うのも、ネックだったろう。