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    東京新聞の連載社説「どうする核のゴミ」シリーズは、その脱原発原理主義ぶりもさることながら、それ以前に社説として、新聞社の主張を実施している部分が実に少ないとは先行記事(※1)にて批難・糾弾したところ。それを端的に表わしたのが、章題「せいぜい6分の1社説」であり、「6分の1」としたのは連載6回を通じて、「新聞社の主張」は最後の6回目にしか殆ど記載されていなかったから、だ。
  
   ところが、この6回に渡る連載社説に番外編とも言うべき続きがあって…まあ、御一読の程を。


<注釈>




   転載開始=========================================
   
   
  
 【東京新聞社説】 どうする核のゴミ<読者から> ともに考え続けたい
   
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2013021102000151.html
   2013年2月11日
   
    貴重なご意見をたくさんいただき、心より感謝します。
    東京都八王子市の木村雅英さん(64)は「私は製造業に勤めていましたが、製造で出たごみの処理方法が決まっていない製品は造れませんでした。なぜ、原発は許されてきたのでしょうか」と、あらためて疑問を投げかけます。
    江戸川区の女性はその意味で「少なくとも『自分たちが出したごみは自分で片づける=生産者責任』のモラルを果たしています」と、核のごみの埋設施設を建設するフィンランドを評価します。
    そして「最終処分場は無理でも、最低限、放射性廃棄物の暫定的な安定保管に今すぐ取り組むべきではないでしょうか。廃炉への工程も、真剣に考えるべきではないか」と訴えます。
    たとえ原発が止まっていても、核のごみの貯蔵プールが天災などで破壊されれば、放射能が降り注ぐ危険は残ります。
    名古屋市北区の女性は「私は今まで見て見ぬふりをしてきたことを反省し、私の生活を支えてくれてきたエネルギーに対して感謝します。そして最終ではなく、これから私たちが核のごみをどうするのかを考えていきたい」と当事者意識をのぞかせます。
    核のごみを増やし続けてきたのは誰でしょう。核のごみ処理は、原発立地と同様、都会には無関係なのでしょうか。
    名古屋市中村区の佐藤秀夫さん(76)は「核のごみの存在を意識し、これ以上増やさないために、一市民一消費者として、なにができるのかを考え続けなければならないと、あらためて思ったような次第です」と、心中の決意を示してくれました。
    静岡市葵区の増井良夫さん(64)からは「日本学術会議が提案したという暫定保管、総量管理については、結局のところこれしか選択肢はないと考えるものの、肝心の『安全性』に加え『時間』と『場所』について言及されないのであれば説得力に欠ける」との指摘を受けました。
    どの文面からも未来の世代への責任感が、あふれ出てくるようでした。まったく同じ思いです。
    “先進地”と言われるフィンランドでも、残念ながら明確なヒントを見つけることはできませんでした。だからこそ、これからもずっと考え、提言してもゆこうと思っています。みなさんと、ともに。   (論説委員・飯尾歩)

   
   
   =================================転載完了

   これは、【社説】か?

   
    さて、如何だろうか。
   
    先行記事と同じ問いを発しなければならないようだ。読者諸兄は上掲東京新聞社説を(※1)社説と呼べるか。社説と認めるか。
   
    上記質問に対する回答は、「社説」と言うものをどう考えるかにもよるだろう。当ブログでは再三社説とは、新聞社の為す主張」と定義し、この点については「衆目の一致する処、異論は先ず無い処」と考えていた。その上で、「かつてと違ってDailyで紙ベースの情報媒体たる新聞は、即時性や双方向性で新手のIT媒体・電子メール、インターネット、動画配信等に劣る(※2)。」ために、時系列的にある程度まとまった情報である「連載・特集記事」や「社説」こそが「新聞の存在理由であろう」と論じてきた。
    「新聞の存在理由」は私の見解・私見であるから異論・反論も在り得るだろうが、「社説とは、新聞社の為す主張」と言う定義は、そうそう異論はあるまい、とていたのだが…先行する「どうする核のゴミ」シリーズや上掲東京新聞社説は、その定義を危うくしてくれる。
   
    即ち、どうする核のゴミ」シリーズの大半は「フィンランド紀行文」であるし、上掲社説で「新聞社の主張」と明快に断言できるのは最後の1パラグラフのみ、即ち
   
   1〉  “先進地”と言われるフィンランドでも、残念ながら明確なヒントを見つけることはできませんでした。
   2〉 だからこそ、これからもずっと考え、提言してもゆこうと思っています。みなさんと、ともに。
   
   これだけなのである。而して、このパラグラフで言っている事は、突き詰めれば
   現状明確な提言は無いとしか言っていない。ソリャ「核のゴミの問題」なんて古くて新しい問題にイキナリ快刀乱麻を断つような「明確な回答」を要求するのには無理があろうが、その割には先行するシリーズ第6回で「せいぜい核のゴミ(使用済み核燃料)を増やさない」と言うだけの事態を原発ゼロなら、当然ごみも一切でない。と大仰に断言して見せ、そのくせ上記2〉の様に皆さんと共に考え、提言します」=「現状明確な提言は無い」と宣言し、恬として恥じる処が無いらしいのだから、度し難いと言うか、なんというか・・・
   
    言い換えよう。上記2〉皆さんと共に考え、提言します」=「現状明確な提言は無い」のならば、先行社説シリーズ第6回の原発ゼロなら、当然ごみも一切でない。」と言う強烈な「原発ゼロアピール」は「提言では無かった事になるし、
   
   〈6〉1〉 核のごみの存在を消費者が意識することも大切だ。
   〈6〉2〉これ以上増やさないような工夫なら、私たちにもできる。
   
   と言う記述も提言では無かった事になる。それどころか、先行する6回の連載社説と今回の社説を併せて7回の「社説」は、唯、読者と共に考えます」と言う意思表示でしか無かった事になる。
   
    ソリャ、そんな宣伝を7日分の社説をかけて実施するのは、新聞社の勝手だし、確かに社説ならば「新聞社の勝手に出来る相応の字数とスペース」であろうが…それを「社説」と銘打ち、「社説」として掲げてしまう事に何の異論も無かったんだろうか。東京新聞。
   
    もし、それに異論を唱える者さえいないのが東京新聞であるならば…上記の通り、今回の「どうする核のゴミ・シリーズ番外編」は、せっかく一応の主張を為していた同シリーズ第6回を否定するものであるから、同シリーズ全体を通じて「7分の1社説」どころか「皆無に近い社説」と評するべきかも知れない。
   
    上掲「社説」で取り上げられた「読者の声」が、朝日新聞投稿欄級の「新聞社べったり」である事なんざ、上記に比べれば、些事だな。


<注釈>

(※1) 断っておくが、上掲「社説」は、ただ単に「東京新聞電子版の社説コーナーにあった」と言うだけではない。先行記事で取り上げた「どうする核のゴミ」シリーズと同様【社説】と明記されている。「編集室から」でもなければ、「コラム」でもなく、「連載特集記事」ですらない。くどい様だが、【社説】である。 

(※2) かつては、双方向性は兎も角、即時性では新聞が王者であった。ラジオやテレビに取って代わられてからも久しいが。