応援いただけるならば、クリックを⇒ https://www.blogmura.com/
====================(転載継続)=====================
【東京新聞社説】 どうする核のゴミ<5> オンカロは原発7基分 http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2013020102000123.html
2013年2月1日
核のごみ最終処分施設のオンカロがあるオルキルオト島では、仏アレバ社が開発した最新鋭の原発(EPR)オルキルオト3号機(百六十万キロワット)の完成が近い。欧州では二十年ぶりの増設となる世界最大級の原子炉だ。
さらに巨大な4号機も、三年前に政府の承認(原則決定)を受け、着工を待っている。
ヤン・バパーブオリ雇用経済相は「フクシマの事故後も、フィンランドの原発政策は変わりません」と力を込めた。
緑の党から入閣したビレ・ニーニスト環境相は「現政府では、これ以上の新増設は認めません」と、自然エネルギーへの転換を図っている。だが中部で計画中の別の一基も含め、人口五百万余の国に将来的には原発七基。フィンランドはすでに十分原発立国だ。
オンカロの容量は九千トン。今運転中の四基を六十年動かすとして、使用済み核燃料はすべて受け入れ可能という。オンカロがあるから新しい原発ができるのか。
運営するポシバ社幹部は「七基までなら大丈夫」と話していた。
世界初。その陰の部分を海の向こうのデンマークから見つめ続けて、映画にした人がいる。
「100、000年後の安全」を監督したマイケル・マドセンさんだ。コペンハーゲン近郊で、マドセンさんの話を聞いた。
「オンカロの是非は、ちゃんとした議論になりませんでした」と振り返る。フィンランドの上映会で「あれが何かを初めて知った」と憤る地元の人もいた。立地には、政府や電力事業者の意向が強く働いていたと、マドセンさんは感じている。
七年前に映画のための調査を始め、多くの専門家にインタビューを試みた。
その中の一人に「オンカロを掘ってはいけない国がありますか」と尋ねると、即座に「日本」と答えたという。地震国だから。
「議論のない社会は危険です」と、マドセンさんは日本に向かって訴える。 (論説委員・飯尾歩)
【東京新聞社説】 どうする核のゴミ<6> 増やさず、管理下保管 http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2013020202000119.html
2013年2月2日
使用済み核燃料を埋設するフィンランドのオンカロは、日本に何を教えてくれるのか。
最大のメッセージは、日本にはまねが難しいということだ。
オンカロは自然の地下要塞(ようさい)だった。技術の粋ではない。国土を覆う厚さ数十キロの巨大な岩盤が、危険な使用済み核燃料を地上の営みから隔て、万一の放射能漏れからも守ってくれる。
オンカロを運営するポシバ社は二一〇〇年に核のごみの搬入を終えたあと、入り口を固く閉ざして、そこに何があるのかを忘れ去る方針という。その後の管理は“国土”が引き継ぐことになる。
フィンランドは地震を知らない国である。オンカロのあるオルキルオト島の住民は何事もなく原発と共存し、原発の恩恵を受けながら、町を発展させてきた。
繰り返すが、日本は世界有数の地震国である。地層処分の適地は見つかりそうもない。
このような両国の違いを踏まえて提言したい。使用済み核燃料の「最終処分」という看板を、今は掲げるべきではない、と。
日本学術会議は昨年九月、核のごみの「暫定保管」と「総量管理」を提案した。
核のごみを数十年から数百年、いつでも取り出せる状態で、処分ではなく保管する。その間に最終処分の研究を進め、新技術が確立すれば保管したごみを取り出して、やり直す。
一方で、核のごみの排出総量を規制する。つまり原発の稼働を減らす。原発ゼロなら、当然ごみも一切でない。
オンカロを見た目で、これらの提案はもっともだ。
保管場所は、民主的手続きを経て決めるしかない。保管には、止めた原発のプールの活用や冷却水の不要な乾式キャスクを用いたり、さまざまある。
核のごみの存在を消費者が意識することも大切だ。これ以上増やさないような工夫なら、私たちにもできる。
日本では、核のごみを“国土”に引き受けてはもらえそうもない。新技術が確立されない限り、その時代を生きる人間が面倒を見続けていくしかない。
十万年先への責任を負うのは、むろん私たち自身なのである。 (論説委員・飯尾歩)
=========================================転載完了
せいぜい6分の1社説
さて如何だろうか。連日にわたって掲載された東京新聞社説「どうする核のゴミ」シリーズ。
まず、読者諸兄に問おうではないか。上掲一連の「東京新聞社説」は、果たして社説と認めうるか、と。社説と言うのは言うまでも無かろうが「新聞社の主張」として、だ。
「新聞社の主張」と言う観点からするならば、上記一連の「東京新聞社説」は、「シリーズとして辛うじて社説」と言い得よう。「新聞社の主張」は殆ど上記〈6〉に集約されるのみ。その前の上記〈1〉~〈5〉には殆ど「新聞社の主張」が登場しない。これでは社説と言うより「フィンランド紀行文(※1)」である。本省の章題を「せいぜい6分の1社説」とした所以だ。
無論、社説で重要なのはその「新聞社の主張」としての中身であり、「主張の分量」ではない。6回に渡る結構な「連載社説」で最後の1回しか主張を為さないと言うのは、東京新聞の勝手であって、こちらの知った事ではない。
さはさりながら、5回の「フィンランド紀行文」と1回の「社説」を以って東京新聞が主張している事は、実にシンプルと言うか、簡素と言うか・・・
(1) フィンランドのオンカロ核燃料処分場は、その特異な国土によって核燃料を処分できている。
(2) 日本にオンカロ処分場を造る事は、国土の構造上出来ない。
(3) 日本は今ある核のゴミを暫定管理しつつ、核のゴミをこれ以上増やさない様原発ゼロにすべきだ。
三行で済む。連日5回に渡る「社説/フィンランド紀行」は上記(1)と(2)、なかんずく上記(1)を言うためのやたらに長い「前振り」と言う事になる。
ところがどっこい、脱原発原理主義者なもんだから、オンカロ処分場と言うある種「理想」を掲げて、我が国の核燃料処理を憂い、挙句の果てに上記(3)の様な暴論に結びつけている。
何が「暴論」かと言うと…
1〉 原発ゼロなら、当然ごみも一切でない。
…どうせ、文系の記者が当該社説を書いているんだろうが、法螺を吹くのも大概にするが宜しかろう。今現在、全国50基以上の原子炉は殆ど稼働停止しているが、その中には利用可能な核燃料が格納されている。今原発を稼働を停止しているのは、核燃料が切れたからではなく、定期点検のために発電を停止しただけ、だ。再稼働すれば内蔵して居る核燃料は莫大な電力を供給してくれるが、現状の「原発ゼロ」=「原発稼働停止」したとて、せいぜいが「核のゴミが増えない」だけだ。上記1〉「当然ごみも一切でない」なんて、認識違い、誤解、否、ミスリードも甚だしい。
脱原発原理主義の東京新聞が主張するように「脱原発」が実施されれば、事態はさらに悪化しかしない。廃炉にされる原子炉から取り出した核燃料は、相当部分が未使用の核燃料だから、「諸外国に売れば良い」と言うのは一応考えられる。が、ソリャ「我が国で有効利用しない核燃料」と言うだけで、見方を変えれば「核のゴミを諸外国に押し付けた」だけである上、未だ使える原発を廃炉にする事によって生じる「核のゴミ」が一挙に生じる事になる。
かてて加えて、問題となるのは「核のゴミ処分の新技術」だ。原発を廃止し、商業的に成立する原子炉が無いうような我が国で、一体どれほどの「原子力技術の発達」が望めようか。脱原発日本の原子力技術なぞ、たちまち外国に後れを取る事になり、結局は「今ある核ごみ処分」も外国の技術頼りと言う、情けないと言うより極めて無責任な事になろう。ああ、ドイツが正にその無責任体制を取ろうとしている事は事実だが、何もドイツの無責任体制を、真似る事はあるまいに。
第一、東京新聞は都合よく忘却して居る様だが、現時点でも殆ど唯一の「核のゴミを減らす新技術」がある。それ即ち核燃料サイクルである。未だ確立した技術ではなく、諦めた外国もあるそうだが(※2)、諦める手も無ければ追求しない法もあるまい。
即ち、東京新聞が主張するように「核のゴミの総量規制」をするとしても、現時点では核燃料サイクルを追求すべきであり、脱原発なぞ以ての外なのである。
さらに言うならば、オンカロ処分場の様な地底永久保存ばかりが「核のゴミ」の最終処分法ではあるまい。フィンランドの様に「国土に保管出来ない」と言う国情ぐらいで、原発を放棄するなぞ、敗北主義も良いところだ。
繰り返すが、我が国で「脱原発」なんぞ、愚挙にして暴挙である。
<注釈>
(※1) 「観光案内」では無いかも知れないが。
(※2) なーに、そいつらは酸素魚雷の開発すら諦めた根性なしである。参考にする事は有っても、気に病む必要はない。