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重大な事実誤認「原子力の時代は終わった」の”御花畑”ぶり 

 さて、如何だろうが。

 なんというか、年頭の社説と言えば「新聞社としての年頭の主張」であるから尚更なんだろうが、「言いたいこと」ばかりが先走って、論理も現実もすっ飛ばした荒唐無稽ぶり。これでは「社説」ではなく、せいぜいが「社詩」であろう。いちいち突っ込むのもメンドクサイと思わせるほどなんだが・・・

1〉  原子力の時代はヒロシマで始まって、フクシマで終わったはずではなかったか。
2〉 水素爆発の衝撃は神話のベールを吹き飛ばし、鉄骨やがれきの山と一緒に横たわる、
3〉 それまで見ないようにしてきたものが露(あらわ)になったはずだった。

 さあ、ここで私は東京新聞社説にお尋ねしたいのだが、

【Q1】 一体福島原発事故の水素爆発で、どんな上記3〉「それまで見ないようにしてきたもの」が「露(あらわ)になった」と主張されているのか。

Case1:「原発稼働に伴う核廃棄物処理法が不確実である事」が「露になった」

 このCase(解釈)上記1〉~3〉の直前で小見出しとして「◆核のごみがあふれ出す」と有る事からも、大いに在りそうなCaseである。だがこいつは「古くて新しい問題」であり、福島原発事故によって「核燃料貯蔵プールに対する冷却水供給が全電源喪失によって行われなくなると、水素爆発につながる事が事実として確認された」だけ。全電源停止なんて事態を避ける方策も、電源に依らない冷却水の供給法もあるのだから、「より安全に使用済み核燃料を保管する方法」はある。
 福島原発事故の影響で「◆核のごみがあふれ出す」方向にあるとするならば、

①惹起された隠れた放射能アレルギーによって核燃料再処理サイクルの研究開発が停滞する事 

② まだ使える核燃料が「用済み」として処理を余儀なくされる事 

③放射性物質を含む水やがれきが「核のごみ」扱いされる事 

ぐらい。③は未だしも、①と②「福島原発事故による風評被害」であるし、だって放射性物質の濃度からいえば限りなく風評被害に近い。は、管理は必要なものかもしれないが、使用済み核燃料のような「核のごみ」扱いは不当でもあろう。

 「核燃料再処理サイクル」が開発成功するとかは限らない、と言うのは私も同意する。だが、「諸外国は成功しないと判断し、撤退してしまった」と言うのは「我が国も撤退すべきだ」と言う理由とするには弱かろう。その「諸外国」は、酸素魚雷の開発にすら失敗している国々(*1)なんだから、参考にするぐらいは構わないが「諸外国を見習う」のは慎重になるべきだ。

 は「勿体無い」所ではない。使えば莫大な電力となり得る現存核燃料を、利用することなく無益に捨ててしまおうと言うのだから。少なくとも、稼働中と停止中のリスクを定量評価した上で発電に供する核燃料があって然る可きだろう。
 無論それとて「原発再稼働反対」なんて御題目掲げる脱原発原理主義者を相手にしては、虚しい議論であるが。


Case2:「原発は制御し難いものである事」が「露になった」

 このCase(解釈)は上記1〉~3〉の前のパラグラフに

4〉核兵器と原発。核は制御し難いものであることを、福島原発事故に思い知らされました。

と有る事と、上記2〉にある「神話」を「原発安全神話」と解釈する事で、一説として成立しそうだ。「人間はミスを犯すものであるし、天災は想定を超えるものだ。」と言う一種の運命論ないし不可知論であろう。だが、これは、敗北主義でもある。

 人類としての理性と知性を放棄し、運命論ないし不可知論に陥って平気な敗北主義者を相手にしては批難も議論も虚しいばかりであるが、逆にお尋ねしたいのは一体どんなものならば「制御し得る」と言い切れるのか、と言う事だ。
 原発や放射能に限らず、「リスクは定量的に評価すべきだ」と言うのは再三私が繰り返している処だ。と同時にその「リスクの定量的評価」は冷静で冷徹でなければならない。例えば広島長崎に対する核攻撃・原爆投下は多大な犠牲者を出した訳だが、同時に核攻撃された広島・長崎は戦後ほどなく復興して往時以上の大都市となり、今日に至っている。この事実は、「人間がミスを犯し、天災が想定を超えた場合の原発事故」に対する一つの評価指標とはなりえよう。 
 
 言うもサラナリであるが、福島原発事故では直接的に放射能による死者は皆無だ。今後原発を再稼働した後に別の新たな「人間がミスを犯し、天災が想定を超えた場合の原発事故」による被害が福島原発事故を上回る可能性を、「無い」と断言する事は出来ないだろう。

 だが、少なくとも広島・長崎・原爆投下の惨禍を上回るような原発事故被害が生起するのでない限り、「原発は制御し難い」なんて運命論を取るべきではない。左様な運命論は「放射能ヒステリー」と言う無知蒙昧による情緒・感状に対する知性と理性の敗北である。それは、私に言わせるならば、殆ど「人類である事を放棄している」に等しい。


5〉 ほかよりずっと安いといわれた原発の発電コストが、本当は極めて高くつくことも、福島の事故が教えてくれました。

 これまた大いに異議がある。少なくとも私は「原発の発電コストが、本当は極めて高くつく」なんてコストの試算は見た事が無い(*2)。1年ほど前に朝日新聞だかが取り上げた数字は、原発事故補償をある範囲に限ったものであったが、それでも1kw当たりのコストは原発が火力を1円近くも下回っており、せいぜいが「火力と原子力のコストは、福島原発事故の補償をある程度含めても同等でしかない」と言う事。水力は火力よりも2~3割割高で、他の「再生可能な自然エネルギー」はさらに割高。当該社説にも登場する太陽光に至っては、現状の強制買い取り価格42円/kwhは火力・原子力の約4倍だ。「本当は」もへったくれもなく「極めて高く」ついているのは、太陽光発電の方だ。
 かてて加えて、太陽光発電に期待できる発電量は、東京新聞自身がその記事で認めている通り(*3)実に1/8程度。発電量が制御できず、稼働率は1/8(*4)なのが、太陽光発電である。

6> 太陽光や風力など、自然エネルギーの導入を近隣で競い合う、そんな地域や町内も、もう珍しくはありません。

等と能天気に御託並べているが、その「競い合った」結果が水力除く「自然エネルギー」の発電割合が1%から1.4%に伸びただけと言う事実には全く触れていない。ソリャ「4割アップ」は急成長ではあろうが、たかが0.4%増えただけで、しかも出来高の発電量って事は、この0.4%は「その分火力発電所を休められて、燃料消費が少なくて済んだ」と言う程度。屁のツッパリと呼ぶのもおこがましい程だ。
 水力の方は約1割だから有意な発電量であり、尚且つこの発電量は制御可能である。その意味で水力発電の意義は侮りがたいものであるが、いかんせん我が国はもう水力発電に必要なダムを作れる場所があまり残って居ない。それでも「再生可能な自然エネルギー」と言うならば、水力が筆頭である(*5)。

 最後に、章題にもした所だが、再度東京新聞に尋ねよう。

【Q2】 「原子力の時代」が「フクシマで終わった」と断ずる理由は何かね。

 「原子力平和利用の時代」ではない。「原子力の時代」と明言し、引用されている哲学者故マルティン・ハイデッガーに「核の脅威」を語らせている以上、ここで言う「原子力の時代」には原子力の平和的でない利用である核兵器や、主として軍用である原子力推進機関も含まれて居る筈だ。「ヒロシマに始まった」とは上掲社説にもあるから、間違い様がない。

 で、福島原発事故が核兵器なり原子力推進機関なりに些かなりとも影響を与えたかと言うと…全く無い。断言できる。
 核兵器そのもの数は米ソ冷戦終結で幾らか減ったが、核兵器保有国は戦後ほぼ一貫して単調増加している。無論敵国を破壊して敵国人を殺傷する目的の核兵器が、直接の死者は一人も出ていない福島原発事故で「減る」と考える方がどうかしている。スリーマイル島事故だって、チェルノブイリ事故だって(*6)、核兵器及び原子力推進機関に与えた影響なんざ、皆無と言って良い程だ。
 であるならば、「フクシマ」こと福島第一原発事故如きで「核の時代が終わる」なんてぇのは、「核なき世界が実現する」のと同じぐらい空想的、妄想的であり、虚構でしかない。

 「原発の時代が終わる」と言う事は、「豚が空を飛ぶ時代が来る」よりはあり得そうなことだ。

 だが、「核兵器の時代が終わる」と言う事は「豚が空を飛ぶ時代が来る」と同じぐらいにありそうにない。

 従って私は、こう言うべきだろうな。

 豚が空を飛ぶ時代が来るかもしれないが、原子力の時代が終わるとは思わない。(*7)」

 如何に、東京新聞。

<注釈>

(*1) 対して我が国は酸素魚雷の開発に成功し、量産、実戦配備した。これは「大和民族の優秀性を示すもの」などと主張するつもりは私にはない。唯、我々は、酸素魚雷の開発を諦めなかった。だから最終的に開発に成功したんだ、とは主張する。

 未来を信じない者に、未来なぞ来るものか。

(*2) 無論、これが私の無恥の為せる業である可能性は、認めないといけない。

(*3) 冷たい計算式―千葉のメガソーラー第1号始動。
http://www.blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/37592041.html 直接「1/8」と報道されたわけではないが、チョイと計算すれば明らかだ。

(*4) 「太陽光発電」と言う時点で、稼働率は1/2以下にならざるを得ないが。夜は発電できないんだから。

(*5) 私の自然エネルギー推進論―フクシマ後も原発推進の立場か

(*6) 後者では結構な直接的死者が出ている。

(*7) 判る人がどれぐらいあるか判らない…いや、「殆どいない」と断言できそうだが、ジャック・ヒギンズ作「鷲は舞い降りた」に登場するアイルランド人(IRAの闘士)リーアム・デブリン氏の名台詞を捩ったものだ。
 でもこの言い回しは、何度も使っている気がする。「豹がその斑を全て洗い流し、ジャージー種の牛と同じ仕事をもらう日」程ではなさそうだが。