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East meets West

 イタリア・フランス・スペイン合作の「レッドサンRed Sun」も異色の西部劇だ。何が異色って、チャールズ・ブロンソンとアラン・ドロンと三船敏郎が共演して、三船敏郎が侍姿なんだから、「それで西部劇?」と突っ込みたくなる位、異色だろう。
 江戸幕府の使節団を載せた大陸横断鉄道が、列車強盗に襲われ、江戸幕府から合衆国大統領に献上される予定の黄金造りの太刀がゴーシュ(アラン・ドロン)一味に奪われてしまう。ゴーシュの裏切りで殺されかけたリンク(チャールズ・ブロンソン)と使節団の一人(三船敏郎)は、太刀を取り戻すべく、ゴーシュとその配下を追う・・・
 「江戸幕府将軍から大統領への贈り物」ってことになっている太刀を奪われ、同僚を射殺された三船敏郎は、列車強盗団の首謀者にして立案者ながら、ゴーシュの裏切りで現場に置いてけぼりにされ殺されかけたリンク(チャールズ・ブロンソン)との珍妙なコンビでゴーシュ捜索の旅を始める。三船敏郎演じる侍は、刀も使えば、弓も使い、格闘戦ではブロンソンを圧倒し、小太刀を振るえば
飛び回る蚊を切り落とす超人ぶりをコミカルに描かれる。が同時に、「侍・武士の時代の終焉」を感じ、今回の「主命」に「武士道最後の花道」を見いだそうという「旧きもの」として描かれる。
 一方のチャールズ・ブロンソンは、裏切りに対する復讐よりも、奪われた分け前=金に執着する「新しきもの」であり、劇中の三船にも「これからはおまえ達のような者が、我が国でも増えよう。」という台詞がある。

 「お前が銃を使えればなぁ・・・教えてやろうか。」

 その新旧対立・新旧対比だからこそ、この珍妙コンビの「やじきた道中」よろしき旅路(※1)は、「相互理解の旅」でもある。「ゴーシュは朋輩の仇だから、見つけ次第殺す」と譲らない三船と「金の隠し場所を吐かせるまでは、殺さないと約束しろ」と迫るブロンソンの駆け引きは、この道中を珍妙にする核となっている。そのくせ、最初は「スカートをはいた男」と侍姿をバカにしていたブロンソンが、「お前のことは尊敬してるんだぜ。」と真情を吐露し、仕舞には「お前の敵討ちだ」とまで言い出すに至る。「侍の末裔」の一人としては、思わず快哉を叫んでしまう。

 「愚かな事を申すな。」

<注釈>

(※1) 「48時間」「レッド・ブル」「リーサル・ウエポン」」など、「タイプの全く異なるコンビが賃道中を繰り広げる」ストーリーは一つのパターンで、「ストリート・ムービー」とか言う奴だ。 



和食も合うよ

 西部劇が「人気を集める映画」とは言いがたくなり、それどころか映画自体の斜陽が言われるようになって久しいが、日本でも西部劇ないし西部劇調の映画は作られてる。古くは「ギターを持った渡り鳥」シリーズなんかにそのテイストがあるそうだし(※1)、「月光仮面」が二丁拳銃で活躍するのも、西部劇の影響だろう。だが、「和製西部劇」を前面に出した映画は「スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ」しか私は知らない。比較的新しい映画だから、アメリカではもう西部劇なんてものがほとんど作られなくなってからの「和製西部劇」だ。
 日本と言うことは一応わかるが(※2)何処とも知れぬ寂れた根畑村。ここにあるという埋蔵金を巡って、平家の末裔(と称する一派)と源氏の末裔(と称する一派)が対立と抗争を繰り返し、村は益々寂れていた。そこへ、恐ろしく腕の立つ風来坊が到着する・・・マカロニ・ウエスタンによくあるパターンで、「荒野の用心棒」とか「荒野のストレンジャー(※3)」「ペイルライダー」と同根だ。「悪者どもをやっつけて、平和を取り戻して去ってゆく」って処までお約束。時代設定もいじって、回転式拳銃どころかガトリングガン(※4)まで登場する。後は日本なんで白刃振りかざしての殺陣はさすがに切れがよく、源氏の大将ヨシツネの日本刀対主人公のガンプレイの一騎打ちは、本作のクライマックスだ。ヨシツネに対してベンケイがコミカルで情けないのはご愛敬。演じているのが石橋貴明だし。

<注釈>

(※1) 直接にはまともに見ていないんで、伝聞だ。 

(※2) それでも、インディアンに相当する「原住民」なんてのが登場するから「架空の日本」だ。 

(※3) こちらは、クリント・イーストウッド監督兼主演のアメリカ映画だが。 

(※4) ガトリングガンが登場する西部劇は、数少ないが、ある。ジョン・ウエイン主演の「戦う幌馬車 Battle Wagon」もそうだから、「ガトリングガンが登場する西部劇は邪道」とは言えない。
 「ワイルドバンチ」には機関銃まで登場して、その威力を見せつける。 



西部劇に涙は似合わない

 以上見てきたとおり「アメリカの時代劇」とも言える西部劇は、「一つの文化」というと少々大げさかも知れないが、一つの素材・舞台・ネタを提供してきたことは間違いない。それがマカロニ・ウエスタンやスキヤキ・ウエスタンの様に「直接西部劇として具体化した/焼き直した」ものもあれば、そのストーリー筋立てや背景世界だけを取り出したSFなど他のジャンルに化けた・転化したもの(※1)もあり、そんな「隠れ西部劇」を見つけ出す/炙り出すのも西部劇ファンの一つの楽しみだ。

 逆に言うと、今となってはそんな楽しみ方もしなければならないのが西部劇ファンでもある。
 と言うのも、本場・本家アメリカでさえ「西部劇」と呼べる映画は殆ど「シルバラード」が最後であり、「許されざる者」とか「ダンス・ウイズ・ウルフ」とか、「アラモ(新)」とか、リメイク含めて時代背景舞台設定は西部劇と言う映画ですら数少なく、「西部劇」と認定できる映画はもっと少ない。(※2)即ち、西部劇は今や、絶滅危惧種であり、殆どニホンカワウソ級(※3)なのである。
 
 そんな状況に至った理由の一つが、モータリゼーション=自動車の普及だという説がある。自動車が普及して、乗馬できる俳優が激減したのが、西部劇衰退の理由だという説だ。一見尤もらしいが、私は信じない。乗馬できる俳優が減ろうとも、西部劇に需要が見込めるならば、俳優は馬術を身につけるだろうし、馬術自体は「とんでもない特殊技術」や「子供の頃から仕込まないと一人前にならない伝統芸能」ではない。(※4)さらに言うなら、CG特撮を駆使しての「実際の乗馬を必要としない」西部劇、さらに極端には、馬が登場しない西部劇だって、作れないことはないだろう。
 そんな西部劇がで出来てこないと言う事は・・・やはり興業的に西部劇なる「ダシモノ」の人気が廃れた、と考えるほかない。
 
 だが、まあ、世間一般の人気がどうあろうとも、私は西部劇のファンだし、ジョン・ウエインのファンだ。小説なんかと違って西部劇映画は「誰もが作れるものではない」のが、残念ではあるが。(※5)

 小説の「西部劇」って読んだことがあるけれど、全然面白くなくて、それ以来手すら触れていないんだよねぇ。
 いや待て、少々、否、大分伝記的色彩が強いが、菊池秀之の「アリゾナ銃剣風」シリーズがあったじゃないか。あの伝で、自分で「西部劇小説」書いたらどうなるか・・・少なくとも、検討の余地はあるぞ。

 ふんぐるぃぃ、むるぐうなうふ、ジョン・ウエインるるいえ、うがふなぐる、ふたぐん!

 古き骸を捨て、西部劇はここに蘇るべき・・・かも。


<注釈>

(※1) 寺沢武市作「コブラ」には、明らかに筋は西部劇ネタと言うのが、いくつか有る。 

(※2) 「アラモ(新)」なんて、見ようと言う気さえ起こらない。人類が、ジョン・ウエイン主演・監督・制作の「アラモ」を越える「アラモ」映画を作れるとは、私には想像できないから。
 ある意味「食わず嫌い」であることは、認めざるを得ないが。 

(※3) 「実は既に滅んでいた」という可能性を含めて。 

(※4) 映画「11人のカウボーイ」のDVDに付録で付いているメイキング画像にそんなシーンがある。タイトルの「11人」は、11人の小学校高学年ぐらいの少年たち。彼らがカウボーイとなって牛を運ぶのがこの映画なので、子役が沢山出てくるのだが、「乗馬は得意だが演技はイマイチなグループ」と「演技は得意だが乗馬は初めてなグループ」があり、「お互いに教えあうんだ」と大人が諭すシーンがある。
 子役とは言え、「乗馬の出来ない俳優を使って西部劇を作っていること/作れると言うこと」を、このシーンは示している。 

(※5) それ即ち、作れるものならば、私自身が作りたい、と言うことだ。その際は、今は故人となった俳優達も呼び出したいねぇ。むろん、その筆頭は、ジョン・ウエイン御大だ。