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.銃規制だけで「日本のような銃のない社会」を作ろうとする愚
さて、如何だろうか。
基本的な認識の確認から行こう。アメリカは銃が合法・非合法ひっくるめて存在する「銃社会」であり、我が日本は「銃社会ではない」。ヤクザなどの非合法銃が昔よりは増えたが、それでも一般人は警官の持っている拳銃を見るのが関の山である「銃無き社会」だ。ここまでは、多分、衆目の一致する処。あまり異存異論は出ないだろう。
で、その「日米の銃社会度格差」を発生させたのは、ロムニー大統領候補や全米ライフル協会NRA(※1)などの「悪人・悪役・悪玉の性」であろうか。
とぉんでもない。
アメリカが銃社会となったのは、アメリカの歴史に大きく依存する。「アメリカ人魂」と言う意味では今でも西部開拓時代に由来する”Frotneer Spirit開拓精神”と言う表現を使うのも「アメリカの歴史」故。要は「広大な土地を、国家権力=警察や軍の庇護を当てにできない状態で切り開いた国」と言うのが「アメリカ人の歴史観」の根幹にあるから、自存自衛は当たり前で、「当然の権利」。武装権を「全米ライフル協会が盾に取る、銃規制反対の口実」とだけ捉えると、アメリカ観・アメリカ人観を大いに誤る事になろう。その武装権は自衛権ばかりではなく、「政府に誤りがありすぎる場合には、武器を取って武装蜂起し、政府を倒す」革命権にも繋がっているのだから、尚更だ。「日本のような銃無き社会を作るため、銃規制を強化し、銃を捨て、武装権を放棄ないし弱化しましょう」なんて主張に黙って従うアメリカ人なんて、「殆ど居ないだろう」と私は予想するぞ。
1〉 対する共和党候補のロムニー・前マサチューセッツ州知事は、いかなる銃規制にも賛成できないとの立場を繰り返した。
2〉 すでに十分な規制がなされているからだという。
3〉 だが、もしそうなら、なぜ毎年、約10万人もの米国人が、乱射事件や事故、警察による銃撃などで、死傷するのか。
4〉 なぜ毎年、3000人近くの子どもが凶弾に倒れるのか。なぜショッピングモールで銃の携行が必要なのか。
私が予想するに、アメリカ人、少なくともその一部は上記3〉~4〉の対価を払うだけの価値を武装権に見出しているだろう。銃の暴発、事故、犯罪、何れも銃が原因だから、「銃を無くせばそれらがなくなる」とは言い得る。が、「銃無くして、どうやって自衛するのだ?」と、考えるアメリカ人は当然いるし、多分、多い。「銃を無くす」方法が銃規制であるならば、「無くなっていく」のは合法的な登録された銃が先で、非合法で登録されていない銃は後・・・・と言うより、減らす事は出来ても無くす事は出来まい。そんな状態で、ショッピングモールだろうが何処だろうが「銃を持つな」=「銃で自衛するな」と言う「要求」が如何に無茶・無体か、肥田美佐子記者は理解していない/理解できないようだ。
治安が十分高いレベルで維持され、警察に対する信頼も十分に高ければ、警察権力の及ぶ範囲、例えばショッピングモールでの「丸腰強制」=銃携行禁止は可能であろう(※2)。幸いな事に我が国では相当広い部分で、いまだ治安も警察に対する信頼もこのレベルにある。だから街中の検問で酒気帯び運転をチェックする事は有っても、通行人を含めてボディーチェック=銃携行の検査なんてのは、空港ぐらいでしか実施されない。
だが、アメリカの治安、警官に対する信頼度は、銃携行禁止を徹底維持できるほど高いだろうか。
先述の通り、私はアメリカを主として文献で知るだけだが、可能であるならば、アメリカを旅行するのには護身用の拳銃ないし拳銃を持つ友人が欲しくなる。警察権力の届きにくい田舎に行くならなおさらだ。つまり、アメリカの治安・警官の信頼度は、「銃無き社会へ移行するための銃規制徹底」を有効にするレベルにない、と私は感じているのだが・・・肥田美佐子記者は違うのだろうか。 少なくとも、全米ライフル協会も、それに踊らされてかどうかは判らないが多くのアメリカ人も、自衛権・武装権の必要性を認め、そのための武装・銃を買い求めている。それはまさしく、上掲記事の伝えるアメリカ銃社会事情だ。「銃規制派のふがいなさ」や「全くと言って良い程進まない銃規制」は、その結果であって、原因ではなさそうだ。
5〉 22日の感謝祭の夜には、テキサス州サンアントニオのデパートで、ある男性が、列に割り込もうとした別の男性をとがめたところ、
6〉 言い争いになり、顔を殴られたため、銃を取り出すという乱闘騒ぎが起こっている。
7〉 しかし、米メディアによると、おとがめはなしだった。
8〉 この男性は、銃を外から見えないようにして携行する「隠し持ち」の許可を取っていたからだ。
9〉 丸腰の相手に銃を向けることが合法とは、なんとも物騒な話である。
「丸腰の相手に銃を向けること」を、一体どんな法律違反・犯罪だと、この記者・肥田美佐子は主張しようと言うのか。我が国では「銃を所持し、携行する事」自体で銃刀法違反には問われようが、カッとなって「丸腰の相手に銃を向けた」とて、それ自体で犯罪になるとはとても思えない。況や上記5〉~6〉の通り、相手は列に割り込み、先に顔を殴って居るのだ。「正義は銃を抜いた男性の方にある。」普通のアメリカ人はそう考えそうだし、私だって(※3)銃を抜くことは十分考えられる状況だ。
況してや米国では、「銃を合法的に所持・携行出来、この男性も「隠し持ち」許可を持っているのだから、それは犯罪ではない。「丸腰の相手に銃を向ける」と言うが、丸腰かどうかなんてボディーチェックでもしない限り判らない。即ちこの場合、相手も拳銃を隠し持っている可能性がある。肥田美佐子記者が犯罪者の如く扱う当該男性が実施したのは「相手よりも先に銃を抜いた」というだけだ。まあ、西部開拓時代ならば、「相手よりも先に銃に手をかけた」だけで正当防衛が成立し、その相手が射殺しても無罪だったのだが。
銃を向け、発砲した、或いは脅迫したのならば、罪にもなろうが、「カッとなって相手に銃を向けた」「相手は(たまたま)丸腰だった」とて、犯罪に仕立ててしまう方が問題であろう。
アメリカは現状銃社会だ。一般の市民が銃を携行している可能性は現状あるのだから、「相手が銃を持っている」事を前提に自衛・防衛・行動するのは当たり前で、「相手は銃を持っていない」と予断する方がはるかに危険だ。少なくとも、当人にとって。
「物騒な話」と言えばその通りだ。だが、既に銃社会であり、劇的な治安向上と警察の信頼度向上が期待できない以上、アメリカは「物騒」であり続けるべきだ。治安と警察への信頼の劇的向上しないままの「銃規制だけ先行」は、一般人の銃被害を増やしこそすれ、減らしはしないだろう…と、まあ、アメリカを文献と映画・音楽でしか殆ど知らない私は断じてしまう。尚且つ「傲岸不遜」にも、その判断を「米国在住のジャーナリスト」肥田美佐子記者よりも「正しい」と感じてしまう。
「正しい」と感じてしまうのは、「そう考える方が合理的で、筋が通っている」と感じるから。無論、この世、特に社会なんてのは、物理法則なぞと違って「理屈通りにならない」ものであるから、「合理的な法が正しい」とは限らないのであるが。
でもねぇ、アメリカを「日本のような銃無き社会」にするためには、銃規制の強化なんかじゃ絶対的に不足で、武装権・自衛権・革命権との何らかの折り合い・妥協が必要だと思うぞ。況や、「全米ライフル協会の暗躍」だの「銃規制のなさ/少なさ」だの「銃小売業者の盛況ぶり・販売努力」を嘆いて詰ったところで、屁のツッパリにもなりはすまい。
<注釈>
(※1) 上掲記事では「米ライフル協会」と訳されているが、ここでは言い慣れた「全米ライフル協会」を使わせてもらおう。ああ、「急襲用ライフル」ってのが、Assault Rifleの事ならば、ソリャ「突撃銃」或いは「軍用自動小銃」とすべきだろう。現代歩兵は歩兵用の小銃を統一し、分隊支援火器とは分けているから、「急襲用」も「待ち伏せ用」もなく、歩兵の小銃は一種類だ。狙撃銃を分ける事は有るが、ありゃ分隊支援火器の一種だろう。「これぞ我が銃。世に銃は数多あれど、我が銃はただこれのみ!」と言う米海兵隊員の誓いを知らないのか。だとしたら、映画「フルメタルジャケット」を見ていない、って事だな。(※2) 西部劇でも、ジョン・ウエイン主演「エル・ドラド」、ジェームス・スチュアート主演「ウインチェスター銃73」などで「街中では銃携行禁止」が実施されている。(※3) 「適切なサンプル」とは言い難いだろうが。
西部劇を知らずに、アメリカ人を語れるのか?
上記の通り、日本に住んでいながらアメリカ在住のジャーナリスト肥田美佐子記者の報じる「アメリカ銃社会事情」記事を批難してしまっている私だが…なぜそうも、アメリカに住んでもいないのに、傲岸不遜にも「己がアメリカ理解・アメリカ観」を正当化できてしまうのか、と考えると・・・「西部劇」って要素が思い当たる。
かつて、アメリカの大俳優・大スター・ジョン・ウエインは、「彼こそアメリカそのものだ。」と謳われた。そのジョン・ウエイン主演映画の相当部分は西部劇であり、その役どころも大凡決まっている(※1)。率直に言って私はジョン・ウエインのファンであり、西部劇のファンでもある。その西部劇を通じての「アメリカ銃社会理解」と言うのは、上掲記事の肥田美佐子記者の知らない或いは非常に軽視している見方なのではなかろうか。だからロムニー候補や、全米ライフル協会を悪役に仕立て上げないと「遅々として進まないアメリカ銃規制」が理解できない、のではなかろうか…
無論推測である。邪推かも知れない。私は西部劇のファンであり、西部劇を通じて「アメリカ現代銃社会」を「理解」しているから、それ故に誤解がある可能性も、大いに曲解している可能性も、否定できない。或いは、肥田美佐子記者自身が「西部劇の大家」である可能性でさえ、否定するだけの材料はない(※2)。
ただ、① 武装権の軽視、② 自衛権( 及び革命権 )との相関軽視 この二点だけは「とても西部劇ファン、ないし西部劇をある程度知る者とは思えない」とは言えそうだ。西部劇と言うのは基本的に「武力による正義の執行の肯定」なのだから。
或いは・・・心、此処にあらざれば、見るとも見えず。西部劇を知識として持ってはいても、西部劇と武装権との相関が全くつかない/相関すると言う発想すら浮かばない、と言う可能性も、あり得ると思う可きだろうな。
<注釈>
(※1) 無論、例外もあるにはあるが。「11人のカウボーイ Cowboys」なんて…見てのお楽しみ。(※2) かつて、日本人留学生・服部君がハロウインの夜に誤って他所の御宅の敷地に侵入してしまい、家人に射殺されてしまうと言う事件があった。その際家人が服部君に「Freeze!(動くな!)」と警告を発したのに対し、「”Freeze!”に”動くな!”と言う意味があるとは知らなかった」とのたまう英語専門家の発言が、日本で報じられた。この発言のお蔭で、この「英語専門家」がロバート・A・ハインライン作「宇宙の戦士 Starship Troopers」を読んだことが無い事が判った。ソリャSF小説「宇宙の戦士」や「西部劇」がアメリカ文化の中心とは言い難いだろうが、少なくともアメリカ文化の一端だろう。