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東京新聞に対する宣戦布告受諾通知


 さて、如何だろうか。東京新聞社説。当該社説の主張するように、「私たちは侮辱の中に生きている」だろうか。

 まず当該社説言うところの「侮辱」の内容を中心に整理すると、以下の様になろう。

 ① 権力が民衆を、国家が国民を、ほとんど人間扱いしていないから「侮辱」である。

 ② 福島原発事故では全電源停止に対し、バッテリーすら用意して居なかったから、「国民を人間扱いしていない」。

 ③ 大飯原発は電力不足を理由に再稼働したから、「国民を人間扱いしていない」。

 ④ オスプレイ沖縄配備も「国民を人間扱いしていない」。

 ⑤ 米兵事件への対応はその場しのぎで「国民を人間扱いしていない」。

 ⑥ 一票の重み格差も「国民を人間扱いしていない」。

 ⑦ 誰がデモクラシーを軽視し、「国民を人間扱いしていない」のかは不明だが、投票前に見つけ出すため、私たちは戦う。

 ナーンと言うか、脱原発原理主義が高じてデモクラシーを軽視し、国民を侮辱する悪者が何処かに居る。そいつを探し出せ!と言う陰謀論に走っちまったってのが第一印象だ。ああ、新聞を売り、記事を売り込み、センセーショナルを煽るには、陰謀論は持って来いだろうさ。「侮辱」なんて強いキーワードを使い、「大江健三郎の演説引用」で箔をつけて、「ツカミはOK(*1)」なのかも知れない(*2)。
 
 だが、そんなちゃちな「箔」は、大江健三郎を「日本語が下手くそなくせにノーベル文学賞を受賞してしまった三文文士」としか思わない私には通用しない(*3)。だから、東京新聞の煽るセンセーショナリズムにも毫も動じはしない。

 上記②~⑦では「侮辱」と言う表現を「国民を人間扱いしていない」に言い換えてあるが、これを「いじめ」と言い換えても殆ど違和感がない。それが冒頭にも記した「自らいじめを主張する被害妄想者」を連想させた訳だ。急いで付け加えるならば「人間を人間扱いしない」と言うのはある種の差別であり、私の最も忌むモノの一つである。御厨さとみのSF短編マンガ(*4)に「人を人として扱うのは、生き延びるための知恵なのだ。」とあったのを、「そうとは限らない」と思いつつ、「そうであってくれたら良いな」と肯定してしまったくらいである。さらには、20世紀における日本の人類史上最大の貢献の一つが、「人種差別の弱体化・非倫理化(*5)」であると考えているぐらいだ。だから、「人を人として扱わない」事象に対しては、相応に厳しい目を持っているつもりだが…上記②~⑥に例示された事象は、果たして、「国民を人間扱いしていない」=「侮辱」と言うべきものであるか。

 下から行こうか、上記⑥「一票の重み格差」だ。成るほど「格差が2倍以上あるから違憲状態」と言う判断は出た。それに対し「格差是正の動きが鈍かった」のも事実だろう。だが、完全比例代表制にでもしない限り、「一票の重み格差」と言うのは常に発生する。問題は、選挙制度の改正と何倍までの「一票の重み格差」を許容するかと言う妥協をどこでするか、だ。その基準として「2倍」と言う線が一応出されて居る訳だが、「その基準を満たさないから選挙は出来ない/無効」と言う民主党の一部などにある議論は、少なくとも大いに異論の在る所だろう。私なんざぁ「一票の格差」を盾にとって政権延命を図る民主党( の一部? )は、「一定の目途が付くまで」政権延命を図った管直人と同根・同じ穴の貉に見えて仕方がない。一体、何れが「デモクラシーの軽視」であるか。少なくとも「侮辱している」=「国民を人間扱いしていない」、それも当該社説によれば「赤ん坊である我が子が死んでいくのを座視しなければならない」程の「侮辱」と、断じる事は出来まいに。

 上記⑤「米兵の犯罪」であるが、一体「その場しのぎではない対応」として何を求めているのか。沖縄二紙宜しく「米軍撤退」すれば、なるほど「米兵の犯罪」はなくなるだろう。だが、その理屈で言えば、「外国人犯罪をなくすため」には「外国人入国禁止」しなければならないし、「犯罪をなくすため」には「無人地帯化」する以外に「対応」はあるまい。そうでなくても「米兵が犯罪を犯した」事に対し「対応がその場しのぎ」である事を「侮辱だ」「人間扱いしていない」と主張するのは、強請集りの主張でしかあるまい。

 上記④はもっと酷い。オスプレイが危険であるからと言うならば、東京新聞は人非人と言うべき程に利己的な主張を公言している事になる。オスプレイは既に実戦配備開始以来5年を経ている米軍制式兵器で、それが「危険である」ならば「危険にしている欠陥の除去」か「オスプレイの全面飛行停止」を求める筈だ。然るに「オスプレイ沖縄配備だけ反対」を主張する事は、オスプレイが墜落したらその墜落事故を免れない搭乗している米軍人がいくら死のうと知った事ではない」と言う公言・宣言・断言に他ならない。そんな利己的な主張を公言しながら、オスプレイ沖縄配備は侮辱だ」とは、強請集りよりもまだ酷かろう。一体、何様のつもりだ、東京新聞。
 「オスプレイ配備に沖縄県民が反対しているから」と言うならば、先ず反対理由が問題になる。それが「オスプレイの危険性」ならばその主張が人非人と言えるほどに利己的であるのは上記の通りだ。「不安がある」とか「気持ちが悪い」とか「低周波騒音が(耳には聞こえないけれど)大きい」とか言うならば、まだ反対理由としてはマシではある。だが、「地元住民の民意が駐留外国軍の装備を決める」と言うのはある種「デモクラシーの理想」かも知れないが、そんな「理想状態にない」からと言って、それを「侮辱」だの「人間扱いしていない」と何を以って断言するのだ。オスプレイはすでに全世界に配備されて、5年も経っているし、「理想状態にない」と「侮辱」の間には天地ほどの開きがあろうが。

 上記③「流石は脱原発原理主義の東京新聞」と言うべきか。確かに今我が国の大半の原発は稼働停止している。停止している原発は稼働している原発よりはいくらか安全だろう。だが、その内部にはまだまだ使える核燃料が入っているのだから、リスクと言う意味では大差はない。対してメリットと言う点では、停止して居れば発電量は皆無。稼働して居れば需要に応じて(レスポンスは早くないが)発電できる。コストパフォーマンスならぬリスクパフォーマンスで言えば、優劣は明らかで、「さっさと全原発再稼働しろ」と言うのが私の/当ブログの主張であるが、そこは脱原発原理主義者との「宗教の違い」ではあろう。
 当該社説で問題となるのは、「大飯原発再稼働」と言う事象が「国民を侮辱しているか/人間扱いしていないか」である。

1〉  大飯の再稼働はろくな検証もなく、電気が足りなくなりそうだという理由だけで決まりました。
2〉 国民の安全がかかわる問題なのに、これほど非民主的な決定は前例がないでしょう。

と、当該社説は抜かすが、電力を安定供給し、地域的にも時間的にも不足を起こさない事こそ、電力会社の使命であり存在理由。福島原発事故後は非難の的にされている地域独占もそのための方策であり、その存在理由・使命を果たすための大飯原発再稼働決定が民主的である必要なぞ、さらさら無い。民主主義や民意は、万能でもなければ、唯一絶対者でもない筈なのに、一体何を血迷って・・・・と言うだけ無駄か。全く、脱原発原理主義者とは度し難い。「侮辱」だの、「人間扱いしていない」だのの批難も、所詮は「脱原発を達成するための手段」でしかないのだろう。

 上記②は最もCriticalな事象、福島原発事故に対する対処だ。全電源喪失のために蒸気逃がし弁によるベントが間に合わず、水素爆発に至った経緯の中で、「バッテリーすら用意していなかった」事が批難されて居る訳だが(*6)、地震による全電源停止に対しては、バックアップのディーゼル発電機が用意されていた。そのバックアップ用ディーゼル発電機が役に立たなかったのは津波の水を被ったから。「津波の被らない様にしておけ」とか、「さらにバックアップを、例えばバッテリーを用意して置け」と言うのは後知恵で幾らも言い得よう。「こうして置けば良かった」「こうすれば良かった」と言う非難は教訓として大いに活用すべきであるが、「全電源停止に対するバックアップディーゼル発電機に津波対策を施していなかった」事が「国民を人間扱いしていない」=「侮辱している」と非難されるべき事だろうか。

 Nutz!冗談ではない。

 東電社員、ひいては電力会社を侮辱し、人間扱いしていないのは東京新聞の方である。「福島第一原発の安全対策は不十分だった」と東電社員/電力会社を批難しえても、「全電源停止に対するバックアップディーゼル発電機に津波対策を施していなかった」事を以って「侮辱」と、「国民を人間扱いしていない」と断じるとは、一体何様になった心算だ、東京新聞。

 で、挙句の果てが上記⑦陰謀論と来たもんだ。

 無論、再三繰り返すとおり、私は福島原発事故を経てなお原発推進論者だ。斯様な東京新聞社説批判を開陳する以上、東京新聞からすると「敵」に違いない。オスプレイの沖縄配備さえ、容認どころか歓迎しているのだから、尚更だ。

 故に、ここに宣言しようではないか。

 「東京新聞の戦うべき相手」ならば、ここに居る、と。

 これは、当ブログから東京新聞への宣戦布告ではないが、東京新聞の宣戦布告ならばいつでも受けて立つと言う宣言である。



<注釈>

(*1) こいつが古いギャグだとは承知しているが、最近のギャグは全く知らないし、知ろうとも思わないのでね。

(*2) 一方で、「元国語教師からの手紙の引用」と言う形を取っているから、如何様にも責任回避が出来る。例えば、大江健三郎が上掲社説の通りの演説をしていなかったとしても、氏名さえ不明な元国語教師に責任を押し付けられる。

(*3) 私が理系の人間で、「文系の権威」には頓着しないと言うのも、効いていよう。

(*4) 低酸素濃度の惑星に順応し、知能が低下したとして差別されていた人類の末裔が、テラフォーミングと暴虐を尽くす人類「主流派」に、黒色火薬を調合して反旗を翻す話。タイトルは忘れた。

(*5) 「撤回」或いは「なくす」と言うのは、言葉の上ならともかく、実際は容易ではない。現時点でも人種差別と言うのは一定程度あるし、なくなる目途は、残念ながら無い。

(*6) 当時忌まわしきことに首相であった管直人の現地視察による作業遅れの可能性を、私は未だ「ある」と見ている。逆にこの現地視察が「その後の判断に役立った」と言う管直人の主張には、一片の妥当性も見出せない。