応援いただけるならば、クリックを⇒ https://www.blogmura.com/   


 「国民投票にかける」或いはもっと範囲を狭めて「住民投票にかける」と言う提案は、直接民主主義の行使であり、その意味で「民主的」であることは一寸疑いの余地がない。だから、その提案に反対したり、あるいはその投票結果を無視すると言う事は、相応に度胸が要る事だろう。

 だが、「あの時は民意に従ったまでです」と言い訳すれば、大概の誤判断・誤決断に対する追及は大いに緩むだろう。
 
 問題は無論、「責任追及の手が緩む」事ではない。責任者を絞首刑や銃殺刑や斬首刑に処するか否かが問題なのではない。
 
 重要なのは「誤判断・誤決断を減らす事」だ。神ならぬ身の人が為す事ゆえ、「誤判断・誤決断をなくす事」は不可能と考えるべきだが、「極力減らす」事はできる。直接間接を問わず民主主義・民主制も、「誤判断・誤決断を減らすための手段」だ。
 
 国民投票なり住民投票なりにかけて、直接民主制に訴えることが「誤判断・誤決断を減らす」事につながるとはとても思えない。こと原発再稼働問題や、”原発ゼロ”がかかった我が国のエネルギー政策を決めるとなればなおさらだ。
 尚且つそれは確実に「議会の責任」を軽減する連帯責任の極致であるが故に、無責任な議員共(*1)は諸手を挙げて大賛成するだろう。それ即ち、現・民主党政権ならば、まさに実施しかねない事だ。
 
 直接民主制の執行、国民投票/住民投票による決着と言うのは、間接民主制=議会ですら責任を負いかねるような、憲法改正のような大問題に限定されるべきではないのか。
 
 少なくとも、議会が責任を免れるための直接民主制の執行は、議会の自殺であるばかりか、究極的無責任である。而してそれは、誤判断・誤決断の温床となる公算大である。
 
 何しろ、先の衆院選挙で民主党に憲政史上最多の議席数を与えて「政権交代」を引き起こしてしまった(*2)我が国民の事だ。とてもじゃないがその国民投票/住民投票で「我が国を正しい方向に導く」なぞ、期待どころか想像する事すら困難だ。


<注釈>

(*1) 殊に、大衆迎合して恬として恥じない議員共 

(*2) そのために私は、我が国における民主制度に絶望しかけたぐらいだ。  失望すれども、絶望せず-衆院選自民惨敗民主大勝を受けて  http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/29646287.html  



<参考>当ブログの民主主義関連記事






(6)議会制民主主義の意義と危機―産経【賢者に学ぶ】「「民意に従え」は政治の自殺 」で考える  
(7)脱原発デモに国会は屈するべきか