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私は貧乏性で、食い意地が張っている。だから供された食事は一物余さず完食する事を基本とし、食えるモノは残さず食って(*1)、残飯なんてモノは滅多に出さない。あまりに大量の料理だとそれが叶わない事は無論有るが(*2)、それでも相応の努力はする。
比べるのも畏れ多いが、天皇陛下の御食事と言うのは「皿の上に乗っている物は全て食する」のだそうで、誤って柏餅をお出ししてしまったところ、陛下は苦労して柏餅を巻く柏葉を召し上がってしまったそうだ。
柏餅を陛下にお出ししてしまった料理人は、世が世ならば切腹モノの大失態であるが、苦労して柏葉を召し上がる陛下の御姿を想像すると、ユーモラスでもあり、「皿の上に乗っている物は全て食する」と言う原則を貫こうと律儀でもあり、また食事・料理に対する真剣さ・真摯さも感じて、ある種「理想的日本人像」を見る思いがするのも確かだ。
逆に言えば、「食事・料理に対する真剣さ・真摯さ」は日本人を構成する一要素である。
而してそんな要素は、アメリカ人は持ち合わせていないらしい(*3)。下掲示二本の記事は、そんなアメリカ食事事情を報じている。
<注釈>
(*1) エビの尻尾も、骨付き鶏肉の軟骨も。
(*2) ソリャいくら大食いの私でも、成長期の頃の様な凄まじい量は今では食えない。(*3) アメリカ人は日本人ではないのだから(日系人は居るが)、持ち合わせていなくても別に不思議ではない。
転載開始=========================================
①【外信コラム】ポトマック通信 飽食大国を嘆く
http://sankei.jp.msn.com/world/news/120906/amr12090603040000-n1.htm
2012.9.6 03:04 [米国]
米国の商業施設や大きなオフィスビルにはフードコートがつきものだ。セルフサービスの飲食店が集まり、忙しい際にも重宝するが、どうしてもいたたまれない光景がある。
かなりの量の残飯をごみ箱にどさっと流し、そそくさと席を立つ人が少なくない。そもそも日本に比べて料理の量が多めで、中には口に合わなかった人もいるだろう。だが、残飯を捨てることを何とも感じないといった表情を見せる人がいる。レストランでも、ウエーターに「もう皿を下げてもいいか」としつこく聞かれ、食事をゆっくり楽しめないことも多い。
米環境保護団体の「天然資源保護協会」が先日発表した報告書によると、米国人が残飯などとして廃棄する食べ物は、年間1650億ドル(約13兆1千億円)に上るという。1970年代の1・5倍だそうだ。自宅での食事や外食に加え、流通過程も合わせて食べ物の約4割が廃棄されているというから、米国の飽食ぶりをうかがわせる数字だ。
もちろん食事の所作が美しい米国人も少なくない。だれでも好き嫌いはあるし、私も恥ずかしいが例外ではない。だが、「米粒ひとつにも神様がいて、農家の思いが込められている」と教わった日本人の端くれとしては、食事を粗末にしたくないと心底思う。(柿内公輔)
②【社説】米国は食料配給券国家
http://jp.wsj.com/Opinions/Columns/node_506707
2012年 9月 5日 17:05 JST
オバマ米大統領とロムニー共和党大統領候補の陣営は4日、経済の立て直しをめぐり、大統領が「未完成」と表現する評価に値するかどうかをめぐって中傷合戦を繰り広げた。そうしたなか、農務省が先月31日に発表した報告で、「フードスタンプ」(低所得者向けの食料品購入補助制度)の受給者数が4667万0373人に達したことが明らかになった。
フードスタンプの年間費用は718億ドル(約5兆6255億円)と、過去最大となった。10年間では7700億ドルに相当する。しばし熟考してほしい。4600万人というのは、米国民の約7人に1人が生活の最たる必需品の1つを購入するのに税金に頼っている計算となる。息をするのがタダで良かったといったところだ。
オバマ大統領が生み出したわけではないリセッションや、非常に多くを行って弱まっただけの景気回復によって打撃を受けた貧困者および米国民を中傷しようとしているのではない。セーフティーネットである給付金制度およびその受給者数は、経済に伴って拡大したり縮小したりするはずだ。しかし、リセッションは3年前に終了したが、現大統領の下では、縮小はしていない。
フードスタンプの受給者数は先月に17万3000人増加し、利用は1年前の水準から3.3%増えた。2009年には、フードスタンプの受給者数は3300万人、同プログラムの費用は504億ドルに過ぎなかった。02年に成立した最悪の農業法のなかでこの制度を拡大した共和党のブッシュ前政権時代に、フードスタンプの受給は拡大し始めた。
しかし、さらに急増したのは、ペロシ前下院議長(民主党)が打ち出した08年の法案で、受給資格を拡大するとともに、受給を受けているという不名誉を軽減するために正式名称が補助的栄養支援プログラム(SNAP)に改められた。そしてその後、09年の景気刺激策で同プログラムは再び拡大された。
リベラル派は当時そして今だに、フードスタンプは政府が経済を活性化できる最も有効な方法の1つだと主張している。リベラル派は実際、この考え方を信じているという。米農務省経済研究局は、フードスタンプは1.79の「乗数」だと概算する。つまり、フードスタンプによる給付金1ドルにつき、国内総生産(GDP)が1.79ドル押し上げられるとの意味だ。ではなぜ政府当局者は、全国民の日に三度の食事をフードスタンプで賄い、経済をてこ入れしないのだろうか。
ロムニー陣営は、非情だと避難されるから言わないだろうが、米国民7人のうち1人がフードスタンプの受給者となっているのは、国民に対する政府の思いやりを示すものではない。これは経済面の失敗を示すものだ。共和党のポール・ライアン副大統領候補による同党全国大会での素晴らしい発言を思い出してほしい。「現政権が提供できるのは、1つの給付金制度から次の給付金制度への冒険なき旅、政府によって統制された生活、すべてが無料であるものの民に自由がない国家だ」
=================================転載完了
「食事を提供する」のは、単なる商取引ではない。日本人にとっては。
さて如何だろうか。
上掲①の産経コラムは、「食事を残す」=「残飯を出す」事に殆ど抵抗がないらしいアメリカ人の一情景を描写し、日本人たる記者自身との比較をしてみせる。
上掲②のWSJ紙記事は、「「フードスタンプ」(低所得者向けの食料品購入補助制度)の受給者数が過去最大になり、米国人の1/7に至っている」現状を嘆き、それは「経済面の失敗」の結果であると、政府を糾弾する。
日本でも生活保護の不正受給が問題化しており、その事情は上掲②記事に現れる米国事情と相通じるものがありそうだが、生活保護不正受給とは別の違和感・異質感を覚えるのは、上掲①の記事があるから、だ。一言で言えば「勿体無い精神」であり、平たく言えば「食い残して残飯として捨てるぐらいならば、食事にも困る人に供すればよかろうに。」である。
さらに言えば、上掲①記事に現れているアメリカ人のメンタリティーが貧富に関わらず同程度であると仮定すると・・・・「フードスタンプによって受け取った無料の食糧を食べ残し、残飯として捨ててしまう。」と言う、誠に「恐るべき」情景さえ想像できてしまう。
「食うに困るほど経済的に困窮している人間が、そんなバカなことはするまい。」と言うのは、極めてまっとうな(*1)常識論ではあるが、人は自腹を切って買ったものほどには無料で配布されるものは大事にしないものだ。フードスタンプがどんどん支給される状況では、上記のような「恐るべき情景」は現実のものとなりえよう。
「フードスタンプによって受け取った無料の食糧を食べ残し、残飯として捨ててしまう。」と言う情景を「恐るべき」と感じ、「食い残して残飯として捨てるぐらいならば、食事にも困る人に供すればよかろうに。」と発想する、「勿体無い精神」は、日本人の専売特許ではあるまい。
しかしながら、「勿体無い精神」、わけても料理に対する「勿体無い精神」は、日本人の主要構成要素ではあるように、私には思われる。
而して、その背景となるのが、前記・「天皇陛下の柏餅」として具現化された「食事・料理に対する真剣さ・真摯さ」なのではなかろうか。だからこそ、宮中の年中行事として天皇陛下は新嘗祭で五穀を召し上がるし、即位直後の最初の新嘗祭は大嘗祭として特別視される。
「黄泉の国(死者の国)で食事をした者は帰って来られない」とする古事記・日本書紀にも登場する「よもつへぐい」と言う思想・発想も、食事・料理を神聖視(*2)・特別視するものと言える。
勿論、宮中行事や記紀の記述が21世紀の現代日本人にどれほどの影響を与えるか、と言うのは疑問とせざるを得ない。宮中行事も記紀もろくに教えなくなった戦後教育が実施されて久しいのだからなおさらだ。
だが、宮中行事が日本有数の伝統的行事の集大成であり、我らが先人の思想発想を良く保存している事は先ず疑いようがない。記紀=古事記及び日本書紀に至っては我が国最古の歴史書であり、その史料性はともかく(*3)、そこに込められた我らが先人の思想・発想・願い・想い・理想像は疑いようがない。
故に、料理・食事を特別視した先人たちの末裔が我ら現代日本人であることは、紛れようもない事実である。
その現代日本人が、料理・食事に対する「勿体無い精神」を発揮するならば、その事象は正に、料理・食事を特別視した先人たちの精神的遺産を、宮中行事や記紀共々我々現代日本人が受け継ぎ、継承している証左であろう。
であるならば、章題にもした通り、「食事の提供」は日本人にとっては「単なる商取引」ではありえない。それは極端な話、キリスト教の宗教的儀式である聖餐式なのであり、「我が命を永らえるために、他の命を頂く」行為である。ビジネスライクに対価を支払えば御終いでは済まず、「いただきます」「ごちそうさま」と、食事・料理・料理人に敬意と感謝の念を示す(*4)。
言い換えれば、「いただきます」「ごちそうさま」を通じて現代日本人は、古代日本人と共感共鳴しているのである。
<注釈>
(*1) 少なくとも日本人としてはまっとうな(*2) と、言うのはこの場合は変だから(*3) 正真証明掛け値なし文字通り「神代の昔」に遡ってしまう歴史書だから、史料性が低下するのは致し方ない。(*4) 無論、例外は居るさ。給食にせよ飲食店にせよ、「対価は支払ったのだから、謝意を表する必要はない。だから「いただきます」も「ごちそうさま」も言わない。言うべきではない。」と主張する人も居る。だが、その主張は、合理的と言うよりは矮小かつ醜悪に思えて仕方がない。