【Q1】 デモは「民意」か? 【Q2】 「民意」は国会を超越すべきか? 【Q3】 直接民主主義は、間接民主主義に優先するのか?

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 先行記事にした通り(*1)、「脱原発デモとの直接対話」を曲りなりにも実施したのは鳩山由紀夫だ。それを「民衆の声が政治家を動かした」と手放しに寿いで見せた東京新聞社説についても同じ記事で触れた。
 
 鳩山由紀夫は前々首相であるから、確かに「元首相」ではある。だが、その「元首相と脱原発デモ隊の直接対話」の結果が「官邸に伝える」と抜かす鳩山由紀夫の宣言と、正真正銘掛け値なしに「首相官邸に伝えただけ」と言う鳩山由紀夫の「輝かしい実績」であった事も先行記事にした。それでも鳩山由紀夫が「宣言どおり実施した」のだから、これは稀有な事態に数えるべきだろう。
 
 確かに、「脱原発デモ参加者」が先頃主催者側発表にあったように「17万人」居たのであれば(*2)、大凡三個軍団なのだからチョイとした人数。野田首相がのたまったように「大きな音」も出す事だろう。また「60年安保以来の大規模デモ」であろう。
 
 が、章題に【Q1】とした通り、「60年安保以来の大規模デモ」であろうとも、或いは仮に「脱原発デモ」が「百万人デモ(主催者側発表(*3))」になろうとも、それは「民意」とは限らない。
 
 上掲記事①~③、「直接民主主義による間接民主主義・議会制民主主義の補間(朝日)」「私たち大衆の側(毎日)」「地殻変動(沖縄)」として「脱原発デモに現れた民意」を全面的に肯定している。現状の世論調査結果がその「民意」を裏書するに近い数字である、と言うのも事実だろう。が、それは「世論調査の結果が裏書する」からこそ「脱原発デモは民意」と言えそうなだけであって、「脱原発デモ参加者数が多いから」ではない。
 
 かてて加えて、その「脱原発デモに現れている民意」は、福島原発事故を経てなお原発推進論者である私と言う一個人の民意は反映していない。
 
 無論、私は自分を「大衆の側」などと感じた事も主張した事も少ないし、先の衆院選挙で「政権交代」の暴風吹きすさぶ中でも「民主党なんか信用できるか」と言い続けたぐらいだから、「我が意に反する民意」と言うのは幾らも経験がある。だから「我が意に反する」どころか「愚挙にして暴挙」と断じる「脱原発」デモに「民意が現れている」可能性は看過し得ない。
 が、上掲記事①~③のようにこの民意が目に入らぬかぁ!」と言う「脱原発デモ支持」には大いに胡散臭さを感じる。
 
 それは章題にした次なる疑問「【Q2】 「民意」は国会を超越すべきか?」につながる。これは、上掲記事①朝日社説の言う直接民主主義による間接民主主義・議会制民主主義の補間にも直結している。即ち脱原発デモに民意が現れており、民意に従え!」と主張するならば、議会・国会・間接民主主義・議会制民主主義なんてものは全く不要で、「デモ参加者数を正確に数える中立機関」さえあれば良い事になる。国論を二分するような選択には、この中立機関が数えた「デモ参加者数」で「決議」がなされる。それは、先行記事にもした通り(*4)、紛れも無い「議会の自殺」であろう。
 
 無論「議会が自殺してはいけない」と言う法はない。議会をなくして全て直接民主主義に決した方が誤り少なく上手く行くのならば、それも一つの手法だろう。或いは上掲記事①の朝日は( 巧妙にも )「直接民主主義による間接民主主義・議会制民主主義の補間」を主張している。即ち、議会の権限を「直接民主制」に割譲する「穏健案」ないし「妥協案」である。
 
 問題は、「間接民主主義から直接民主主義への権限(部分)委譲」が、現状よりもマシな体制であるか、否か、だ。
 
 現状よりも「民意を反映し易い」のは確かだろう。それだけ「大衆迎合」であり「世論に阿る政治」となる事も間違いない。間接民主主義を主とする現状に於いてさえ、大衆迎合政治家には事欠かないのだから、「直接民主主義で補間」なんぞした日には、現状よりも大衆迎合が悪化する事も先ず間違いないだろう。つまるところは章題にした最後の疑問「【Q3】 直接民主主義は、間接民主主義に優先するのか?」優れているのか?と言う疑問に帰着する。
 
 それは突き詰めれば、「民意」「大衆」による採決、単純に言えば「住民投票」を、何処まで信用するかと言う事になりそうだ。
 
 上掲記事①~③の通り、朝日、毎日、沖縄タイムスの各紙は「民意」「大衆」の前に全面降伏の様相だ。今の政治状況を「間接民主主義の欠陥」と捉えている節さえある。「議会が決められないのならば、住民投票やデモで決めてしまえ。」平たく言えばそう言う主張である。
 また、マスコミなんてのはそれで良いのだろう。大衆迎合してさえ居れば、新聞なり記事なりが売れてくれる。それで「人気取り」になるし、人気取りだけしていても、マスコミと言う商売には何の差し障りも無い。「大衆」への権限委譲だから、人気取りになるのも道理だろう。
 
 だが、その直接民主制に委譲された権限や、その為に恐らくはさらに加速されるであろう「間接民主制・議会制民主制の更なる大衆迎合化」は、より良い社会、より良い民主主義体制となるだろうか。
 
 とてもじゃ無いが、信じられない。
 
 先行記事で取り上げた賢者に学ぶ】と銘打った産経記事(*5)にて、哲学者・適菜収氏は直接投票で物事が決まるなら知性は必要なくなるからだ。」と断じている。言い換えれば直接投票する一般大衆が、知性を持って投票する事は期待でき無いと言う断言である。それ故に、「政治家の役割は、こうした民意の暴走から国家・社会・共同体を守ることである。とし、「民意の暴走」と言う上掲記事①~③とは全く逆の懸念を表明している。
 
 無論、幾ら哲学者であり「賢者」たる適菜収氏が絶対的に正しいなどと主張する心算は無い。だが、「民意は常に正しい」或いは「民意にさえ従っていれば良い」と言うのは政治の自殺と言うばかりでなく、思考と判断の停止であり、知的怠慢であり、理性の自殺である。それで「正しい判断・採決」が出来たならば、僥倖と言うべきである。少なくとも「民意を疑う」健全な猜疑心は必要である。
 
 況や、我が知性と理性の命じる限り「愚挙にして暴挙」としか評しようのない「我が国のエネルギー政策を脱原発化」を「現状の民意」や「脱原発デモ参加者数」で決しようと言うのは、正に狂気。「民意の暴走」以外の何ものであるか。
 

<注釈>

(*1) 脱原発デモ終焉の予感―鳩山由紀夫、脱原発デモに参加 http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/37329127.html  
 
(*2) 先行記事にした「脱原発デモ参加者二十万人(主催者側発表)」と言うのは、警察側発表との乖離があまりに大きいから、確実に嘘だろう。  
 
(*3) 警察発表の16倍が主催者側発表になって「二十万人」と発表されるぐらいだから、「主催者側発表百万人」なんてのは、大いにありうる事態だろう。 
 
(*4) 議会制民主主義の意義と危機―産経【賢者に学ぶ】「「民意に従え」は政治の自殺 」で考える   
 
(*5) 【賢者に学ぶ】哲学者・適菜収 「民意に従え」は政治の自殺  http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120706/plc12070603110001-n1.htm