応援いただけるならば、クリックを⇒ https://www.blogmura.com/   
 
===============【転載継続】========================== 

④【沖縄タイムス社説】[原子力基本法]なぜ今、「安全保障」か 

全国 2012年6月24日 09時54分
 不意をつかれた、としか言いようがない。「原子力行政の憲法」ともいえる原子力基本法に「我が国の安全保障に資する」との目的が追記された。核兵器開発の意図を含むかのような重大な文言修正である。追加文言の削除と徹底論議をあらためて求めたい。
 今回の法改定は、あぜんとするような手法がとられた。「安全保障」の追記は原子力規制委員会設置法案の末尾の「付則」に盛り込まれ、それで上位法である基本法の骨格が塗り替えられたのである。
 本来ならば基本法本体の改定を主とする法案を提案し、正面から議論を深めるのが筋だろう。審議に費やす政治的エネルギーを避ける意図でも働いたのか、と勘繰りたくなる。同法案は今月15日、衆院環境委員長名で提出。衆議院で即日可決し、同20日には参議院で可決、成立した。「スピード可決」で議論が尽くされたとは到底言えない。
 しかも、この追記は当初の政府案にはなかったものだ。民主と自民、公明両党の修正協議の中で、自民の意向を受けて加えられたという。
 同法案は、衆院通過まで国会のホームページに掲載されず、多くの国民は「改定決定後」の21日付の一部報道で初めて知ることになった。「密室」で、どさくさに紛れて決められた感はぬぐえない。マスメディアのチェック機能も問われかねない状況である。
 韓国の主要紙などから、日本の核武装や軍事大国化を懸念する論調が上がっている。それも無理はない。改定の過程をたどると、自国民の目にも不可解で看過できない。
 原子力基本法は1955年に制定された。基本方針として「平和の目的に限り」とうたい、「公開」などの原則を掲げている。なぜ今、目的を追記する必要があるのか。
 国内で脱原発世論が高まる今だからこそ、原発を保持する技術的有用性をアピールしたいのではないか。言外に、原発は国益上、重要不可欠なのだ、と国民向けにアナウンスする意図も考えられる。安全保障に絡めれば、情報のブラックボックス化も許容される。そんな計算も働いたのではないのか。
 藤村修官房長官は「平和利用の原則は揺るがない」と強調した。改定派の議員は「核物質の軍事転用やテロなどを防ぐ国際原子力機関(IAEA)の保障措置などを指す」と説明している。そうであれば「保障措置」という文言を引用すべきだ。軍事的ニュアンスを含む「安全保障」という表現を使う必然性はない。
 「原子力の平和利用」は53年の米国の政策転換に由来する。背景には核兵器開発競争で主導権を握る思惑や、原発を一大輸出産業と位置付ける米国の利害が反映していた。
 時代を経てもなお、安全保障面で米国の「核の傘」に依拠し、非核政策との矛盾を負う日本の現実は変わらない。一方で、原子力の源が「核」である以上、平和利用も致命的リスクと直結する現実を、国民は直視するに至った。原子力の本質と向き合った上で「原発」「安全保障」「米国との関係」をトータルでとらえる思考を培う必要もある。

 

⑤【琉球新報社説】原子力基本法改定 核兵器開発に道開くのか

2012年6月25日
 看過できない由々しき事態だ。原子力行政の憲法と言うべき原子力基本法に「我が国の安全保障に資する」との文言が追加された。
 解釈次第で核兵器開発に道を開く重大な変更だ。しかも日本の根幹に関わるこの変更が、さしたる議論もなく成立してしまった。
 国会は直ちに再度の法改正を議論すべきだ。どうしてもこの法を制定したいと言うのであれば、国民の面前で堂々と議論し、その正当性を問うべきだ。
 20日成立した原子力規制委員会設置法は、付則で原子力基本法の2条・基本方針を変更した。原子力研究・開発・利用は「平和目的に限る」という部分に「安全保障」を加えた。
 法の成立過程がそもそも不自然だ。他の法律より優先するはずの基本法の、しかも根幹である基本方針が、下位の法律で改定されたのだ。しかも下位法の本則でなく、付則で書き換えている。
 設置法の政府案にこの文言はない。民主・自民・公明3党の修正協議でなされた変更だ。法案が他党に届いたのは15日の衆院提出とほぼ同時で、その日のうちに衆院を通過し、20日には参院で可決・成立するという早さだった。しかも、衆院のホームページには18日の時点でも掲載していなかった。
 これでは国民にはチェックのしようがない。他党が「3党は国民的議論をさせないために、ぎりぎりのタイミングで法案を提出した」と批判するのもうなずける。
 あまりに不公正な手法と言うほかない。民主主義の原則にもとる。3党は手続きをやり直すべきだ。
 提出した自民の吉野正芳衆院議員は「安全保障」について、「核物質の軍事転用を防ぐ(国際原子力機関=IAEAの)保障措置を指す」と答弁した。だが、安全保障は軍事を指すと受け止めるのが国際社会の常識であり、いかにも苦しい説明だ。
 仮に提案者の言うような意図なら、軍事利用という解釈の余地が全くない文言に改めるべきだ。
 20日には改正宇宙航空研究開発機構法も成立した。これも「平和目的」への限定を改め、防衛利用を可能にする内容だ。増税法案と政局をめぐるどさくさに紛れ、原子力と宇宙の軍事利用を進めていると受け取られても仕方がない。
 政治の機能不全は深刻だ。国民の前で議論することの重要性を政治はあらためてかみしめてほしい。
=================================転載完了

「脱原発」五紙の安全保障的功績

 さて、如何だろうか。
 
 お気付きの方もあろうが、上掲「原子力基本法に安全保障を入れるな」社説を掲げた五紙は、三アカ新聞+東京&毎日であり、「脱原発」を主張する五紙でもある。それ故に、原発に対する考え方も含めて私及び当ブログの主張を繰り返すならば、私は「福島原発事故を経て尚原発推進論者」である。それは数多の記事にした通り原発が今尚有効な電量供給手段であり、国のエネルギー政策の目的が見通せる将来に渡って「電力の安定供給」である以上、我が国は原発を推進すべきだ、と繰り返し主張している。原発と安全保障の関係から言えば、先ず電力の安定供給と余剰電力が抑止力足りうると主張している(※1)し、核兵器技術と原発技術の共通性もまた抑止力たり得ると主張している(※2)。
 であるならば、上掲五紙が問題視する「原子力基本法に「我が国の安全保障に資する」という文言が入った(※3)」と言う事実に対する私の評価は「誠に結構な事」となる。その理由は、直接的には電力の安定供給が抑止力たり得るからであり、間接的には原発技術が核兵器技術に通じる物があるから、である。
 上記私の考えの前半を無視ないし軽視し、後半を正しく問題視しての上掲五紙社説なのであるが、章題にもした通り、正に左様な「日本核武装の懸念」を表明してくれた上掲五紙社説もまた、私に言わせれば「誠に結構な事」なのである。
 
 「何に対して結構か」といえば、「我が国の安全保障に対して」である。
 「何故結構か」と言えば、「我が国が核武装する可能性を示唆したから」である。

 
 「日本が核武装」と言うだけで頭に血が上ってしまい拒絶反応を示す人も世の中多いのだろうが、「日本が核武装する可能性」もまた抑止力たり得る。冷静に考えればわかることだ。
 
 例えば核兵器開発疑惑が持たれているイラン。イランは「原子力の平和利用」を標榜しているが、そのイランが「イラン版非核三原則」か何かを打ち出して、またその「イラン版非核三原則」が国際的に信用されたら、果たしてイランの地位や影響力は、今よりも向上するだろうか。国際社会としては、或いはわが国としては、その方が都合が良さそうであるが(※4)、イランが今確保している影響力は、「核開発疑惑を持たれるが故」であり、「核武装する可能性故」である。
 
 或いは、北朝鮮はどうだろう。こちらは地下核実験を数回実施して、「平和利用」を標榜するのは弾道ミサイル開発についてだけだが、その運搬手段もまま成らぬ核兵器で世界を脅迫し、「強請大国」を目指している。その北朝鮮が、やはり「北朝鮮版非核三原則」を打ち出し、仮にそれが国際的に信用されたとしたら、北朝鮮の影響力・発言力は(※5)今よりも向上・拡大するだろうか。北朝鮮が図々しくも「強請大国」を目指せるのは、やはり「核武装する可能性故」だ。
 
 「我が国も、イラン、北朝鮮を見習え」と言っているのではない。
 「我が国も、核武装すべきだ。」と断じているのでも無い(※6)。
 
 唯、「核武装する可能性」が持つ抑止力の実例としてイラン、北朝鮮を上げているのであり、その可能性を示唆した「脱原発」五紙社説により(※7)その抑止力を獲得できたことを、寿いでいるのである。
 
 
 http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/37226836.html へ続く

 

<注釈>

(※1) 余剰電力は防衛力である-脱原発騒動と電力不足に状況によせて   http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/35687699.html 
 
 
(※3) 法案は成立したのだから、後は施行を待つばかり。だからこそ東京社説の〆は、「基本法の再改正をすぐにも考えるべきだ。」なのである。 
 
(※4) 「イラン版非核三原則」が信用できれば、の話だが。どういう条件下で「信用できる」か、私には想像もつかないが。鳩山由紀夫の脳内世界ならいざ知らず。 
 
(※5) 今でさえそう大した物ではないが。 
 
(※6) まあ、「今は、未だ」であるが。 
 
(※7) 甚だ逆説的であるし、当該五紙社説には「心外」かも知れないが。