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 当ブログでは、東京新聞を「脱原発原理主義」と断じ、その為す社説も数多「社説を斬る」シリーズ等で扱い、糾弾してきた。
 
 だが、30年以上ぶりに新規の原発建造を決めた米国に対しては「コスト高に対する懸念(*1)」しか示せず(下添リスト(4))、「稼動原発ゼロ」を受けた社説では「完全に逝ってしまった」お花畑社説を掲げていた(下添リスト(5))。
 
 その東京新聞が、大飯原発再稼動を受けるというと・・・・こうなる。

<注釈>

(*1) 記事にも書いたが、アメリカの電力会社が原発を新規に建造しようというのに、コストの計算をしていない訳がないだろうに。 

当ブログの東京新聞社説を扱った「社説を斬る!」シリーズ等

(1)「脱原発」の自己目的化-東京新聞社説「上関町長選 原発マネーと別れよう」を斬る!  http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/36039847.html

(2)やっぱり脱原発原理主義-東京社説「原発と社会の倫理」を斬る!  http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/36065678.html  http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/36065834.html 

(3)さらなる自己目的化-東京新聞社説「経団連 脱原発から目をそらすな」を斬る  http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/36048486.html

(4)こいつは見ものだ―東京社説「米原発新設 コスト高が重荷になる」―  http://www.blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/folder/1202600.html




転載開始========================================= 

【東京社説】原発立地自治体 つらさは消費者も共に 

   2012年6月14日

 
 私たち電力消費者は原発立地自治体の苦悩をよそに、野放図に電気を使い過ぎてきた。これまでの反省と感謝をこめて呼びかけたい。ともに原発依存から抜けだそう。新しい時代へ歩きだそう。

 「社会機構が複雑化し、生活機構が都市化すればするほど、私たちは自分自身を生み育んでくれた、ふるさとの“土”に対する思慕を募らせてゆくものではなかろうか」

 約四十年前、当時の福井県大飯(現・おおい)町長が町史の発刊に寄せた「美しき壮挙」と題する一文だ。原発の再稼働に激しく揺れるふるさとを、筆者はどう思うのだろう。

 町史発刊から八年後の一九七九年、大飯原発1号機が営業運転を開始した。それまで見たこともないような複雑化の大波だったに違いない。

 巨額の原発マネーが毎年流れ込み、雇用が生まれ、ハコモノができ、いつしか町財政の約半分を原発マネーに依存するようになっていた。

 日本中が右肩上がりの経済に潤って、ふるさとを豊かにしたいと考えた。誰もそれを責められまい。だが、“泡”の経済はいつかはじけるものだと、すでに思い知らされた。

 野田佳彦首相は八日の記者会見で、「四十年以上原子力発電と向き合い、電力供給を続けてきた立地自治体への敬意と感謝の念を新たにしなければならない」と、感謝の言葉を述べた。なぜ感謝したいのか。それは立地自治体が巨大な未知の危険を引き受けてくれていたからだ。

 ところが、その危険はもう未知ではない。福島第一原発の事故で、それがあらわになった。世界有数の地震国日本に、例外などありえない。私たち電力消費者は、すべての原発立地地域に、危険という長年の重荷を下ろしてほしいのだ。

 収入源を失うことで、暮らし向きを心配するのは当然だ。しかし、使用済み核燃料の後始末一つとっても、原発の未来は危ない。原発マネーは永続しないだろう。それより、有望な自然エネルギーの生産拠点や今後、絶対に必要な廃炉ビジネスの研究拠点などに生まれ変われるよう、ともに政府に働きかけたい。

 私たちは電力への依存を改める。節電をしよう。ともに依存から抜けだそう。新しい時代に踏みだそう。今が、またとないチャンスだから。

=================================転載完了

東京新聞に問う。これが、「社説」か


 さて、先ず読者諸兄に尋ねようか。諸君は上掲の一文を「社説」と認めるか。コラムではない。記事でもない。「社説」として認めるか。
 
 「社説は新聞社の顔にして存在理由の一半」と私はよく表現するが、そう考えるか否かは新聞社の自由である。「社説なんてのは紙面の埋め草」と考えている新聞社だってあるかもしれない。だが、少なくとも社説は、新聞社の主張である筈だ。「社説」と言う字面がそれを示している。
 
 では翻って、当該「東京新聞社説」に於ける東京新聞の主張を抜粋すると、以下のようになろう。
 
 ① 経済成長を支えた原発には未知のリスクがあり、そのリスクを原発立地自治体が引き受けていた。

 ② 福島原発事故で未知だったリスクは顕在化した。

 ③ 今こそ、原発を廃止してそのリスクを取り除こう

 ④ 原発マネーは、自然エネルギーと廃炉ビジネスで補填しよう

 ⑤ 原発廃止で不足する電力は節電で対処しよう
  
 後は「⑥原発マネー」の記述と「⑦電力消費地のお詫び」、それに背景となる「⑧経済成長の否定」がある程度だろう。
 
 総じて言えば、先回「社説比較」記事(上掲リスト(5))にリスクに関する部分(上記①、②)と原発マネー(上記⑥)、お詫び(上記⑦)が加わったぐらい。ヤッパリ「お花畑」の空虚な論説だ。
 
 上記①~②はある意味「収穫」である。原発リスクに対する私の考え方は、以前ムネミツさん(旧名「。。。」)とのコメント応酬の中で説明し、全く理解されず、別途記事にしようとしていたもの。それが上掲東京社説・上記①~②により、図らずも「東京新聞社説も同様のリスク観である」と裏書された形だ。
 
 だがまあ、その先の「原発リスク対処」となると、東京社説の上記③に対し、私は「福島原発事故の教訓を活かし、リスクを低減した原発を推進すべし」であり、意見は全く分かれてしまう処なのは、数多の記事にも明記してきたところだ。また、当初からの予想通り。東京新聞も、私も、「意見を変えていない」と言うだけだ。上記③の通り、東京新聞は「原発廃止」に拠って「原発リスク低減」を図れ、と、こう仰る。
 
 で、その原発廃止によるデメリット対策を上掲④、⑤( 及び⑤の背景としての )を東京社説はあげているのであるが・・・
 
 先ずは原発立地自治体に対する対策、上掲④から行こう。この「デメリット対策」は、矛盾と妄想から出来ている。矛盾と言うのは「廃炉ビジネス」を指す。何しろ東京詩文は上掲社説で、
 
1> 原発マネーは永続しないだろう。
 
と断言し、その原発マネーの代わりに「廃炉ビジネス」と抜かしているのである。「抜かしている」などと下品な表現を使うのは、「原発マネー」は原発稼動期間ぐらいの永続性、大凡40年ほどを期待する事ができようが、「廃炉ビジネス」は、廃炉にかかる期間しか永続しない。福島第1原発のように炉心溶融まで起こしていればそれは10年単位の時間がかかろうが、健全に運転し終えた原発を廃炉にするのに一体何年掛かると東京新聞は思っているのか。尚且つ廃炉ビジネスは、廃炉にしてしまったらそれきりだ。原発廃止を標榜している東京新聞が、まさか「廃炉ビジネスのための新規原発建造」を訴えている訳でもあるまい。即ち、「原発マネーは永続しない」としつつ「原発マネーの代わりに廃炉ビジネス」と言うのは、矛盾している。
 「妄想」の方は勿論、「自然エネルギー」だ。「私の自然エネルギー推進論( http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/35778036.html )」や「入原発論( http://www.blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/36713808.html )」に述べたとおり、現状まともに使える「自然エネルギー」は水力のみ。次点は「バイオ燃料」であろうが、それ以外の風力、太陽光、波力なんぞは発電量の少なさもさることながら発電量を制御できないのだから、「原発の代替」に、少なくとも発電源としてはなりようが無い。これは原理的になりようが無いのであって、大量生産や普及等で「発電コストを下げる」のとは全く別次元の問題だ。

 東京新聞に最大限好意的に考えれば、「廃炉ビジネスで食い繋いでいる間に革新的技術開発(大容量蓄放電技術の開発・普及など)により自然エネルギーをまともな発電源に成長させる」と言う方法が考えられるが、少なくともその「綱渡りリスク」を明示せずに「脱原発マネー」を原発立地自治体に説くのは、詐欺に近いだろう。
 
 ひょっとすると東京新聞にとっては、「発電源としての自然エネルギー」と言うのは、あまり意味を持たないのかもしれない。それは上記⑤「節電による電力不足対処」とその背景にある(に違いない)上記⑧「経済成長の否定」が示唆している。即ち「電力需要の圧縮優先」であり、橋本市長の唱えた「電力の安定供給から安定需要へ」と言う考え方、なのかも知れない。
 
 だが、それは、国家としての自殺である。「経済成長を自ら放棄する」など経済的自殺以外の何物でもないし、「安定供給から安定需要へ」といえば大変耳障りが良いが、要は電力供給手段・能力に合わせた電力需要の強制であり、早い話が「電力の配給制度の強制執行」に他ならない。
 
 GPやSSの様なカルト集団がそんなことを唱えるのはありうる事だ。東日本大震災と福島原発事故の結果「悟り」を開いて「経済成長よりも脱原発」と主張する人が居ても不思議は無い。個人で主張し唱える分には別に構わないし、それで一宗派なり一学説なりを立てるのも良かろう。
 だが日本として、国として「経済成長を放棄」するのは国家としての自殺である。少なくとも「国家としての自殺」とも言うべき大決断である。それは、
 
2> 私たちは電力への依存を改める。節電をしよう。ともに依存から抜けだそう。新しい時代に踏みだそう。今が、またとないチャンスだから。
 
などと言う甘ったるい言葉で表現されるような、生易しい決断ではない。

 その生易しくない決断を、上記2>新しい時代」「またとないチャンスなどと言う甘い言葉で表現し、甘い言葉でしか表現しないのは、論説としてはミスリードであり、主張としては詐欺に等しい。
 
 故に、私は当該「東京新聞社説」を「社説」と、「新聞社としての主張」とは認められない。良いところがコラム。普通に考えれば、アジ演説の原稿である