応援いただけるならば、クリックを⇒ https://www.blogmura.com/   
 
 お気付きの方もあるかも知れないが、此処最近当ブログ及び私自身に対して批判的なコメントが相次いでいる。「禎子」様、「老人憩いの家」様、「六三四」様、「アダム」様等など。私や当ブログを批判する理由を列挙すれば、「脱原発の立場からの批判」「震災がれき受け入れ反対の立場からの批判」「反右翼的立場からの批判」「時代錯誤と言う批判」「自称・人気ブロガーによる不人気ブログ( つまり当ブログ )批判」といった所だろうか。通底する物は感じるが、一応「多岐にわたる批判」である。大半は一過性或いは一過性に近い一方的批判だが、中には「脱原発論者だが、震災がれき受け入れには反対しない」ムネミツ様の様に盛大なコメント応酬になった方も居る。

何度か繰り返している事だが、当ブログの数少ない自慢の一つは「エロや個人情報流出(*1)で無い限り滅多な事ではコメント・トラバを削除しない」である。トラバの方は認可制にしたが、コメントの方は未だフリーなのも、その自慢をまだ大事にしているが故。IB様に「これはアラシだから削除しろ」と忠告されるのも幾度目になるかわからないが(*2)、既定方針は堅持したまま今日に至っている。

そんな「普通ではない」ブログ管理法を実践しているのは何故か、と言うのが本記事のテーマ。ま、御用とお急ぎで無い方は、暫時お付き合い願いたい。
 

<注釈>

(*1) ああ、そう言えば、非公開で戴いたコメントを公開して記事にしたら個人情報保護とか何とかコメント下さった方もありましたな。名前も仮名にした記事に、態々公開のコメントで。
 記事で取り上げたコメントの方には個人情報はないし、公開でついたコメントの方のリンク先は「ブログを開設していません」だから、何処がどう「個人情報」なのかはいまだに判らない。どこかに暗号でも仕掛けてあるのかな。 
 
(*2) そのIB様とも相当長いコメント応酬を経てきている。 
 

(1.)人は何から学ぶのか

 突然だが、質問です。「人は、何から学ぶのでしょうか。」

漠然とした問いかけだから、答えは幾通りもありそうだ。例えば「人は、人から学ぶものだ。」と言うのも一つの答えだろう。他人・他者との関係、コミュニケーション、その中での自己主張やら意見の対立やら解決やら・・・確かに人が他者・他人から学べる事は多そうだ。

逆に「愚か者は自らを師とする」なんて言葉もある。「自らを師」とし、自省による進歩向上には自ずと限界があろうと言う事か。或いは幾ら深い自省でも所詮己の「身内」に過ぎず、他者・他人さらには世界や歴史に学ぶ事の広範さ多様さには比べうぴが無い、と言う事か。であるならば、此処で言う「自らではない師」とは、生きた人間ばかりではなく、文字などによる記録媒体を持って接する先人先哲史実等をも含む、と言う事だろう。

「人は、勝利よりも多く敗北から学ぶものだ。」ってのも答えだろう。「勝利」とか「敗北」とかは一つの状況・結果であり、そこに至るプロセスには上述の「他人・他者との関係」が大いに影響する可能性はある。が、直接「学ぶ」きっかけとなったのが「敗北」と言う状況であった方が、より真剣に、より多くを学ぶ、と言う事だろう。「敗北」と「勝利」は対語であり、「敗北」をもたらしたのは競合相手・比較相手なり敵なり自然災害等の状況なりの「自らの身の内ではない」何物かが関与していよう。

以上を非常に大雑把に括ると、「人が学ぶ」上では「自分自身以外の何物か」の存在がきわめて重要であろう、と言う事だろう。

無論、例外はあるだろう。デカルトが「我思う、故に我あり」と言う極単純だが味のある命題にたどり着くまでは、深い深い自省を要したそうであるから、これは「徹底した自省の成果」と考えるべきであろう。だが、常人では仲々、そんな「深い自省」を実践するのも難しければ、そこから何かを学べるのはさらに稀有だろう。

少なくとも私自身は、そんな何かにたどりつける自省を実行できるとは、一寸思えない。私が「学ぶ」には「私以外の何物か」が、ほぼ必須だろう。

(2.)先導者としての「師」

 では、その「学ぶのに必須な自分以外の何物か」とは何か、と考えれば、一般的には「師」の一言で表わせよう。導師、師父、師匠、教師、先達、先生等、呼び方や立場は色々ありそうだ。また、生身の人間に直接会わないといけない、事も無い。歴史や記録に登場する過去の人物でも構わなければ、映画小説などに登場する架空の人物でも構わない。なんにせよ自分より優れた人、上手く出来る人、自分の出来ないような事が出来る人を師と仰ぎ、教えを乞う。或いはその技ややり方を「盗む」/「真似る」。「学ぶ」の語源が「真似る』であるという説があるが、その説の通りの威力を発揮するのが、こうした「優れた他者・他人を師と仰ぐ」場合であろう。

一般的に学校が「先生による講義」を主体としている事が示す通り(*1)、「学ぶ」方法としては最もポピュラーな方法だろう。

尤も、「18ホールの内11ホールでホールインワンを記録した金成日主席をゴルフの師と仰ぐ」ってのは、それがフィクションであること(*2)とは別に、相当無理がありそうだが。

<注釈>

(*1) ソリャま、「学校の先生」だから「師と仰がれる」とは限らないだろうが。少なくとも学校と言う場所では、先生は「師と仰がれる」事が期待されている、だろう。 
 
(*2) 「人間離れした技」を人間が為す事は、ある。職人芸や名人芸は、時に常人の常識なんか粉砕してしまう。
 が、金成日が「18ホール中11ホールでホールインワン」なんて神業を実現した、何て思わない。彼が北朝鮮の最高権力者であれば、なおさらだ。 
 

(3.)「真似る」ばかりが「学ぶ」ではない-反面教師もまた教師なり

 では、自分より優れているとは言えない他者、或いは自分よりも劣っている他者は、「師とならない」のだろうか。学ぶ材料・機会とはならないだろうか。

章題でネタバラシしてしまっているような物だが、「そんなことはないだろう」と言うのが私の主張だ。例えば自分と優劣付け難いような他者、或いは自分と一長一短な他者ならば、正に「ライバル」としてうってつけであり、互いに研鑽し高めあう事が、少なくとも期待しうる。

「真に戦う者同士は、真の敵同士ではなく、友達だ。」-マサイ族の諺(*1)-

この場合、必ずしも「学ぶ=真似る」とは限るまい。「学ぶ」の中心は自主努力・自己研鑽かも知れないが、「ライバル」と言う他者が「学ぶ」事を促進している事は間違いないだろう。

では、「他者が、明らかに自分より劣っている/劣っているように感じられる」場合はどうだろうか。その「劣っている(と思われる)他者」は、「師」となり「学ぶ」上での補助となりえない、だろうか。

これまた章題でネタバラシしているような物だな。箸にも棒にも掛からないようなどうしようもなく劣っている他者、例えば鳩山由紀夫や菅直人であろうとも、少なくとも「反面教師」と言う「師たり得る道」があろう。この場合「真似をしない」「逆のことをする」と心がける事で「学ぶ」事になるが、「反面教師に学ぶ」とは、そう言うことであろう。
 

<注釈>

(*1) だったと思う 
 

(4.)森羅万象皆我が師(希望的観測)

 以上を再び大雑把に総括すれば、反面教師であれ、ライバルであれ、通常の意味での「師」であれ、他者・他人は他者・他人であるが故に「学び」の機会を増やしてくれる。少なくともその可能性がある、と言う事になる。
これは「他者・他人が、他者・他人であるが故」即ち私自身に対する異論・異説を唱えるないし「異論・異説すら持たない」事で私との相違・「異志(*1)」を持つが故、だ。

逆の場合を想定して見よう。私が私と同意見の者ばかり、それも同レベルで同意見の者ばかりに、取り巻かれた状態を。

居心地は良いかも知れない。周囲の者誰もかもが一心同体、打てば響くようなツーカーの仲である「理想的同志集団」だ。戦争や集団競技をやらしても強そうだ。特に密集隊形ファランクス組んでの白兵突撃では威力を発揮しそうだ。

だが、それは、「周囲の者と意見交換・議論しても、自省以上のことが為せない状態」だ。私の意見・考えは、それ以上深まる可能性は相当低くなろう。デカルト先生ならば問題ない状態なのだろうが、私には無理だ。
「意見・考えを深める事は人生の目的ではない」と割り切ればこの「理想的同志集団」も宜しかろう。或いは、革命でも起こして一気に権力奪取するのにも好都合だろう。だが、私は理性と知性を重んじており、権力奪取の革命よりも私の意見・考えを深める方に大いに関心がある(*2)。

だから、そんな「理想的同志集団の結成」よりも、異論・異説を収拾し、出来うるならばその異説を唱える人々と議論をし、他人・他者から学ぼうと考えている。先述の通り、その他人・他者のレベルは、私より行為上位である事が望ましいが、逆に低位下位であっても構わないし、さらには人でなければならないこともない。状況や自然現象、人語を発せぬ動植物とて、学ぶ材料となり、「我が師」となる事が、ありうる。

森羅万象、皆我が師。

聊か希望的観測であるし、スローガンとしては兎も角、実践が難しい事は認めざるを得ない。
が、スローガンとして掲げ、実践を心がける事ならば、即時実行出来よう。

喩え「アラシ」であろうとも、それこそ正しく他者・他人であり、異論・異説であるのだから、「削除」なんてモッタイナイのである(*3)。
 

<注釈>

(*1) 「同志の対語」と言う発送による造語。だが、既に別の意味の言葉としてあったようだ。
 三省堂 大辞林 :
いし 1 【異志】 (1)「異心(いしん)」に同じ。 (2)普通の人とは違うすぐれた志。 
 
(*2) と、少なくとも自分では思っている。無論、ムネミツ様が「保証」したように私の理性と知性なんて大したものではない、と言う可能性には留意すべきだろうし、自戒すべきだろう。
 だが、ムネミツ様の「思考を停止して、中国や韓国を馬鹿にし、右翼的キーワードをちりばめるだけで保守の愛国者だと思い込んでいる」と言うのは、トンと思い当たる節がない。
 思い当たる節がないだけに、どの辺りが「思考停止」なのかは、非常に興味があったのだが・・・惜しい人を亡くしましたねぇ。 
(*3) その私の基準を以ってしても「警告なし削除がありうるの刑」に処されているJos某ってのは、ヤッパリとんでもない奴だな。.