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一般的に人間と言う者が多層的多元的なものであり、時に矛盾を孕んでいると言うのは、一寸否定し難いところだろう。それこそ多くの文学作品や芸能文化の根源であり、天才落語家・故・立川談志師匠言うところの「業の肯定」であろうと、私は解釈している。
その証左としてこのブログを挙げる事も出来るだろう。当ブログは基本的に私一人が書いた記事(※1)の集合体であるが、時事解説から歴史観、占い批判から、書評、映画評まで、種々の記事がアップされている。それらの記事に現れている私自身の「ペルソナ」は、「殆ど生まれながらの右翼」「理系人間」「身強く猛き兵」「福島原発事故を経て尚原発推進論者」「血の赤い日本人」等等、幾つあるかは意見の分かれるところかも知れないが、多層的多元的である事は間違いないだろう。
その多層的多元的存在が私独りと言う個人であるから、「ペルソナ」仮説にも真実味が増そう(※2)。即ち当ブログの記事も、私の持ついくつかの「ペルソナ」に従って書かれており、個々のペルソナ間は私と言う共通要素で関連づいているが、必ずしも相関が「ある」ないし「強い」とは限らない、と言う事だ。
長々と「ペルソナ仮説」なぞ解説したのは、以前書いた記事「無知にして無恥なる「大衆」―震災がれき試験処理に抗議する奴バラ http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/37084916.html 」に戴いた自称「A(仮名)」と言う方のコメントのためだ。このコメント、相当痛烈に私と私の記事を批判している。その批判が「ペルソナ仮説」を想起させたのであるが・・・まあ、先ずはそのコメント、御一読願おうか。
<注釈>
(※1) 転載させて戴いた記事もあるし、記事の主旨には反対でも価値ある情報ゆえに転載した記事もある。(※2) 一方で、理系人間にして「人文科学は何処まで科学か」を相当疑問に思う私としては、そんな真実味のある「ペルソナ仮説」も、実証する事証明する事は叶わないンじゃぁないかと疑っている。
コメント
デオロギーが脱原発を率いているという考えは間違いだ。左翼とか右翼とか言ってる奴は勝手に死ね。狂った思想主義の布教活動に瓦礫処理を利用するな!
無論、応援クリックなどするつもりなしお前の言う無知=無恥を脱原発者代表として返す。はやくクタバレ、廃棄物。2012/5/27(日) 午後 11:19 [ A(仮名) ]
分析
さて如何だろうか。
短いコメントだが、主旨を要約すると以下のようになろう。
(1) 現在の脱原発運動を推進しているのはイデオロギーではない。
(2) Zero(私)の原発推進論を推進しているのはイデオロギーだ。
(3) Zero(私)の震災がれき受け入れ拒否者批判を推進しているのもイデオロギーだ。
(4) 震災がれき処理をイデオロギーに利用するのは止めろ。
(5) 「無恥にして無知なる大衆=震災がれき受け入れ反対者」を代表してZero(私)を糾弾する!
(6) くたばれZero(私)!貴様なんか廃棄物だ!!
上記要約の番号に従い、一つずつ行きましょうか。
(1) 現在猖獗を極める「脱原発」運動が、左翼イデオロギー主導かではないかとの懸念はムネミツ様からも表明されているところ。確かに私もそれは大いに懸念しております。が、私が数多書いてきた原発推進論、原発擁護論、脱原発論非難に於いて「左翼イデオロギー主導だから」と批判非難した覚えはトンとないし、当該コメントを頂いた記事にはもっとない。
にも拘らず、態々コメント冒頭で「脱原発運動を推進しているのはイデオロギーではない」と切り出して来る理由は、唯一つしか私には思いつかない。
即ち「当該コメント者は、脱原発運動がイデオロギー主導であると非難されることを恐れている。」
もう一寸穿った見方をすれば、「脱原発運動が実はイデオロギー主導であると知るからこそ、的を射た批判を恐れている。」と考えられ、当該コメント自体が一種の自白であるとも考えられる。
その可能性は大いにあると思いながらも、私自身は一世を風靡し猖獗を極める「脱原発運動」を主導するのが左翼だろうが右翼だろうがイデオロギー主導でなかろうが別に構わない。
原発をどう扱うかは、我が国のエネルギー政策=将来に渡っての電力の安定供給を考えるための手段であり、その選択に於いて右翼だ左翼だノンポリだの思想が影響するとしても、批判評価すべきは原発推進/脱原発の「選択」の方であって思想・イデオロギーではない。即ち、「脱原発運動」が左翼主導であるか否かを議論するどころか、「イデオロギー主導」であるか否かを議論するさえ、私には些事と思える。
私が非難し、糾弾するのは、「脱原発運動」そのものであり、その背景に何者が蠢いていようが、大した問題ではない。
(2) 再三当ブログでも繰り返すとおり、私自身は殆ど生まれつきの右翼だが、その私が原発推進論を唱える上で、私の右翼思想は少なくとも意識的には何の影響も及ぼしていない。つまりは「右翼イデオロギーの影響」と言う自覚は私自身にないから「原発推進論を推進しているのはイデオロギーだ。」と断じられてもなんともしょうがない。右翼イデオロギー( だよねぇ。まさか私を「左翼」とはいわない、よねぇ。(※1) )がどの様に「原発推進論」に結びついているかの説明が必要(※2)で、その説明がなければ上記(2)の非難にも私自身は何の痛痒も感じようが無い。
私自身を「右翼だ!」と非難する効果はあるだろう。が、私自身「殆ど生まれつきの右翼」と公言しているのだから、その効果も私以外の第三者に対するものでしかない。つまりは「蛙の面にションベン」と言う奴だ。
(3) これは上記(2)と同様だが、もっとハッキリしている。上記記事で私が震災がれき受け入れ反対者を非難し糾弾するのは、彼奴らが恥知らずで非人道的だからだ。「恥」と言う概念は、なるほど右翼思想にあい通じるものが多そうだが、「人道」の方には右翼も左翼もあるまい。
それともあるのかな。
あるからこその上記(4)「震災がれき処理をイデオロギーに利用するな」批判なのかな。
(4) さあ、こいつはサッパリ分からないぞ。私はかねてから原発推進論を唱えているし、震災がれき受け入れ反対者を糾弾している。さらには再三繰り返すとおり、私自身は「殆ど生まれながらの右翼(※3)」だ。だが、その私のイデオロギーと私の主張の相関は私自身には自覚がないから、例えば私の主張に従い「脱原発論者」が減ったり、「震災がれき受け入れ反対者」が減ったとしても、それはイデオロギー上のメリットとは考えられない。
従って何が「イデオロギーに利用」なのかわからない。
だが、ここでも上記(1)の「邪推」を巡らすならば、新たな解釈が見えてくる。即ち、上記(3)でも触れたところだが、「震災瓦礫受け入れ反対者批判」が何らかのイデオロギーにダメージを与える/与えうる と言う可能性が。それは上記(1)「脱原発を主導するのはイデオロギーではない」と言う主張とは矛盾するのだが、そうでも考えないと、私自身は私のイデオロギーとは無関係と思っている「脱原発批判」や「震災がれき受け入れ拒否者批判」を「イデオロギーに利用」できない。
この邪推に従うならば、上記(1)と同様、上記(4)もまた、一種の自白、「脱原発運動/震災がれき反対運動は左翼イデオロギーが主導している」と言う告白となる。
(5) については、「望む所だ」と、応じるべきだろう。
ではあるけれども、上記の通り当該コメント者の主張は、「脱原発運動/震災がれき反対運動はデオロギーが主導ではない」でありながら逆の事を自白していると私には思われるし、私自身の「右翼イデオロギー」と私の「原発推進論」及び「震災がれき受け入れ推進論」との相関にはまったく自覚がない。敢えて言うならば、以前ムネミツ様( 当時は。。。様 )相手に答えたように、「私の知性と理性と良心が命じるから」としか自覚していないから、先ず私のイデオロギーがどう「原発推進論」及び「震災がれき受け入れ推進論」と相関しているかご指摘頂かない事には、話が始まらない
(6) Mement moriと囁かれるまでもなく、神ならぬ身の定命の者たる私は、何れ「くたばり」、灰は灰に塵は塵に還る事は間違いのない事実。もしそうでなかったらそれこそ驚天動地の驚きだ(※4)が、まあ、親に貰った丈夫な身体と日本と言う治安も衛生状態医療体制も比較的良ければ戦争もトンとなく、「自殺が死因の上位を占める」様な国では当面「くたばり」ようもない。
さて、最後に上掲コメントに「ペルソナ仮説」を思い出した理由を明記しておくべきだろうな。もう分かる人にはわかるだろうが、「殆ど生まれながら右翼」と言うのも私の一つのペルソナであり、ある意味「仮想人格」である。そのペルソナと、「脱原発論批判/原発推進論」及び「震災がれき受け入れ反対者批判/震災がれき受け入れ推進論」を唱える私とは、私の認識では「別のペルソナ」なのだ。だから後者に於いて、「無恥だ、無知だ、非人道的だ」とは非難しても、「アカだ」とは非難した覚えがない(※5)。
であるからして、「御前の脱原発批判、震災がれき反対者批判は、御前のイデオロギーに利用するための議論だ」と非難されても、サッパリピンと来ない。
ま、「殆ど生まれながらの右翼」ペルソナと、「原発推進・震災がれき受け入れ推進」ペルソナの間に、私自身矛盾は全く感じないから、通底するモノはあるだろうが、だからと言って原発が推進され、震災がれきの被災違い処理が進むという状況が「(私の)右翼イデオロギーに利する」と言う主張は、全く理解できない。
「右翼が原発推進論、震災がれき処理受け入れ推進論を唱えている」と言うのは本当かもしれない。事実、私と言う「殆ど生まれつきの右翼」は原発推進論・震災がれき受け入れ推進論を唱えている。
だが、その右翼の主張は、「右翼イデオロギーに資するため」、とは限らない。
I love the JOB! 「なぁんて楽しい仕事だ!」 -映画「イン・ザ・ネイビー」-
<注釈>
(※1) その昔、Sakura(M)さんに「同志」と呼びかけられて面食らった覚えは確かにあるけれど。Sakura(M)さんの「サプライチェーンマネージメントの究極としての社会主義計画経済(と、私は理解した)」とも言うべき発想は、確かにユニークで「新しい共産主義」と称するに値すると「理解」はした。が、それが結局の処「かつての共産主義」同様に上手く行かないだろう、とも断じられた。(※2) それこそ、ムネミツ様(当時は。。。様)の最初のコメントにあった質問で、私が答えられなかった質問だ。(※3) Natural Fighterとは言うらしいが、Natural Rightと言うかどうかは知らない。或いは、Native Rightかな。(※4) 「実は不死者だった」って、小説の題材としては面白そうだが。「ハイランダー」って映画がそれに近いか。ショーン・コネリーの渋い脇役とバグパイプが印象的な映画。(※5) 朝日、琉球新報、沖縄タイムスの三紙を「三アカ新聞」と呼び習わしているのは事実だが、そう命名したのは、福島原発事故よりも前だ。