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再三繰り返している通り、私は福島原発事故を経て尚原発推進論者だ。「脱原発」なぞ、「愚挙にして暴挙」と断じて、天地俯仰に恥じる処がない。
だがまあ「脱原発」と我が「原発推進」の対立は、いわばイデオロギー的対立。「脱原発は愚挙にして暴挙だ」と私は主張するが、「高価で不安定な電力供給であっても良いから脱原発」と覚悟を決めた主張(*1)に対しては、それが愚かな選択であると非難はしても、一つの選択肢であることは認める。そんな「高価で不安定な電力供給」に対してはとても私は「バラ色の未来」なぞ描けないが、その程度は「趣味・嗜好の問題」と言う事が出来る。
だが、「震災がれき処理を拒否する」、分けても「震災がれきの試験処理/焼却を拒否する」と言う主張に対しては、そんなことは言えない。
以下報じられているのは、宮城県の震災がれきを北九州市が試験的に焼却処理しようとしたことに対する「抗議の声」。念のために付け加えるならば、北九州市が「震災がれきを試験的に焼却処理」するのは、そのことによる影響、特に「放射性物質の影響が無いレベルに止まる」事を確認するため。先ずは報道記事、御一読願おうか。
だが、「震災がれき処理を拒否する」、分けても「震災がれきの試験処理/焼却を拒否する」と言う主張に対しては、そんなことは言えない。
以下報じられているのは、宮城県の震災がれきを北九州市が試験的に焼却処理しようとしたことに対する「抗議の声」。念のために付け加えるならば、北九州市が「震災がれきを試験的に焼却処理」するのは、そのことによる影響、特に「放射性物質の影響が無いレベルに止まる」事を確認するため。先ずは報道記事、御一読願おうか。
<注釈>
(*1) そんな覚悟も決めていない「脱原発」には、特に島国日本に於ける「脱原発」については、痛罵しかないが。
転載開始=========================================
【放射能漏れ】
北九州搬入で宮城県に抗議電話殺到 50件超す
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120522/dst12052223040020-n1.htm
2012.5.22 23:03 [放射能漏れ]
宮城県石巻市のがれき搬入を北九州市の反対派市民らが一時阻止した問題で、宮城県に22日、「汚染がれきの拡散には反対」などの抗議の電話が殺到、50件を超えたことが、同県への取材で分かった。県震災廃棄物対策課によると、寄せられた抗議の多くが女性。北九州市の件に触れ「(放射性物質による)汚染がれきの拡散には反対だ」「被災者の雇用につながるので宮城で処理を」などと広域処理を批判する内容だった。「被災地を責める気はないが」と前置きをして抗議する人もいたという。同課は職員二十数人で、この日の抗議には5、6人で対応したが、関係者からは「対応に追われ、ほとんど業務ができない職員もいた」と困惑する声も出た。
=================================転載完了
「被災地を責める気はないが」と前置き=意味;「震災がれき処理は全て被災地に押し付ける」
さて、如何だろうか。
先ず私の立場を明確にしておくべきだろう。先行記事にもした通り(*1)、私は「震災がれきは東京都に続いて全国的に処理を受け入れるべきだ」と考えている。そう考えるのは私が「未だ原発推進論者」である事と直接の関係はない(*2)。
誰が考えてもわかりそうなものだ。例えばこう考えて見るが良い。
「第一問:震災がれきはどうすべき物か」。答えは殆ど自明だろう。「東日本大震災の被災地を放棄してそのまま無人地帯にする」などと言う暴挙としか言いようのない大決断をしない限り、被災地を復旧復興しようとする限り、「邪魔になる震災がれきは処理しなければならない」。何処で処理するか、焼却するのか、埋め立てるのか、海洋投棄するのか、にかかわらずである。原発も自然エネルギーも、「震災がれきは処理しなければならない」事には何の関係もない
となると次なる問題は、「第二問:震災がれきは、何処で処理すべきか」となる。
東日本大震災後1年以上も経過しながら、未だ「震災がれき受け入れ」が問題化すること。この事実が意味するところも私には殆ど自明だ。「現状の震災がれき処理体制では、がれき処理速度は遅すぎる」。がれき処理できる施設自体が震災被害を受けていて、その復旧までがれき処理速度が低下した、と言う事例はあるかもしれない。また、新たに建設されたがれき処理施設があって、今後がれき処理速度の向上が期待出来る、かも知れない。だが、震災後1年以上を経て尚、震災がれきの被災地外処理が要請され、東京都などで実際処理されて居ると言う事態は、「がれき処理速度は遅すぎる」としか評しようがない。
であるならば、結論は明らかだ。「東京都に引き続き、各地方自治体は震災がれき処理を実施すべきである」。
だが、そうはなっていないのは、北九州市で「震災がれきの試験焼却処理」を実施しようと言うだけで抗議の座り込みが起こり、報じられているように「抗議の声」があがる事で示されている。何しろ、報じられているのは、震災がれきを試験焼却処理することにした北九州市ではなく、震災がれきを未だ抱える宮城県に対する抗議である。くどいようだが、「震災がれき処理を受け入れるな」と北九州市に抗議するのではなく、「震災がれきを被災地の外に出すな」と被災地・宮城県に抗議しているのである。これだけでも、「カチンと来る」では済まない怒りを禁じえない。
さらに報じられているところでは、震災がれき被災地外処理に反対する「抗議の声」は以下の理由で反対しているそうである。
(1) 「(放射性物質による)汚染がれきの拡散には反対だ」
先ず私の立場を明確にしておくべきだろう。先行記事にもした通り(*1)、私は「震災がれきは東京都に続いて全国的に処理を受け入れるべきだ」と考えている。そう考えるのは私が「未だ原発推進論者」である事と直接の関係はない(*2)。
誰が考えてもわかりそうなものだ。例えばこう考えて見るが良い。
「第一問:震災がれきはどうすべき物か」。答えは殆ど自明だろう。「東日本大震災の被災地を放棄してそのまま無人地帯にする」などと言う暴挙としか言いようのない大決断をしない限り、被災地を復旧復興しようとする限り、「邪魔になる震災がれきは処理しなければならない」。何処で処理するか、焼却するのか、埋め立てるのか、海洋投棄するのか、にかかわらずである。原発も自然エネルギーも、「震災がれきは処理しなければならない」事には何の関係もない
となると次なる問題は、「第二問:震災がれきは、何処で処理すべきか」となる。
東日本大震災後1年以上も経過しながら、未だ「震災がれき受け入れ」が問題化すること。この事実が意味するところも私には殆ど自明だ。「現状の震災がれき処理体制では、がれき処理速度は遅すぎる」。がれき処理できる施設自体が震災被害を受けていて、その復旧までがれき処理速度が低下した、と言う事例はあるかもしれない。また、新たに建設されたがれき処理施設があって、今後がれき処理速度の向上が期待出来る、かも知れない。だが、震災後1年以上を経て尚、震災がれきの被災地外処理が要請され、東京都などで実際処理されて居ると言う事態は、「がれき処理速度は遅すぎる」としか評しようがない。
であるならば、結論は明らかだ。「東京都に引き続き、各地方自治体は震災がれき処理を実施すべきである」。
だが、そうはなっていないのは、北九州市で「震災がれきの試験焼却処理」を実施しようと言うだけで抗議の座り込みが起こり、報じられているように「抗議の声」があがる事で示されている。何しろ、報じられているのは、震災がれきを試験焼却処理することにした北九州市ではなく、震災がれきを未だ抱える宮城県に対する抗議である。くどいようだが、「震災がれき処理を受け入れるな」と北九州市に抗議するのではなく、「震災がれきを被災地の外に出すな」と被災地・宮城県に抗議しているのである。これだけでも、「カチンと来る」では済まない怒りを禁じえない。
さらに報じられているところでは、震災がれき被災地外処理に反対する「抗議の声」は以下の理由で反対しているそうである。
(1) 「(放射性物質による)汚染がれきの拡散には反対だ」
(2) 「被災者の雇用につながるので宮城で処理を」
ここまで来ると、先ほど述べた「怒り」は「殺意」に近いものにまで増幅される。それは以前同じように「震災がれき処受け入れ反対」を明言・公言した原水禁に対して感じた怒り(*3)と同根である。
先ず上記(2)。これは一体どういうことか。「被災地の雇用」の心配を、被災地に対し、被災地外から表明すると言うのは、最大限好意的に解釈しても「大きなお世話」であるし、普通に考えれば「何様の心算だ」である。だがまあその程度の図々しさ厚顔無恥ならば、「殺意」に近い怒りを感じはしない。せいぜいが侮蔑と嫌悪の対象でしかない。
上記(1)の理由こそ、私が「殺意」に近い怒りを感じる処である。先ず上記(1)は「汚染がれき」と称しているが、被災地の外に出される震災がれきは一定レベル以下の放射線しか検出されておらず、燃やそうが埋めようが(*4)健康上の問題なんぞになりようがない。再三繰り返すとおり、放射能はエネルギーの一形態で、放射性物質共々天然自然にもあるもの。ケガレでも禁忌でもエンガチョでもない。そんな事も知らず、理解せず、理解しようともせずに、「汚染がれきだから拡散反対」を唱えるから、本記事のタイトルに「無知にして」と入れたのである。
だがそれだけでは、「無知なる大衆」だけでは、やはり「殺意」に近い怒りを抱くには足らない。無知でも何でも「大衆」に人数・頭数がある以上、それは「民主主義体制下の決定権・支配権」を握りうるし、それだけ迷惑な存在であるが、一方で「無知なる大衆」になってしまったら民主主義体制は衆愚政治化するのが当たり前であるから、怒りはするが、「殺意」となるには程遠い。
ここまで来ると、先ほど述べた「怒り」は「殺意」に近いものにまで増幅される。それは以前同じように「震災がれき処受け入れ反対」を明言・公言した原水禁に対して感じた怒り(*3)と同根である。
先ず上記(2)。これは一体どういうことか。「被災地の雇用」の心配を、被災地に対し、被災地外から表明すると言うのは、最大限好意的に解釈しても「大きなお世話」であるし、普通に考えれば「何様の心算だ」である。だがまあその程度の図々しさ厚顔無恥ならば、「殺意」に近い怒りを感じはしない。せいぜいが侮蔑と嫌悪の対象でしかない。
上記(1)の理由こそ、私が「殺意」に近い怒りを感じる処である。先ず上記(1)は「汚染がれき」と称しているが、被災地の外に出される震災がれきは一定レベル以下の放射線しか検出されておらず、燃やそうが埋めようが(*4)健康上の問題なんぞになりようがない。再三繰り返すとおり、放射能はエネルギーの一形態で、放射性物質共々天然自然にもあるもの。ケガレでも禁忌でもエンガチョでもない。そんな事も知らず、理解せず、理解しようともせずに、「汚染がれきだから拡散反対」を唱えるから、本記事のタイトルに「無知にして」と入れたのである。
だがそれだけでは、「無知なる大衆」だけでは、やはり「殺意」に近い怒りを抱くには足らない。無知でも何でも「大衆」に人数・頭数がある以上、それは「民主主義体制下の決定権・支配権」を握りうるし、それだけ迷惑な存在であるが、一方で「無知なる大衆」になってしまったら民主主義体制は衆愚政治化するのが当たり前であるから、怒りはするが、「殺意」となるには程遠い。
私が上記(1)の理由に「殺意に近い怒り」を感じるのは、左様な理由を公言する輩が「無知」だからではない。「無恥」であるからだ。即ち、その「無知」故に「汚染がれき」と称し、「人体に悪影響を与えるほどの放射性物質を含む」と明言している震災がれきの「拡散に反対」=「被災地封じ込め」を明言公言して恬として恥じないからだ。それ即ち彼らの言う「汚染がれき」の処理を全て被災地に押し付けて居ると言うことであり、彼らが「人体に悪影響を与えるほどの放射性物質を含む」と信じているはずの震災がれきの中に被災地を、被災民を曝し続けろと言う宣言である。そこには前述の「東日本大震災の被災地を放棄してそのまま無人地帯にする」などと言う暴挙としか言いようのない大決断こそ表明されていないが、「東日本大震災被災地の復興はその被災地自身のがれき処理速度に律速され、その分復興は遅らせるべきだ」とは明言されている。報じられている通り、「被災地を攻める気はない」などと前置きする輩も居たようだが、章題にもした通り「震災がれき処理を全て被災地に押し付ける」ことに変わりはない。なるほど上記(2)「被災地の雇用につながる」と言えないことはなかろうが、逆に「被災地は震災がれき処理ビジネスだけやっていろ」と言う事でもある。尚且つその「震災がれき」は「汚染がれき」であり「人体に悪影響を与える」と「認識している」とあっては・・・これは非人道的なほどの恥知らず、としか私には評しようがない。「無知にして無恥なる「大衆」」と、本記事を銘打った所以だ。
尤も世の中には「上には上が居るもの」と言うか「下には下が居るもの」で、中には以下の理由で「震災がれき受け入れ反対」を公言するものが居るそうだ。
(3) 「震災がれきを受け入れると、風評被害を受ける」
即ち上記報道に即して言えば、「北九州市が震災がれきを受け入れた事により、風評被害で北九州市の物産が売れなくなる。だから震災がれきを受け入れるな」である。他には解釈のし様がない。
ここに至ると最早怒りは「殺意」を通り越してあきれ返り、哀れみさえ覚えてしまう。震災がれきを受け入れる事で風評被害を被ると言うならば、その震災がれきを文字通り山ほど抱える被災地の風評被害は凄まじいものにしかならない。その風評被害に対し、傍観者を決め込み関わるな、と、上記(3)得御唱える者は公言しているのである。
上掲記事には上記(3)の理由で「抗議の声」を上げるものはさすがに報じられない。が、それはこの「抗議」が被災地たる宮城県に向けられたからである可能性を否定できない。
「絆」とは東日本大震災以来流行語のようになた一文字漢字である。石原都知事は「絆なんてものは日本人にはない。被災地現地にあるだけだ。」と断じているが、上記(1)(2)の様な無知にして無恥なる抗議が被災地・宮城県に向けられるようでは、少なくとも部分的には石原都知事に同意せざるを得ない。
震災がれき受け入れ反対者よ、恥を知れ。
ここに至ると最早怒りは「殺意」を通り越してあきれ返り、哀れみさえ覚えてしまう。震災がれきを受け入れる事で風評被害を被ると言うならば、その震災がれきを文字通り山ほど抱える被災地の風評被害は凄まじいものにしかならない。その風評被害に対し、傍観者を決め込み関わるな、と、上記(3)得御唱える者は公言しているのである。
上掲記事には上記(3)の理由で「抗議の声」を上げるものはさすがに報じられない。が、それはこの「抗議」が被災地たる宮城県に向けられたからである可能性を否定できない。
「絆」とは東日本大震災以来流行語のようになた一文字漢字である。石原都知事は「絆なんてものは日本人にはない。被災地現地にあるだけだ。」と断じているが、上記(1)(2)の様な無知にして無恥なる抗議が被災地・宮城県に向けられるようでは、少なくとも部分的には石原都知事に同意せざるを得ない。
震災がれき受け入れ反対者よ、恥を知れ。
<注釈>
(*1) 震災がれき受け入れ反対者に問う! http://www.blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/36784740.html(*2) 間接的には、放射線についての知識と言う点で関係はあるが・・・後述の通り、その関係は極めて薄い。(*3) 原水禁に対する公開質問状―「震災がれき」をどう始末する心算か http://www.blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/36720672.html(*4) モノによっては舐めようが食べようが。無論その震災がれき、震災以来1年以上を経た震災がれきを、舐めたり食べたりすれば、の話だが。