応援いただけるならば、クリックを⇒ https://www.blogmura.com/   http://www.269rank.com/ 
 
 今回取り上げるのは産経の論説、その名も「正論」。普通論説はそれ相応に「正しい」と思うから掲げ、主張する物であるから、少なくとも新聞社と執筆者にとって「正論」であるのは当たり前で「邪論」を掲げる訳が無いのであるが、タイトルからして「正論」と来ると、聊か照れるないし気後れする物がある。そこを敢えて「正論」と明言するところが、気概でもあり、責任なのでもあろうが。
 
 閑話休題(それはさて置き)
 
 題材は、タイトルにもした通り「我が敵」小沢一郎の近況である。先般強制起訴による一審で「無罪判決」を受けたものの、その後控訴が決まった事を受けてのものだ。
 
 当ブログが小沢一郎を「我が敵」とみなし、宣戦布告を成した(*1)のは、民主党に対する(*2)よりも前だから、もう随分昔の話だ。その際に「小沢一郎の政治的無力化」を勝利条件としたから、「我が勝利」への道はいまだ険しいと思わざるを得ないが・・・それでも民主党の黒幕、自称「人民解放軍野戦軍司令官」として、畏れ多くも天皇陛下の御予定まで専断した上に大御心を忖度しやがった往時に比べれば、その「政治的影響力の低下」は明らかであるらしい。
 
 先ずは産経「正論」、御一読願おうか。
 

<注釈>

 
転載開始=========================================

【正論】 評論家、拓殖大学大学院教授・遠藤浩一  いま求められるのは「脱小沢」だ 

 「部下は十七歳から三十歳までは軍隊で訓練し、その後は兵役を免除されるべきだ。その年齢を過ぎると、人は従順でなくなり、服従したがらなくなるからだ」(マキアヴェリ『断想』)
 ≪多くの政治家が離れていった≫
 この20年間、民主党元代表、小沢一郎氏の周辺に屯(たむろ)する政治家がつぎつぎと入れ替わるのを見るたびに、マキアヴェリのこの言葉を想起してきたものである。
 平成5年、同氏が自民党を飛び出して新生党を作ったとき、その周辺には中西啓介、船田元、二階俊博、藤井裕久といった人たちがいた。しかし、いつのまにか、皆、離れていった。
 比較的長く行動をともにしてきた藤井氏も、民主党政権ができる少し前、小沢代表(当時)の政治資金疑惑が問題になった頃から距離ができ、いまや小沢氏の証人喚問について「早くやって早く解決しなければいけない」と主張するまでになった。
 新人議員に対して小沢氏は「君たちの仕事は次の選挙で勝つことだ、それに全力を尽くせ」と口癖のように言うという。石川知裕衆院議員は、小沢氏の秘書になったとき、先輩秘書から「いいか、歯車のひとつになるんだ」と言い渡されたという(『悪党-小沢一郎に仕えて』)。小沢氏にとっては秘書も、場合によっては国会議員さえも、「歯車」の一つなのかもしれない。
 しかし秘書はともかく、議員は国政におけるその選挙区の代表である。代議民主制の下、政策立案に対して責任を負うという点ではベテランも新人も同格である。政策論議は幹部や実力者に任せて、新人は街頭に立っていろ、歯車たり続けることに全力を尽くせ、と言われては、立つ瀬がない。
 ≪“チルドレン”の空気も変化≫
 こういう身も蓋もない言い回しは、政治の何たるかを知らぬズブの素人はともかく、一定程度経験や知識を積んだ(と自分では思っている)政治家には通用しない。自分の頭で物事を考えるようになった(と自分では思っている)政治家は、しだいに「従順でなくなり、服従したがらなくなる」のである。結果として、小沢氏周辺から、ベテランや実力者はいなくなって、いわゆる“チルドレン”といわれる人たちだけが残るという仕儀となる。
 その“チルドレン”の間でも、小沢氏の裁判で控訴が決まったとたんに、空気が変わってきたらしい。同氏が会長を務める新しい政策研究会が「政治弾圧だ」と、左翼張りのアピールを出したのに対して、「激しい検察批判ばかりしていても、党内で孤立するだけだ」との反論が出ている。若手の間でも「従順と服従」は揺らぎ始めているようにみえる。
 それにしても、「政治家・小沢」の求心力とは、いったい何なのだろうか?
 政治家を衝(つ)き動かす動機は、(1)理念(2)利害(3)情念-の3つだが、政策・理念の正統性ないし一貫性に、同氏の存在理由を求めるのは無理である。かつて新進党や自由党時代にはどちらかといえば新自由主義的な主張を展開していたのに、小泉純一郎元首相にそれを掠(かす)め取られると、一転、再分配重視の社民的政策に転換した。今は猛反対する消費税率引き上げについても、細川政権時代には福祉目的税(国民福祉税)としてこれを強引に進めようとしていた。
 情念や感情は、小沢氏にとってはむしろ反作用となって表れることが多い。同僚や部下がどんどん離れていくのも、理念・政策に対する反発というより、感情的離反が少なくない。政治家として「不徳」というほかない。
 ≪政策・理念に存在意義なく≫
 最後に残るのは利害である。“チルドレン”諸氏は、次の選挙で生き残るには小沢氏に縋(すが)るしかないと、今のところ思っている。しかし小沢氏と行動をともにすることが自らの利害に合致しないとなると、窮鼠(きゅうそ)は噛(か)み付く相手を変えるに違いない。
 筆者は十数年前に「しぶとさ」と「曖昧さ」というキーワードで小沢氏について論じたことがある(拙著『消費される権力者』)。何度も挫折したかに見えてしぶとく生き残っているのは、「小沢しかいない」という圧倒的な存在感によるものだった。しかし、それも相対的に低下している。また、同氏のしたたかな狙いは「保守」と「革新」の間の曖昧さにあった。3年前の総選挙で民主党を勝利に導いたときが、彼の曖昧戦略が最も巧(うま)くいった瞬間だった。ところがいまや、それも不信の対象になっている。
 この20年間、小沢氏は常に政局の中心に位置し続けてきた。その点では端倪(たんげい)すべからざる政治家だった。いまなお必死で「しぶとさ」を発揮しようとしているが、「曖昧さ」は裏目に出つつある。小沢氏主導の政局の有効性それ自体がもはや曖昧になってしまったのだ。
 もういいだろう。いま求められるのは言葉の真の意味における「脱小沢」である。与野党首脳は早々に引導を渡すべきだと思う。(えんどう こういち)

=================================転載完了

「勝利は目の前」なのだろうか

 さて、如何であろうか。
 
 そのまま受け取るならば、先ずは朗報、吉報といってよかろう。何しろ当該「正論」の〆は、
 
1>  この20年間、小沢氏は常に政局の中心に位置し続けてきた。その点では端倪(たんげい)すべからざる政治家だった。
2> いまなお必死で「しぶとさ」を発揮しようとしているが、「曖昧さ」は裏目に出つつある。小沢氏主導の政局の有効性それ自体がもはや曖昧になってしまったのだ。
3>  もういいだろう。いま求められるのは言葉の真の意味における「脱小沢」である。与野党首脳は早々に引導を渡すべきだと思う。
 
であり、与野党首脳陣がこぞって「我が敵」小沢一郎に「止めをさせ」と言うのだから、こうなれば目出度く「小沢一郎の政治的無力化」は完成。「我が勝利」を宣する事ができそうだ。
 本当にそうであるか否かは、残念ながら判断材料が無い。上掲産経「正論」が「正論であってくれれば良い」と希望はするが、確信は無い。
 
 確信は無いが、希望ではある。
 
 「我が敵」・小沢一郎、覚悟!