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当ブログをある程度お読みになった方( そんな方が幾人居るかはさて置き )には言うも更なりだが、私は福島原発事故を経て尚原発推進論者だ(*1)。だから東京新聞や三アカ新聞(朝日・琉球新報・沖縄タイムス)とはハナッから「宗教が違う」と自覚し、諦観している。
だが、その「宗教の違い」を差し引いてもこの琉球新報社説は・・・・まあ、御一読願おうか。
<注釈>
(*1) 私の原発推進論―または私が福島原発事故を経てなお原発を推進する理由。―前進せよ、人類。 http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/35630668.html
転載開始=========================================
【琉球新報社説】
全原発停止 再稼働なき安定供給追求を
2012年5月6日日本の商業用原発50基のうち、唯一稼働していた北海道電力泊原発3号機(北海道泊村)が5日深夜、定期検査のために停止した。稼働原発がゼロになるのは1970年以来、42年ぶりとなる。東京電力福島第1原発事故から約1年2カ月。原発の安全神話は完全に崩壊したが、政府のエネルギー政策は原発依存体質から抜け出せないでいる。結果として国民の不安は一向に解消されず、政府や電力会社への信頼は失われたままだ。稼働原発ゼロの事態は当然の帰結と言える。政府は全原発停止を回避するため、関西電力大飯原発3、4号機(福井県おおい町)の再稼働を目指していたが、安全対策への疑念などから、滋賀県や京都府など隣接する周辺自治体が反発。関電の筆頭株主である大阪市の橋下徹市長も政府批判を強めている。野田佳彦首相と枝野幸男経済産業相ら関係3閣僚が、原発の再稼働に関する新たな安全基準を決定したのが4月6日。首相が新基準作成を指示してからわずか3日後だった。さらに首相らは同13日、新基準に照らして大飯原発の再稼働を「妥当」と判断した。独立性が高く、安全対策を専門的かつ客観的に担う原子力規制庁の発足のめどは依然立たず、再稼働に同意が必要な地元の線引きも棚上げされたままだ。「再稼働ありきの拙速なやり方」との批判が出るのはもっともなことだ。一方、原発ゼロが想定されていたにもかかわらず、電力の安定供給に向けた取り組みは後手後手に回っている。沖縄電力を除く電力9社の需給予測は、このまま原発が再稼働せずに猛暑となった場合、北海道、関西、九州の3電力管内で電力不足に陥るとした。関電に至っては、「大飯原発を再稼働しても安定供給は困難」(岩根茂樹副社長)との見通しだ。具体的な積算根拠も示さず、いたずらに電力不足を言い立てるのは極めて不誠実だ。再稼働を急ぐ余り、消費者に脅迫観念を植え付けるような電力会社や政府の態度は言語道断だ。原発ゼロに伴う発電コストの上昇など、止めるリスクは確かに小さくないが、節電を促す具体的な方策をはじめ、電力各社の供給力にはまだ改善の余地があるとの指摘もある。政府と電力会社は再稼働ありきではない電力の安定供給を真剣に追求することで、何よりも国民の信頼回復を急ぐべきだ。
=================================転載完了
「言うだけだったら、なんとでも言えるわなぁ」(c)岡部ださく
さて、如何であろうか。
正直なところ、私はこの社説タイトルを読んだ瞬間に、吹いた。吹き出した。
何しろ発電所と言うものは、原子力、火力、水力、地熱に関わらず相当に大規模な施設だ。建設して稼動するまでには数年掛かるし、立地選定からだと10年を超えることも珍しくない。太陽光や風力ならばそんなにかからないのかも知れないが、立地条件と広大な敷地とは立地選定を難しくする上、低い上に制御できない発電量は当面の間「発電の主役」となることを許さない(*1)。巷間流行の「屋上設置太陽光発電パネル」や、一寸だけ話題になった「小規模水力発電(*2)」ならば短期間で設置できるが、発電量は微々たる物かつ制御できないのは変わらない。間、微々たる発電量だから「発電の主役」となれず、それ故に「制御できない発電量」であっても問題ないレベルに止まるのだが。
尚且つ、管直人の政権延命策「脱原発」が図に当たって、1年後との定期点検に入った原発はそのまま再稼動せずに停止し、遂に当該社説タイトルにもなっている「全原発停止」状態に至っている。これ即ち我が国の総発電量の三割が、それも「制御可能な発電量」が、失われている事を意味する。
であると言うのに、「(原発)再稼動なき安定供給」なんてのは、虫が良いにも程があろうと言う要望である。殆ど言語矛盾に近い。私が「吹いた」所以だ。
ああ勿論当該社説タイトルは「全原発停止 再稼働なき安定供給追求を」となっており、「追求を」の三文字が付いている。どんな無理難題無茶無体な要求でも「追求するだけ」なら努力目標だから誰でも出来る、と言う屁理屈は一応成り立つが・・・鳩山由紀夫級の屁理屈だろう。
実際、当該沖縄タイムス社説は、原発に対する不安や電力需要見積りに対する疑義を羅列するばかりで、どうやって「(原発)再稼動なき安定供給」なんて」虫の良い要求を「追及する」のかと言うと・・・
1> 原発ゼロに伴う発電コストの上昇など、止めるリスクは確かに小さくないが、
2> 節電を促す具体的な方策をはじめ、電力各社の供給力にはまだ改善の余地があるとの指摘もある。
この僅か二行。実質は上記2>の一行でしか「追求」しておらず、尚且つ「節電を促す具体的な方策」は「節電推進策」=電力需要圧縮でしかないから、社説タイトルにある「(原発)再稼働なき安定供給」手段として琉球新報社説が唱えているのは、僅かに上記2>「電力各社の供給力にはまだ改善の余地」のみ。それも上記2>「改善の余地があるとの指摘もある。」と誰だか知らないが第三者にその「指摘」の責任を押し付けているから、無責任な事ことこの上ない。
その上、上記1>「原発ゼロに伴う発電コストの上昇など、止めるリスク」を当該社説自身が認めている通り、琉球新報が「追求」を訴える「(原発)再稼動なき安定供給」は、電力量は安定しても、現状ほどには安価ではないのである。
言い換えよう。
当該琉球新報社説は、タイトルからして「(原発)再稼働なき安定供給追求」を声高に、居丈高に訴えている。だが、そのための方策・手段としては「電力各社の供給力改善」を上げるのみで、それすらも「改善の余地があるとの指摘もある」との極めてあやふやな方策・手段でしかない。
尚且つそれで実現した「(原発)再稼働なき安定供給」状態は、現状よりも高コストであると、当該社説自身が認めている。即ち「電力供給さえ需要を上回っていれば安定供給」と言う主張でもある。
何度も書く通り、私は「社説は新聞社の顔」であり、「新聞社の存在理由の少なくとも一端」と考えている。これは私の考えだから、「宗教の違う」琉球新報には別の考えがあるのかも知れない。
だが、かかる一文を社説として掲げる以上、これは琉球新報の社としての主張である筈だ。「社説」と銘打ってある以上、それは一寸疑いの余地がないのだが・・・これが「主張」か、琉球新報。高コストでも電力供給量が需要を上回るだけの「安定供給」状態を、節電努力と「指摘のある」電力会社の電力供給力改善で「追求しろ」と言うのが。
アジビラ、伝単ならばこれでも良かろうが、これを「琉球新報社の主張」とするならば、所詮その程度の「新聞社」と言う事だ。
まあね、三アカ新聞の下っ端ならば、その程度と言えばその程度、であろうが。
<注釈>
(*1) 私の「自然エネルギー推進論」―フクシマ後も原発推進の立場から― http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/35778036.html http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/35778053.html http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/35778071.html 参照(*2) 多分、「水車小屋」のイメージだろう。
追記
どうも「脱原発派」の相当部分が都合よく忘却しているように思えてならないのだが・・・・
(1) 原発は稼動停止しても、原子炉内に核燃料はある。仮にそのまま廃炉にするとしても、それには10年オーダーの時間がかかる。
(2) 廃炉に至るまでの間、少なくともある段階まで「原発リスク」が無くなる訳ではない。「稼動状態よりも停止状態のほうが低い」だけである。
(3) 福島原発事故に対する現状判明している賠償を含めても尚、原発は電力量当たりの発電コストが最安である。従って、如何なる形であれ「脱原発」は「電気料金の値上げ」を伴う。
(4) 日本は偏西風帯にあるから、「日本に於ける原発リスク」と言う点では、半島や大陸の原発も看過できない。
(5) その上、半島や大陸が「脱原発」に方針転換する可能性は、「半島や大陸が憲法9条を採用する」可能性と同程度であろう。即ち「戸外を歩いているときに隕石が命中して即死する」可能性と同程度だ(*1)。
(6) 「脱原発」を決めると同時にドイツのシーメンス社は原発事業からの撤退を決めた(*2)。この意味する所は、ドイツの原発技術は、早晩民間には維持されないだろうと言う事である。
(7) 同様に、「脱原発」を決めた場合の日本でも、原発技術の民間での維持は出来ないだろう。「廃炉ビジネス」は10年オーダーで維持されるだろうが、先がないのだから。
(8) 上記の結果、半島や大陸由来の原発リスクに対し、我が国は現在以上に脆弱になるだろう。
(9) 極東で「一国脱原発(*3)」を我が国が果たし、その結果原子力技術を失った場合の半島・大陸由来「原発リスク」と、原発と原子力技術を維持し、国内由来の「原発リスク」を抱えつつ半島・大陸由来の「原発リスク」にも備えたリスクと、何れが高く、何れが深刻か、少なくとも比較検討の必要が、「原発リスクだけ考えて」もある筈だ。
況や、電力の安定供給を考えたならば、現有原発再稼動は、理の当然と言うべきだ。
私の結論は何時もと変わらない。
脱原発なんぞ、愚挙にして、暴挙である。
<注釈>
(*1) 即ち、ロバート・A・ハインライン風に言えば「豹がその斑を全て洗い流し、ジャージー種の牛と同じ仕事を貰う日が来る」可能性と同程度だ。(*2) ドイツ降伏-独シーメンス社 原子力事業から撤退 http://www.afpbb.com/article/economy/2828751/7793213 http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/36006950.html(*3) ドイツ、イタリア、ノルウエー。「脱原発」なんて贅沢が出来るのは、「電力不足ならば別の国から、特にフランスの原発から輸入できる」欧州諸国ぐらいだ。従って我が国が管直人の言うように「脱原発」を決めたとしても、それは「一国脱原発」にしかならない。クラスター爆弾禁止条約と似たような状況だ。