入原発論 http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/36713808.html http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/36713836.html より続く
(A1)核武装との関連
本文で論じた原発及び原子力技術の評価項目として、核兵器・核武装との関連があるのは衆目の一致するところだろう。本文では焦点がぼけるので敢えて取り上げなかったが、ここでまとめて取り挙げよう。
イランにせよ、北朝鮮にせよ、核兵器開発を「平和利用=原発技術の開発」と主張しているのだが、核兵器を製造する技術と原発を設計・建設・運用する技術の間に共通する部分があるのは紛れもない事実である。
其れが、「日本の原発推進論者は、日本の核武装を企んでいいる」などという説に一定の説得力を与えるものであろう。
私に言わせるならば、大変結構なことである。
私が「大変結構」と評するのは、「日本が核武装する事」ではない。上記のような説をなす者が一定数居り、かつ我が国が原子力技術を維持することによって、「日本が核兵器を装備する可能性がある」と思われる事、だ。
原発が電力供給の一手段であり、エネルギー政策を実現する一手段であるのと同様に、核兵器は我が国の安全保証策を実現する一手段だ。
従って、原発及び原子力技術の維持は、我が国の安全保障上も直接的にさえも有益である。間接的には、電力の安定供給は今後ますます安全保障上の価値を増すであろうから、
やはり重要である。
無論、原発自体の脆弱性は火力発電所より高いということは認めないといけない。イラクのオシラック原子炉がイスラエル空軍の空爆で破壊されたように、テロリストのロケット弾攻撃ぐらいは凌げる原発も、正規軍の攻撃からは無事ではすまない。これは、9.11テロのような旅客機体当たり攻撃をも想定したという米国の原発新基準を以てしても難かろう(大分マシ、ではあろうが)。
戦時に於ける原発の脆弱性というのは、確かに一つのリスクである。其れは大いに、我が国の安全保障上のリスクだ。であるならば、其れは原子力技術を今後も保持して核兵器保有という選択肢を残すないし「残すと思わせる」ことなどによる安全保障上のメリット・デメリットと共に考えるべきである。
永世中立国を標榜するスイスが、核武装を一時真剣に検討した故事を想起すべきである。
その意味では、やはり興味深いのがドイツである。以前にも記事にした通り、ドイツは核兵器は保有していないが、核攻撃能力は持っている。どう言うことかというと、戦術核爆弾限定だが核攻撃能力のある機体を保有し、訓練も実施し、戦時にはアメリカ軍から戦術核爆弾を「借りる」のである。冷戦華やかなりし頃の西ドイツ時代から保有する核攻撃能力を、ドイツは今でも保持している。「脱原発」などと脳天気な事を言い出してシーメンス社を原子力事業から撤退させ( つまり、原子力技術を放棄した、と言うことだ)、既存の原発廃炉も不足分の電力も外国に依存しようというドイツだが、核攻撃能力は今でも保有している。現状のまま「脱原発」を果たし、「再生可能な自然エネルギー」に転向したとしても、ドイツが現有する核攻撃能力とは直接関係ない。もっとも、先述の通り核兵器はアメリカからの借り物であるから、ドイツの核攻撃能力は、ドイツの原子力技術とも直接相関がないから、「脱原発宣言国にして核攻撃能力保有国」なんて芸当ができる。いや、「実に見事な芸」と言うべきか第2次大戦に「戦勝国」となったイタリアを想起するのは、私だけだろうか。
話を元に戻すと、つまりは、「脱原発」などと言う結論は、我が国に於ける核武装ないし核武装の可能性を我が国の安全保障上どう位置づけるかという明白な結論なしにはなせない筈である。理性的に、合理的に、冷徹に考えれば、と言う条件付きだが。国の安全保障とエネルギー政策に関わる大事だ。理性的・合理的・冷徹に考えて当然であろう。
人によっては、これには明白な結論がついているのだろう。「日本は絶対に核武装しない」と。「ヒロシマ、ナガサキの犠牲者たちがそれを許さない」と。
だが、モノは考えようで、「ヒロシマ、ナガサキの犠牲者たちこそが、我が国の核武装を求めている」と考える人もある。
所詮「ヒロシマ、ナガサキの犠牲者たち」なんてのは死者であり。「死人に口なし」なのだから、死者の「声を聞く」のは現世にある「生者の耳」次第であろう。
で、バリバリ現世にある生者の私としては、我が国・日本の核武装という選択肢を放棄するのは馬鹿げている、と考える。広島や長崎の惨禍は「核兵器の恐ろしさ」を具現化して見せたが、その「核兵器の恐ろしさ」故に人類核兵器を破棄するなんて信じないし、期待もしない。「全人類が核兵器を放棄する」事は、希望ぐらいはしても良いかも知れないが、「核兵器なき世界は、唯一国の核兵器保有国に世界が支配されかねない」世界であるから、もしそれが実現したとしても「どこかの国が核兵器を保有し次第、我が国も核兵器を保有できる体制」を目指すべきだと考える。その「世界唯一の核兵器保有国」に我が国が支配されてしまわないように。
言い換えれば、我が国にはドイツのような核攻撃能力は現状ないが、否、現場ないからこそなおの事、原子力技術を維持して核兵器保有の潜在能力を「保持」する事が重要なのである。
広島、長崎の犠牲者たちが我が国の核兵器保有を望んでいるか、否か、私は知らない。だが、その犠牲者たちが我が国の安泰と発展を願っていることだけは、確信がある。
言い換えれば我が国安泰のための核兵器保有ないし保有潜在能力を、広島長崎の犠牲者たちが許容しないと、考える理由はない。
故に、我が国の「核抑止力」保有のためにも原子力技術の維持、原発の維持は重要であり、必要である。