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河村名古屋市長が「南京大虐殺」について「通常の戦闘行為はあったが、南京事件はなかったと思っている」と発言した事、及びそれに対する2/23付け東京新聞社説は既に記事にした。端的に言って河村市長の発言は撤回も謝罪も必要ないし、東京新聞社説は「日中共同歴史研究」を楯に取ったイチャモンだ。ああ、その「日中共同歴史研究」なるものがいかなるものか、も既に記事にしている。
今回取り上げる東京新聞社説は、前出の社説のいわば続編。河村市長に対する東京新聞の親方五紅星旗を背負っての渾身の追撃、と言うところだが・・・先ずは御一読、願おうか。
今回取り上げる東京新聞社説は、前出の社説のいわば続編。河村市長に対する東京新聞の親方五紅星旗を背負っての渾身の追撃、と言うところだが・・・先ずは御一読、願おうか。
転載開始=========================================
【東京社説】河村市長発言 なぜ素直に撤回しない
名古屋市長は「南京事件はなかった」との発言を撤回せず、訪問団にも非礼ではなかったとの考えを、きのう述べた。率直な議論で「ノドのトゲを抜こう」と主張するが、その土台は一体あるのか。河村たかし市長は会見で「いわゆる南京事件はなかったのではないか」という発言が「南京大虐殺はなかったという持論を展開」と報道され、「南京では何もなかった」と誤解されたと釈明した。市長は「象徴的に三十万人とされるような組織的大虐殺はなかったとの趣旨」と説明。「友好団に面と向かって三十万人の大虐殺と申し上げるのは言葉がいかにも残虐なので、あえていわゆる南京事件と申し上げた」と釈明した。当初の発言は、市長が南京大虐殺はなかったと公にしたと受け止められる言葉である。報道により南京市民の誤解を招いたというのは、とんでもない責任転嫁だ。南京で虐殺がなかったという研究者はほとんどいない。日中歴史共同研究の日本側論文も「集団的、個別的な虐殺事件が発生し」と明記する。市長自身「非戦闘員の殺害はあっただろう」と認めており、日中で隔たりがある被害者数を問題にする意図であったのなら、そう明言すべきであった。市長は共同研究を「学者の個人的見解」と批判するが、国や政治レベルで埋まらぬ歴史認識の溝を、少しでも客観的に埋めようとの知恵であった。中国主張の「三十万人」を市長が真っ向から否定しては、南京市側は率直な議論のテーブルにはつけぬだろう。敏感な問題でも、政治家が主義主張を掲げるのは結構だ。だが、首長は政治家であるとともに自治体のリーダーでもある。歴史的な米中、日中国交正常化の扉を開いたピンポン外交の舞台である名古屋のトップの公式発言としては不適切だった。日中四十周年の記念すべき年に、友好都市が公の交流を停止し、記念行事や経済活動にも影を落とす。苦しい釈明ではなく、素直に撤回できないものか。昨年春、南京市の公園で日中の百人以上が友好の桜を植えた。南京出身で十五年以上も名古屋に住む韓金龍さんが中心となり、過去五年で千本余を植えた。韓さんは「手を携えて桜を守り、友情の証しにしたい」と話した。「公の交流停止」と言う南京市のシグナルを、敏感に受け止めてほしい。民の交流の根は深く、広い。民の交流を支えてこその市長であろう。
腹ぁ抱えて大笑い
さて、如何であろうか。
私はタイトルにもした通りだ。「腹を抱えて大笑い」だ。
1> 名古屋市長は「南京事件はなかった」との発言を撤回せず、訪問団にも非礼ではなかったとの考えを、きのう述べた。
2> 率直な議論で「ノドのトゲを抜こう」と主張するが、その土台は一体あるのか。
私はタイトルにもした通りだ。「腹を抱えて大笑い」だ。
1> 名古屋市長は「南京事件はなかった」との発言を撤回せず、訪問団にも非礼ではなかったとの考えを、きのう述べた。
2> 率直な議論で「ノドのトゲを抜こう」と主張するが、その土台は一体あるのか。
のっけから挑発に出る東京新聞だ。背中に背負った五紅星旗も重たげだが、此の攻撃は、私に言わせればものの見事に不発、と言うより、墓穴だな。
上記2>「その土台は一体あるのか。」と大上段に切りかかっているが、先行記事にした報道、社説、それに転載記事にもある通り、「河村発言」の根拠・土台は「所謂南京大虐殺の8年後に現場に居たと言う個人的記憶」であり、言わば「河村証言」だ。無論記憶と言うものは曖昧でもあれば、美化も変形もされるものであるし、「個人的体験」は個人が見聞出来る範囲に限られるから、歴史的鳥瞰図を得られるとは限らない。が、「文献や伝聞だけで『南京虐殺を知る』だけ」の学者先生より遥かに現場現地に近い経験を持っている。第三者ならばまだしも、その経験を持つ当人にとっては、充分すぎる根拠・土台であろうが。
上記2>「その土台は一体あるのか。」と大上段に切りかかっているが、先行記事にした報道、社説、それに転載記事にもある通り、「河村発言」の根拠・土台は「所謂南京大虐殺の8年後に現場に居たと言う個人的記憶」であり、言わば「河村証言」だ。無論記憶と言うものは曖昧でもあれば、美化も変形もされるものであるし、「個人的体験」は個人が見聞出来る範囲に限られるから、歴史的鳥瞰図を得られるとは限らない。が、「文献や伝聞だけで『南京虐殺を知る』だけ」の学者先生より遥かに現場現地に近い経験を持っている。第三者ならばまだしも、その経験を持つ当人にとっては、充分すぎる根拠・土台であろうが。
第一撃からして外しているものだから、第二撃以降も、「冴えない」と言うよりは、頓珍漢の的外れになる。
3> 南京で虐殺がなかったという研究者はほとんどいない。
4> 日中歴史共同研究の日本側論文も「集団的、個別的な虐殺事件が発生し」と明記する。
5> 市長自身「非戦闘員の殺害はあっただろう」と認めており、日中で隔たりがある被害者数を問題にする意図であったのなら、そう明言すべきであった。
4> 日中歴史共同研究の日本側論文も「集団的、個別的な虐殺事件が発生し」と明記する。
5> 市長自身「非戦闘員の殺害はあっただろう」と認めており、日中で隔たりがある被害者数を問題にする意図であったのなら、そう明言すべきであった。
その「研究者」は、「河村証言」を無視している事になるんだがね。
学者が「河村証言」を無視するのは、まあ、学者の勝手としても、河村市長自身がその個人的体験である「河村証言」を無視して、学者先生のご高説に従う様ならば、人格崩壊の疑いが濃厚であろうが。それは、そんな「南京虐殺はあったとする学者」が如何に大勢居ようとも、変わりがない。
言い換えれば、東京新聞社説は、河村市長に、人格崩壊・人格放棄を迫っているようなものである。一体何様なのだろうか。Big Brotherか真理省にでもなった心算か。
さらに言えば、やっぱり東京新聞が持ち出すのは、あの「日中共同歴史研究」なのである。
6> 市長は共同研究を「学者の個人的見解」と批判するが、
7> 国や政治レベルで埋まらぬ歴史認識の溝を、少しでも客観的に埋めようとの知恵であった。
8> 中国主張の「三十万人」を市長が真っ向から否定しては、南京市側は率直な議論のテーブルにはつけぬだろう。
とまで東京新聞は「日中共同歴史研究」を持ち上げ、金科玉条の如くであるが、正にその「日中共同歴史研究」が上記「国や政治レベルで埋まらぬ歴史認識の溝を、少しでも客観的に埋めよう」として「全く埋まらなかった」大失敗の見本、と私なんぞは考えるから、説得力も何もありはしない。況や上記8>とは何だ。バナナの叩き売り宜しく、中国側主張の「30万人虐殺」から「値下げ交渉を始める」為のテーブルならば、名古屋市長ならずとも日本人ならば、お断わりすべきであろう。
学者が「河村証言」を無視するのは、まあ、学者の勝手としても、河村市長自身がその個人的体験である「河村証言」を無視して、学者先生のご高説に従う様ならば、人格崩壊の疑いが濃厚であろうが。それは、そんな「南京虐殺はあったとする学者」が如何に大勢居ようとも、変わりがない。
言い換えれば、東京新聞社説は、河村市長に、人格崩壊・人格放棄を迫っているようなものである。一体何様なのだろうか。Big Brotherか真理省にでもなった心算か。
さらに言えば、やっぱり東京新聞が持ち出すのは、あの「日中共同歴史研究」なのである。
6> 市長は共同研究を「学者の個人的見解」と批判するが、
7> 国や政治レベルで埋まらぬ歴史認識の溝を、少しでも客観的に埋めようとの知恵であった。
8> 中国主張の「三十万人」を市長が真っ向から否定しては、南京市側は率直な議論のテーブルにはつけぬだろう。
とまで東京新聞は「日中共同歴史研究」を持ち上げ、金科玉条の如くであるが、正にその「日中共同歴史研究」が上記「国や政治レベルで埋まらぬ歴史認識の溝を、少しでも客観的に埋めよう」として「全く埋まらなかった」大失敗の見本、と私なんぞは考えるから、説得力も何もありはしない。況や上記8>とは何だ。バナナの叩き売り宜しく、中国側主張の「30万人虐殺」から「値下げ交渉を始める」為のテーブルならば、名古屋市長ならずとも日本人ならば、お断わりすべきであろう。
そんなテーブルには、中国側だけ着いて居れば良いのだ。
9> 敏感な問題でも、政治家が主義主張を掲げるのは結構だ。
10> だが、首長は政治家であるとともに自治体のリーダーでもある。
11> 歴史的な米中、日中国交正常化の扉を開いたピンポン外交の舞台である名古屋のトップの公式発言としては不適切だった。
12> 日中四十周年の記念すべき年に、友好都市が公の交流を停止し、記念行事や経済活動にも影を落とす。
13> 苦しい釈明ではなく、素直に撤回できないものか。
9> 敏感な問題でも、政治家が主義主張を掲げるのは結構だ。
10> だが、首長は政治家であるとともに自治体のリーダーでもある。
11> 歴史的な米中、日中国交正常化の扉を開いたピンポン外交の舞台である名古屋のトップの公式発言としては不適切だった。
12> 日中四十周年の記念すべき年に、友好都市が公の交流を停止し、記念行事や経済活動にも影を落とす。
13> 苦しい釈明ではなく、素直に撤回できないものか。
さあ、この辺になってくると論理も説得力もヘッタクレもありはしない。浪花節調に「日中友好は大事だから謝れ」としか言っていない。正に、尖閣諸島沖で中国漁船「船長」が海保庁巡視船に体当たり攻撃をかけて現行犯逮捕された後、釈放されて中国へ送還された際に、那覇地検が使ったロジックと瓜二つ。即ち大いに売国的だ。
で、東京社説の〆は以下の一文だ。
14> 「公の交流停止」と言う南京市のシグナルを、敏感に受け止めてほしい。
15> 民の交流の根は深く、広い。民の交流を支えてこその市長であろう。
Negative 否定。
「言うべき事さえ言わずに」触接を保つ事を、交流とも友好とも称するべきではない。
それは屈服であり、隷従である。そんな「交流」なんぞより、「民間交流断絶」の方が、遥かにマシである。
で、東京社説の〆は以下の一文だ。
14> 「公の交流停止」と言う南京市のシグナルを、敏感に受け止めてほしい。
15> 民の交流の根は深く、広い。民の交流を支えてこその市長であろう。
Negative 否定。
「言うべき事さえ言わずに」触接を保つ事を、交流とも友好とも称するべきではない。
それは屈服であり、隷従である。そんな「交流」なんぞより、「民間交流断絶」の方が、遥かにマシである。
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