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 希望や願望と言うものは、存外大事であるとは、常に現実主義であろうと心がけている理系人間たる私でも同意できるところだ。
 
 「今日の不可能は、明日、可能となる。」
 
とは、宇宙開発の先駆者・ロシアのC.H.ツィオルコフスキーの言葉であるし、
 
 「出来ると思っている事は、時として出来ることがある。
  出来ないと思っている事は、絶対に出来ない。」
 
とは、「偉大なるフン族の王アッティラ」の言葉として松本零士大明神が引用している言葉。恐らくは、架空の「引用」ではあろうが、言わんとする事は理解できる。
 
 「理解できる」どころかこれらの希望・願望を讃えた名言は、我が人生に於ける座右の銘の一つであり、折に触れて私を勇気付け、奮い立たせ、未来を切り開く楽観主義の境地を私に与えてくれている。
 
 だから、希望や願望は大事である。大事であるが、「希望と願望」だけでは何事も為せないそれは祈り、呪文を唱えるには充分であろうが、実現するには、手段が必要であり、手段がないことには、如何にその希望が高く大きく、願望が痛切であろうとも、実現なぞしよう筈がない。それは、人類の広範にわたって長いこと痛切な悲願であり続けている世界平和」と言う願望ですらロクに実現されていない(*1)人類史を鑑みれば、余りに自明であろう。
 
 であるならば、「核廃絶」と言う願望を実現するのにも手段が不可欠であり、その手段が明示されない希望と願望の羅列は、呪文程度の威力効力しか発揮し得ない。中国新聞社説は、ひたすら「呪文を唱える」ばかりのようだ。
 
 ま、御一読願おうか。

<注釈>

(*1) 局地的にや短期的には兎も角。我が国の戦後70年近い平和は、局地的なものだ。 

転載開始========================================= 
 

【中国新聞社説】 展望’12核兵器廃絶 被爆者の声 今こそ共有 

 http://www.chugoku-np.co.jp/Syasetu/Sh201201060085.html
 米国がプルトニウムを使用した新たなタイプの核実験を昨年夏に実施していたことが分かった。
 核爆発を伴わない新型実験は3回目。備蓄している核兵器の有効性を維持するためだという。
 理解できない。オバマ米大統領は「核兵器なき世界」の実現に向け努力すると約束したはずだ(*1)。なのに臨界前核実験も3回強行している。廃絶とは逆行する裏切り行為にほかならない(*2)。
 米国とロシアの間で1年ほど前に発効した新戦略兵器削減条約(新START)も行方が怪しくなっている。欧州でミサイル防衛(MD)建設を進める米国にロシアが反発し、条約脱退の可能性まで口にしたためだ(*3)。
 歩調を合わせるように、独裁国家やテロリストが核兵器を手にする危機も強まっている。
 イランが核燃料棒の製造に成功し、原発研究炉で性能試験を行ったという。原発用と主張するが、軍事利用の疑惑は拭えていない。
 同じくウラン濃縮を進めると宣言した北朝鮮の動向も気掛かりだ。核兵器開発を国際社会との駆け引きに用いる姿勢は危険きわまりない。
 原爆がどれほどの惨状をもたらしたか、まだ世界へ十分に伝わっていないのだろうか(*4)。この先もヒロシマ、ナガサキの証言を地道に広めていくしかない(*5)。
 被爆者は老い、その人数も少なくなってきた。証言や記録を継承していくため、アーカイブとして保存、収蔵、発信する態勢を急ぎ充実させなければならない。(*6)
 広島市は新年度から、証言活動を受け継ぐ次世代の人材養成に力を入れる。原爆投下直後の「黒い雨」をめぐるデータが昨年明らかになったように、埋もれた資料がまだあるかもしれない。発掘や収集に向け、公的機関を中心に不断の取り組みが必要となろう。
 広島県は昨年、「国際平和拠点ひろしま構想」を打ち出した。核テロの脅威を削減し、平和を構築するため、人材育成や研究集積に取り組むという。(*7)
 構想段階から実現へと歩みを進めていくには、市との連携も問われよう(*8)。
 民間も動く。被爆体験記や反核運動の資料収集のため、作家の大江健三郎さんらがグループを結成した。被爆地の体験をユネスコの「記憶遺産」に登録することも視野に入れているという(*9)。
 被爆地の責務はこうした体験継承だけにとどまらない。
 昨年の福島第1原発事故まで、私たちは原子力の軍事利用と平和利用を別々に考えるきらいがあった。だが原発も事故を起こせば制御不能となり、ヒバクシャを生みかねない。
 広島は今こそ「人類と核は共存できない」という被爆者の声を全世界に届けなければならない(*10)。
 各国首脳に被爆地訪問を促し、核兵器禁止条約の交渉開始を求めることなど課題は尽きない(*11)。被爆者の肉声を国際社会が共有できるかが鍵となろう(*12)。
=================================転載完了
 

<注釈>

(*1) 勝手な誤解だな。その演説は、オバマ大統領の存命中には核廃絶はならないだろうと、はっきりと言っている。オバマ氏は、存命どころか未だ現職の大統領だ。そんな「遠い約束」の為に核実験をやめるなどと、期待する方がどうかしている。 
 
(*2) 勝手に期待し、勝手に裏切られているだけだ。独り相撲と言う奴だ。 
 
(*3) ソリャ、防衛的な「ミサイル防衛」に不満な、攻撃的なロシアの問題であろうが。 
 
(*4) その惨状故に、核を欲する者もある。理の当然なのだがね。 
 
(*5) 「この先もヒロシマ、ナガサキの証言を地道に広めていくしかない」ならば、それは戦後70年近くの間、「核廃絶」には殆ど貢献してこなかったと言う事であるし、これからも奏功する事はないだろうと、私は断言する。 
 
(*6) やるのは自由だが、それが「核廃絶に役に立つ」と言うのは、思い込みだ。 
 
(*7) これこそ理解できない。人材育成や、研究集積で、どうして「核テロの脅威を削減し」「平和を構築」なんて出来るんだろうか。少なくとも、直接の相関関係はない。 
 
(*8) 「人材育成や研究集積」を行う「国際平和拠点ひろしま」の実現ならば、可能であろう。だがそれが、「核テロの脅威を削減し」「平和を構築」を実現するのには、いくら市と連携しようが実現する訳が無い。況や、「核廃絶」に於いてをや。 
 
(*9) 「記憶遺産」とやらの肩書きだけは取れるかも知れないがね。リップサービス異常の成果は期待できない。況や、大江健三郎と来た日には、日本の悪口書いてノーベル文学賞を貰った以外の何かをしたと言うのだろうか。 
 
(*10) Nutz!  原発如きが人類を滅ぼすオーバーテクノロジーなものか http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/35039419.html 
 
(*11) 「被爆地訪問」は兎も角、「核兵器禁止条約の交渉開始」なんて誰がそんなものを聞くんだぁ?ご期待のオバマ大統領とて「核兵器なき世界」を演説の上で唱えたばかりで、「核兵器禁止条約の交渉開始」なんざ、全くしていない。精々が「核兵器削減交渉」のテーブルを用意したぐらいだろう。 
 
(*12) それが「鍵」ならば、それは「実現しない」事がほぼ決定だ。 
 

手段は「各国首脳に被爆地訪問を促し、核兵器禁止条約の交渉開始を求めること」のみ

 さて如何であろうか。
 
 章題でネタバラシしてしまっているが、当該中国新聞社説が「核兵器廃絶の為の手段」に触れているのは、二千字あまりの此の社説の中で、締めとなる次の一節のみ。
 
中1>  広島は今こそ「人類と核は共存できない」という被爆者の声を全世界に届けなければならない
中2> 各国首脳に被爆地訪問を促し、核兵器禁止条約の交渉開始を求めることなど課題は尽きない。
中3> 被爆者の肉声を国際社会が共有できるかが鍵となろう。
 
 即ち手段は上記中2>にある各国首脳に被爆地訪問を促し」「核兵器禁止条約の交渉開始を求めることなどでしかない。「など」と最後についているのだから、他にも手段はあるようだが、例として挙げられているのが「被爆地訪問の勧誘」と「核兵器禁止条約の交渉開始訴求」とあっては、残りも推して知るべし。尚且つ上記中3>「被爆者の肉声を国際社会が共有できるかが鍵となろう。」と言うのだから、これはもう、眼も眩むような絶望的な話だ。
 
 「それでも核廃絶を訴える」のは、此の中国新聞社説に賛同する者の自由だ。別に止めはしない。だがそれらの手段で「被爆地・被爆者の悲惨さ」を訴えたところで、核廃絶なぞ実現はしない、と私は断じる。その意味では、中国新聞社説の言う「被爆者の肉声」は、「国際社会」どころか、被爆者と同じ日本人である私にさえ「共有されていない」。(断言)
 
 私が「核兵器の悲惨さ」を強調したところで「核廃絶には至らない」と断じるのは、その「核兵器の悲惨さ」こそが、「核兵器の無い世界では、唯一国の核保有国に全世界が支配されかねない世界である事を強固に裏付けるものであるし、北朝鮮がその人民を飢餓に曝しつつ核兵器開発に邁進し「金王朝の安定」を強請り取ろうという「北朝鮮モデル」への期待を高めているからである。
 
 「核兵器は悲惨な被害をもたらしかねない。だから人類は放棄しよう。」と考えるような人間は、残念ながら日本人以外では多数派とは言えない。
 
 「核兵器は悲惨な被害をもたらしかねない。だから我が国は保有して、我が国の安泰を図ろう。」と考える国が、少なくとも一定数存在する。これらの国が「核兵器の悲惨さ」で、核兵器を放棄なぞ、する訳がない。
 
 嘘だと思うならば、先ず北朝鮮なりイランなりの核兵器開発を「核兵器の悲惨さ」で、止めて見せるが宜しかろう。
 
 現に核兵器を保有している国に核兵器放棄を決断させる事は、核兵器開発国に開発を断念させるよりもさらに難事であろう。
 
 言い換えれば、核兵器廃絶の手段として、「被爆者の肉声を国際社会が共有」する事は、全く不十分・不適切と言う事である。
 
 それは、祈りにはなっても、祈りにしか過ぎない。その効力は呪文程度である。