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========(転載継続)=============
東京【社説】
武器輸出三原則 歯止めなき緩和許すな
政府は武器と関連技術の輸出を禁止している「武器輸出三原則」の緩和を二十七日、官房長官談話の形で発表する。野田内閣は国会論議もないまま、「平和国家」の看板を下ろそうというのか(*1)。三原則見直しが本格化したのは政権交代後である。自民党政権では官房長官談話で巡視艇供与を認めた例はあるが、民主党政権は三原則を歯止めなく緩め始めた。菅内閣は今年六月、日米で共同開発を進めているミサイルの第三国への輸出を認める方針を米国に伝えた。二十七日の談話発表は、三原則緩和の第二弾にあたる。(1)米国や友好国との国際共同開発・生産への参加(2)自衛隊が国連平和維持活動(PKO)などの海外派遣で使用した装備品の人道目的などの供与─を可能にする。ちょっと待ってほしい。武器を共同開発する相手国と日本の国益は必ずしも一致しない(*2)。米国なら日本との間で共同開発した武器を同盟国のイスラエルに売却するかもしれない。友好関係を保ってきたアラブ諸国から反目され、日本の中東外交が揺らぐことになる。PKOでは、武器とみなされ、供与できない装備品の重機に代わって民生品の重機を持ち込み、供与する方式が定着している。東日本大震災では自衛隊の重機が不足し、レンタル品を使った。供与しても国内活動に支障のない装備品など本来、あるはずがない。(*3)三原則緩和の背景に、民主党が支持基盤を防衛産業に広げる狙いがあるのだろう。北沢俊美前防衛相は二〇一〇年一月、日本防衛装備工業会の賀詞交歓会で、初めて三原則緩和に触れた。戦車、護衛艦、戦闘機の製造にかかわる企業は一千社を超えるが、装備品調達額は一〇年度、ピーク時の六割六千八百億円まで減った。そこで浮上したのが武器輸出である。二十七日の官房長官談話は、一〇年七月に経団連が発表した「新しい武器輸出管理原則」と驚くほど似ている。三原則緩和の裏に、産業界の要求を丸のみする代わりに政権を支えてほしい、そんな思惑がうかがえる。国内で売れない武器を海外で売ろうとするのは、国内で新規建設ができない原発を輸出しようとするのと同じで、はじめに産業界の救済策ありきではないのか(*4)。日本が国際武器市場へ参入することになる三原則緩和は断じて認められない。抑制的な防衛政策を放棄するに等しい官房長官談話の発表は見送るべきだ(*5)。
=================================転載完了
<注釈>
(*1) ソリャ、「平和主義」が憲法の柱の一つだから、日本は「平和国家」ではあろうが、「武器輸出三原則」が「平和国家の看板」とは恐れ入るね。ま、「中身が無い、建前だけ」と言う意味では、看板でもあり、御輿でもあろうが。(*2) 「必ずしも一致しない」には同意する。が、「イスラエルへ輸出されるとアラブ諸国から反目されて日本の中東外交が揺らぐ」には、全く同意できない。米国がイスラエルに供与する武器によりイスラエルから得られる好意に拠って、日本の中東外交は推進できる。方針転換はあるかも知れないが、国益は確保できよう。「アラブ諸国べったり」の外交方針を貫こうとすれば、邪魔かも知れないが。(*3) 無論、足りなくなれば追加調達するだけの話しだろう。(*4) 防衛産業の基盤整備は抑止力だ。「はじめに産業界の救済策ありき」で一体何が悪いんだ。原発輸出はまた話が別だ。我が国は原発を湯種通津可きだし、国内でも新規建設が必要だろう。「脱原発原理主義者」の東京新聞に説いたところで、虚しいが。(*5) 防衛政策の目的は我が国の安全保障だ。それは抑制的でなければならない理由は無い。さらに言えば、我が国の安全保障の為であるならば、「平和国家の看板」なんてものを下ろすのに、何の遠慮が要るものか。
日本人に「伝統的」な軍事忌避の超克
さて、如何であろうか。先に予告したとおり、また各社説のタイトルどおりに、ほぼ予想通りの社説であろう。
「駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人。」などと言う俗諺がある。言わんとする所は、「この世はいろんな人が其々の分担を担って構成されている」であり、駕籠に乗って移動するにしたって、駕籠を担ぐ人は勿論、その担ぎ手の草鞋や駕籠自身を作ったり、或いは街道や標識を整備したり橋をかけたりしている数多の人のお陰でもある、と言う世間知である。
これを捩って言うならば、「鉄砲撃つ人、撃たす人、そのまた鉄砲作る人。」なんて言い方も出来よう。軍隊の装備が刀剣程度であった昔でも刀鍛冶は専門職で、優れた刀剣を作り出す名人刀匠が居たのである。況や鉄砲火砲を経てさらに高度化する現代武器を生産するには、相当な産業基盤が必要なのは道理。さらには、そんな武器を生産し開発できる産業基盤そのものが抑止力たりうるのだから、防衛産業=兵器産業自身のみならず、政府もその産業基盤整備に腐心するのは理の当然である。
「駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人。」などと言う俗諺がある。言わんとする所は、「この世はいろんな人が其々の分担を担って構成されている」であり、駕籠に乗って移動するにしたって、駕籠を担ぐ人は勿論、その担ぎ手の草鞋や駕籠自身を作ったり、或いは街道や標識を整備したり橋をかけたりしている数多の人のお陰でもある、と言う世間知である。
これを捩って言うならば、「鉄砲撃つ人、撃たす人、そのまた鉄砲作る人。」なんて言い方も出来よう。軍隊の装備が刀剣程度であった昔でも刀鍛冶は専門職で、優れた刀剣を作り出す名人刀匠が居たのである。況や鉄砲火砲を経てさらに高度化する現代武器を生産するには、相当な産業基盤が必要なのは道理。さらには、そんな武器を生産し開発できる産業基盤そのものが抑止力たりうるのだから、防衛産業=兵器産業自身のみならず、政府もその産業基盤整備に腐心するのは理の当然である。
であるならば、武器輸出はするのが普通。輸出する相手は当然選ぶし、敵に塩を送る事はあっても、武器を送る事は普通避ける(*1)。武器も工業製品であり商品である以上、「輸出圧力」が掛かるのは、資本主義の当然であろう。
「武器を売って儲ける兵器産業が、戦争を引き起こす」と言うのは共産主義華やかなりし頃特に盛んであった「反資本主義理論」だ。「であるからして、全ての生産手段を国有化する共産主義国家は平和勢力である」と続けるのが常道であった。だが、兵器産業=防衛産業とて霞喰って生きている訳ではないし、利益集団なのだから(*2)、「武器を製造し、売って儲ける」のは当然の経済活動、どころか、会社に拠っては殆ど存在理由だ(*3)。それを「死の商人」などと、そしられる理由は、基本的には無い。
三紙社説を通じて感じるのは、「武器輸出禁止は国是」と言う明快な断言( と、明らかな誤解。以前記事にもした通り、それが「国是」であるならば、その「国是」はとうに、弾道ミサイル防衛が日米共同開発になった時点で修正されている。(*4) )こそ無いものの、「武器輸出」或いは「武器を製造し販売し利益を得ること」に対する忌避感である。それは、「死の商人政策を許すな(琉球新報)」と言う表現に、端的に現れていよう。
その忌避感は、井沢元彦の言う「ケガレ思想」にまで遡る日本人の根源的感覚なのかも知れない。だとすると、これもまた我が国の精神風土の一端と言う事になるのだが、これは時として克服しなければならない我が国の精神風土である、と私は断じる。
どんな時かと言えば、例えば戦時だ。戦争やっているときに、ケガレ思想で軍事忌避なぞ出来様筈がない。実際、我が国の戦時、元寇の蒙古襲来や大東亜戦争(太平洋戦争)の際には斯様な「日本人の軍事忌避傾向」はなりを潜め、或いは影響力を失い、日本人・日本軍は極めて勇猛・勇敢な事で知られている。
で、現状は戦時ではない。論じられているのは、現状の、平時の、武器輸出だ。
だが、我が国は、我が国民は、「伝統的な」軍事忌避傾向に、「ケガレ思想」に、浸っていられる状況だろうか。
私はそうは思わない。
我が国が民主主義を標榜し、曲りなりにも民主主義体制を敷き、国家の安全保障も国防の責任も国民一人ひとりの双肩に掛かっている現状では、「伝統的な」軍事忌避傾向で思考停止しているような「余裕」はない。
況や、中国が東シナ海、南シナ海を「内海」に併呑しようとたくらみ、尖閣諸島から沖縄、ひいては我が本土にまで領土的野心を示しているような現状では、そんな「余裕」は我が国の存亡にも関わる可能性すらある。
従って、今回取り上げた三紙社説のような日本人に「伝統的な」軍事忌避傾向に沿った思考で、武器輸出の是非を考えるべきではない。
考えるべきは我が国の国益。なかんづく安全保障なのである。
「武器を売って儲ける兵器産業が、戦争を引き起こす」と言うのは共産主義華やかなりし頃特に盛んであった「反資本主義理論」だ。「であるからして、全ての生産手段を国有化する共産主義国家は平和勢力である」と続けるのが常道であった。だが、兵器産業=防衛産業とて霞喰って生きている訳ではないし、利益集団なのだから(*2)、「武器を製造し、売って儲ける」のは当然の経済活動、どころか、会社に拠っては殆ど存在理由だ(*3)。それを「死の商人」などと、そしられる理由は、基本的には無い。
三紙社説を通じて感じるのは、「武器輸出禁止は国是」と言う明快な断言( と、明らかな誤解。以前記事にもした通り、それが「国是」であるならば、その「国是」はとうに、弾道ミサイル防衛が日米共同開発になった時点で修正されている。(*4) )こそ無いものの、「武器輸出」或いは「武器を製造し販売し利益を得ること」に対する忌避感である。それは、「死の商人政策を許すな(琉球新報)」と言う表現に、端的に現れていよう。
その忌避感は、井沢元彦の言う「ケガレ思想」にまで遡る日本人の根源的感覚なのかも知れない。だとすると、これもまた我が国の精神風土の一端と言う事になるのだが、これは時として克服しなければならない我が国の精神風土である、と私は断じる。
どんな時かと言えば、例えば戦時だ。戦争やっているときに、ケガレ思想で軍事忌避なぞ出来様筈がない。実際、我が国の戦時、元寇の蒙古襲来や大東亜戦争(太平洋戦争)の際には斯様な「日本人の軍事忌避傾向」はなりを潜め、或いは影響力を失い、日本人・日本軍は極めて勇猛・勇敢な事で知られている。
で、現状は戦時ではない。論じられているのは、現状の、平時の、武器輸出だ。
だが、我が国は、我が国民は、「伝統的な」軍事忌避傾向に、「ケガレ思想」に、浸っていられる状況だろうか。
私はそうは思わない。
我が国が民主主義を標榜し、曲りなりにも民主主義体制を敷き、国家の安全保障も国防の責任も国民一人ひとりの双肩に掛かっている現状では、「伝統的な」軍事忌避傾向で思考停止しているような「余裕」はない。
況や、中国が東シナ海、南シナ海を「内海」に併呑しようとたくらみ、尖閣諸島から沖縄、ひいては我が本土にまで領土的野心を示しているような現状では、そんな「余裕」は我が国の存亡にも関わる可能性すらある。
従って、今回取り上げた三紙社説のような日本人に「伝統的な」軍事忌避傾向に沿った思考で、武器輸出の是非を考えるべきではない。
考えるべきは我が国の国益。なかんづく安全保障なのである。
<注釈>
(*1) 「敵に塩を送る」さえ、世界的・世界史的には珍しい方の事例だろう。が、「敵に塩を送った上杉謙信」を讃える日本の精神風土は、私も愛する所だ。この場合、史実・事実として「上杉謙信が敵に塩を送った」かどうかは殆ど関係ない。「上杉謙信が敵に塩を送った」と言う伝説があり、その伝説が愛されていれば、それで我が国の精神風土を証するには充分だ。(*2) 「防衛産業=兵器産業を国有化し、利益集団でなくせば平和的になる」と言う理屈だが、その結果が中国でありロシアであり、北朝鮮である。なんと「平和的」である事か!(*3) 会社に拠っては「兵器産業は会社の一部門」それもマイナーな一部門にしか過ぎないから、その場合は「存在理由」にはならない。日本の場合殆どの防衛産業が「兼業防衛産業」であるから、「武器を製造し、売って儲ける」のが存在理由である会社は少ない。「片手間防衛産業」である会社も、少なくない。(*4) だから今回は、「平和国家のブランド力(朝日)」「死の商人政策を許すな(琉球新報)」「「平和国家」の看板(東京)」などの言い方になっているものと推定できる。