AFP通信が報じるのは・・・タイトルそのまんまだ。「宗教信者は無理論者を信じない」と言うカナダ・バンクーバー(Vancouver)のブリティッシュ・コロンビア大学(University of British Columbia)博士課程のウィル・ジェルベー(Will Gervais)氏(心理学専攻)の論文。ッて事は、多分、博士論文なのだろう。
 
 私の言いたい事も表題にした通りだ。「当たり前じゃん」。
 
 私は宗教的には典型的な日本人だろう。「宗教は?」と問われれば、殆ど骨がらみといえる土着的宗教である日本神道であるが、土着宗教であるが故にそれを意識する事が少ないぐらいであり、葬式はご多分に漏れず仏教で行われる予定(※1)である。クリスマスには教会には行かないが「ジングルベル」や「聖しこの夜」ぐらいは歌うし、ベートーベンの第9(※2)を聞くと年末を感じつつ厳粛な気持ちになる。教会に行けば十字架の前に頭を垂れ、十字を切り、膝ま付く位の事は平気の平左だし、回教のモスクやヒンズー寺院に入れば(※3)、そこの御神体なり象徴ナリに敬意を表する。「拝むか?」と問われれば、確かに少々抵抗はある(※4)が、拝む真似をするぐらいは礼儀の内と考える。つまり宗教的に相当無節操だ。
 
 だが、「無神論者」とは違う。日本では時に誤解されるのだが、「宗教的に無節操」とは、どの宗教であろうとも相応に敬意を表する事。「無神論」とは「神は死んだ」と決め付けた(※5)ニーチェの様に、「全ての神を信じない」のであるから、どの神であっても敬意なぞ表さないのが基本だ。
 第一我が国は「八百万の神の国」、神国だ。さらには予ねてからの主張どおり、日本人は山や岩のような自然物は愚か、工業製品まで擬人か通り越して擬神化してしまうのだから、神の数は増えこそすれ、トータルでは減らない(※6)。一神教や回教の唯一神ならば「死んだ」と断定するのも、殺すのも、比較的容易であろうが、我が国の神を全滅させるなんて、ニーチェ如きに為せるものかよ。 
 
 従って、「日本人で無神論」と言うのは大概は誤解から来る自称であって、滅多には居ない。その数は、「真の世界市民」ほどには少なくないかも知れないが(※7)、「自称世界市民」よりは遥かに少なかろう。
 
 宗教的に無節操な者が多く、「宗教的に無節操」と「無神論」の違いさえ怪しい日本でさえそうである。キリスト教や回教のような一神教が主流の国では、なおの事無神論者はマイナーであろうし、日本人の感覚としても「何者が、おわしますとは知らねども、忝さに涙こぼるる。」と言う心情は理解しても、「この世に忝いものなど無い」と断言する(※8)無神論者は、大いに胡散臭く思われるだろう。
 
 故に、タイトルにもした通り「宗教信者が無心論者を信用できない」のは「極当たり前の事」であり、言わば常識だ。それを統計を取って、「定量的」に「強姦犯並みに信用できない」と評価するのは、いくらかアカデミックではあるが・・・
 
> ジェルベー氏は「無神論者が団結して目立つような強力な社会グループではないにもかかわらず、
> このような嫌悪感を受けていることは衝撃的だ」と語った。

 
とは、シェルベール氏、心理学専攻の博士課程学生とは言え、世間知らずないし浮世離れが酷すぎないかぁ。
 私は理系の人間だから、心理学専攻の博士論文と言うのがどういうレベルのものか全く判らないが、私ならばこの論文で博士号はやれないだろう。
 
 まあ、それを言うならば、「人文科学が何処まで科学か」と言うのは、私のような理系人間には、今だ解けざる疑問なのであるから、博士論文審査はどうやって実施するものか、見当もつかないのであるが。

<注釈>
 
(※1) 急いで付け加えるならば、まだ当分行われる予定ではない。ま、予定ではあるがね。Mement Mori 
 
(※2) 原語を聞くと判るのだが、第9は可也宗教的、キリスト教的な歌詞なのである。 
 
(※3) まだ、入った事がない事は認めるが。機会がないだけだ。
 
(※4) それは主として、「大して信じても居ないのに、拝んでしまって良いのだろうか。」と言う遠慮から来るのであって、「邪神なぞ拝めるか!」とか「悪霊退散!」とか「悪魔よ去れ!!」と言う感情とは、大分違う。
 
(※5) 「決め付けた」と私が断じるのは、信者が一人でもいる限り、その信者にとって神は「死んではいない」のであるから。ニーチェ自身にとって「神は死んだ」のかも知れないが、その事実が、例えば私や、或いはニーチェ以外の誰かの「神を殺す」事はないのである。言ってみれば「宗教的に無節操」と「無神論」の違いは、「全方位平和外交」と「武装中立」、否、「全面攻撃主義」ぐらいの違いがある。 
 
(※6) 唐傘お化けや、竈の神様は廃ってしまったが・・・
 
(※7) いや、少ないかも知れない。何しろ、直接間接を問わず知った人間に心当たりがない。
 
(※8) 筈である。断言しないようならば、「真の無神論者」ではない。「神は死んだ」と断言できないのだから。当たり前―「宗教信者は無神論者を信じない」って、調査研究しないとわからないようなことかぁ?