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 今回タイトルにした「談志が死んだ」は、相当古いギャグだ。前から読んでも後から読んでも同じ文になる、回文になっているのがミソだが、「ダンスが済んだ」と言う古典的な回文(*1)の一変形であるから、ギャグとしての完成度は高いとはいえないだろう。
 回文と言う言葉遊びは相当歴史が古く、英語でも"Madam, I'm Adam"なんて例が知られているが、日本語・日本ほど普及し広く親しまれている例も稀有だろう(*2)。平仮名と言う「一音一文字で原則読み飛ばし無し」の表音文字であればこそ、回文も作りやすい。濁音や半濁音を文字につける「”(点々)」や「。(丸)」で表記する表記法や、助詞さえ間違えなければ語順が相当自由な文法(*3)も、回文を作りやすくしていよう。だが、何も回文作りやすくするために、文字や表記法や文法を決めるとは思われないから(*4)、日本語の平仮名表記が普及してから、回文と言う言葉遊びは広まったのであろう。ま、それにしたって神代の昔とは言わぬまでも、相当古い話ではあるが。
 
 閑話休題(それはさておき)
 
 タイトルにした回文が、ブラックながらもギャグになっていたのは、立川談志師匠当人が元気で、それこそ「殺しても死にそうに無い」状態だったからだ。だが、Memento mori。神ならぬ定命の者たる人の身、「殺しても死にそうに無い」のは比喩に過ぎず、立川談志師匠が喉頭ガンで亡くなると言う訃報が報じられた。
 
 以前から繰り返して居るとおり、私は芸能ネタはスゴブルつきで苦手だ。最近の流行歌なんざぁ「耳にした」事はあっても「聴いた」事は無いと断言出来てしまうし、別に「聴こう」とも思わない。「聴く」だけの価値は無いとハナッカラ断定しているし、先ずその断定が外れない。それほど「流行に疎い」ないし「流行歌に疎い」のであるし、流行歌が訴えているのであろう主張なりアピールなりが私には全く響かない、と言う事でもある。
 
 だが、そんな私でも、芸能に関わらないでもない。古典落語はそんな私がかかわる数少ない芸能の一つだ。だから立川談誌師匠の訃報に接し、追悼記事を書こうなんて気を起こす。
 
 何しろ立川談志師匠は、古典落語よりもその毒舌や元国会議員と言う経歴で有名ではあるが、私の見る限り正真正銘掛け値なしの天才落語家だったのだから。
 
 何を以って立川談志師匠を天才落語家と断じるかと問われれば、「間(ま)で笑わすことが出来るからだ。」と答えよう。「マシンガントーク」などとも呼ばれる早口・喋くりを売り物にするお笑い芸能人は多い。立川談志師匠はそれも出来るのだが、言葉の弾幕射撃で盛り上げ笑わせる芸よりも、黙って、動作も緩慢で、尚且つ高座の上と言う道具立ても背景も制限された条件で、大笑いさせる事が出来るのだ。
 
 例えば、私が大笑いさせてもらった事例をあげるのならば・・・
 
 落語の「枕」と呼ばれる部分。本編のストーリーとは関係ないが、用語の解説だとか、関連する小話なんかをする、予告編のような部分での事だ。高座に上がった談志師匠。新し物好きで次々新しい物が出てくる当世事情を非難し、自分はもう古い話しかしないと宣言。例えばこんな風だ、と実践する。
 此処から暫く、談志師匠は無言だ。客席も「固唾を呑んで」見守る形。普通の落語の高座だから、音曲も無い。ラジオ放送ならば放送事故になりかねないほどの無言・無音の空間で、談志師匠は煙管に見立てた扇子を燻らす仕草をする。動作一つ一つが緩慢で、いかにも老人と言う風情を醸し出し、やおら口を開く。
 
 「黒船は、もう、帰りましたかねぇ。」
 
 これだけで客席は爆笑。私も腹を抱えて大笑いだ。
 「何故?」と問い詰められると少々困る。新しい物ばかりの当世批判から幕末の黒船へ飛んでしまった意外性と言うのもあろうが、説明として充分とは思わない。その意外性だけでは、ニヤリとするぐらいで、爆笑にはなるまい。
 それが爆笑になってしまうのが、談志師匠の天才たる所以であろう。黙っている時間・「間」で笑わせるというのは、「話芸」ではないかも知れないが、確かに芸であり、それを身につけている談志師匠は、押しも押されもせぬ、確かな芸人なのである。
 
 柳家小さんを師匠としたと言うから、古典落語でも特に正統派の師匠を持った筈だが、真打ち昇進を巡って対立して、「立川(たてかわ)流落語」を創設。自らは「家元」を名乗って後進の育成に当たった。その後進達が活躍しているのだから、芸事で言う「守・破・離」の最終段階「離」の域に達して更なる高みを目指し、それを実現したということだろう。
 
> 「俺は、作品やってんじゃない。落語を使って、てめえを語ってんだ」
 
と語ったと言う談志師匠のエピソードは、その自信の現れだろう。「理想の革命家」と言う事も出来そうだし、反主流とか反体制と言う者はかくあることを目差す可し、とも思う。
 
 そんな天才落語家であり、同時に反骨の落語家でもあった談志師匠だが、近年は病気で高座からも遠ざかっていた。「落語でやる事は全てやった。」と語るインタビューもあったから、「落語家の枠を超える(*5)」どころか「落語を超えた芸能」を目指していたのかも知れない。また、談志師匠なればこそ、そんな新たな芸能の開拓も可能ではないかと思わせたのだが・・・
 
 享年75歳。自らつけていた戒名は、「立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)」。
 
 天才落語家にして理想的革命家、立川談志師匠の霊に、敬礼!
 

<注釈>

(*1) 古典的、とは言っても「ダンス」なんて外来語が入っているから、江戸時代以前と言う事はなさそうだが。
 
(*2) 西欧語圏にも回文マニアは居るそうで、A 17,259 word Palindrome なんて2万語近い回文があるそうだ。が、一般的には英語の回文は日本語の回文より随分短い。タイトルにした「談誌が死んだ」は日本語ではかなり短い回文だ。
 
(*3) 「○○が」と「が」をつければ、文の頭にあろうが尻にあろうが「主語」と判る。
 
(*4) それとも、回文の為に決めたのかな。だとしたら、回文は和歌と同様に深く日本語に根ざしている事になるな。
 
(*5) 国会議員になった落語家と言うのは談誌師匠しかいないそうだ。今の民主党議員なんぞより遥かにマシな落語家が居そうなものだが。