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戦艦・大和と言えば、未だ我が国では戦艦の代名詞である。世間一般では戦艦と軍艦の区別が付かないどころか、戦闘用の艦艇はみんな「戦艦」だと思っていて、軍艦マニアや建艦史研究家を心臓麻痺か脳溢血で殺し兼ねない(*1)人も多いから、大和と言えば「軍艦の代名詞」と言っても、さほど大きな誤りにはなるまい。(*2)
その「日本軍艦中の日本軍艦(断言)」戦艦大和の部品・探照灯の反射鏡が、戦後70年を経て、タイムスリップだのタイムトンネルだの(*3)なんて姑息な技を使うことなく、現代の日本で太陽炉の部品として活用されようとしている、と言うのが引用した時事通信の記事。以下の通り報じられている。
1> 円形の反射板は直径1.5メートル。宮崎県日向市にある東北大学施設に設置された。
2> 反射板の推定価値は1億円以上。
大和の探照灯であるから、当時艦載としては最大にして最高性能の150センチ探照灯に違いない。当時の探照灯だからアーク灯で、アーク灯の反射鏡がどの程度消耗する物か私は知らないが、予備品として製造してあったものか、大和級三番艦「信濃」が空母として建造されたために余った部品と推定できる。それにしても、「産業技術総合研究所(AIST)により、愛知県名古屋市にある施設に保管されていた。」とは言い条、70年前の鏡を、割りも壊しも曇らせもせずに、良くまあ保管保存できたものである。その保管技術と努力に、先ず以って敬意を表するべきだろう。
次いで注目すべきは、その保存されていた70年前の大和の部品・探照灯の反射鏡を以って太陽炉の部品として活用してしまおうと言う、東北大学のモッタイナイ精神と言うか執念と言うか発想の突飛さと言うか・・・着想のユニークさである。
その「日本軍艦中の日本軍艦(断言)」戦艦大和の部品・探照灯の反射鏡が、戦後70年を経て、タイムスリップだのタイムトンネルだの(*3)なんて姑息な技を使うことなく、現代の日本で太陽炉の部品として活用されようとしている、と言うのが引用した時事通信の記事。以下の通り報じられている。
1> 円形の反射板は直径1.5メートル。宮崎県日向市にある東北大学施設に設置された。
2> 反射板の推定価値は1億円以上。
大和の探照灯であるから、当時艦載としては最大にして最高性能の150センチ探照灯に違いない。当時の探照灯だからアーク灯で、アーク灯の反射鏡がどの程度消耗する物か私は知らないが、予備品として製造してあったものか、大和級三番艦「信濃」が空母として建造されたために余った部品と推定できる。それにしても、「産業技術総合研究所(AIST)により、愛知県名古屋市にある施設に保管されていた。」とは言い条、70年前の鏡を、割りも壊しも曇らせもせずに、良くまあ保管保存できたものである。その保管技術と努力に、先ず以って敬意を表するべきだろう。
次いで注目すべきは、その保存されていた70年前の大和の部品・探照灯の反射鏡を以って太陽炉の部品として活用してしまおうと言う、東北大学のモッタイナイ精神と言うか執念と言うか発想の突飛さと言うか・・・着想のユニークさである。
確かに大型の光学部品と言うのは、相当高価なものだ。直径1.5mの凹面鏡(推定。但し、恐らく間違いない。)も新たに作れば相当高価な物である事は間違いない。とは言え、絶対的に手が出ないほどの高価なものではなさそうだし、i-padだの3DSだの3次元テレビだのと新しい物が溢れかえっている現代日本では、70年モノの反射鏡を流用しようなんて発想は普通出て来ないだろう。聊かの邪推を巡らすならば、産業技術総合研究所(AIST)が保管に困って居た所で破格の値段で安価に入手できたのではないか、と考えられる。それにしても東北大の発想か産業技術総合研究所(AIST)の提案かは不明だが、何れにせよ大した物と、言うべきだろう。
3> 太陽炉は、日本海軍発祥の地とされる日向市美々津に設置されている。
4> 伝説によれば、日本初代天皇の神武天皇(Emperor Jinmu)が紀元前7世紀、
5> 東征のため美々津から海軍を出兵したとされている。
6> 英語版の時事サイトによると、小浜教授はなんらかのつながりを感じると述べ、
7> 兵器をエネルギーの平和的利用に転換できることに深く感動していると語ったという。
とも報じられているところからすると「東北大学が大和の部品を招致した」とも読める。少なくとも「結果として大和の部品を伝説的日本海軍発祥の地で太陽エネルギーの平和利用に活用できる事に深く感動している」と明言しており、その感動には私も共鳴を覚える。
何本か記事にもしたが、日本人には独特のアニミズムがある、と私は考えている(*4)。上記6>~7>で東北大学・小浜教授が述べた深い感動も、私が感じた共鳴も、この「日本人独特のアニミズム」が関わっているように思われる。即ち、日本軍艦の一つの頂点としての戦艦大和の魂(*5)が、沈没から70年の時を経て遂に「日本海軍発祥の地」へ還って来たと言う感慨ないし幻想故の「感動」であり「共鳴」なのであるから、これはもうアニミズム抜きでは説明できまい。
無論「思われる」だけである。せいぜいが、勘であり、感情である。科学でもなければ、論理でもない。
だがまあ、宗教、なかんづく骨絡みの宗教とは、そう言うものであろう。
”I believe.
I have never found the way to explain to whom don't believe.” ―映画「ALAMO」より―
であるからして、私は堂々と公言してしまおう。
「諸君、あの大和が還って来た。(*6)」
大和、凱旋。
だがまあ、宗教、なかんづく骨絡みの宗教とは、そう言うものであろう。
”I believe.
I have never found the way to explain to whom don't believe.” ―映画「ALAMO」より―
であるからして、私は堂々と公言してしまおう。
「諸君、あの大和が還って来た。(*6)」
大和、凱旋。
<注釈>
(*1) と言う事は、私を殺し兼ねない、と言う事でもあるのだが・・・(*2) 我田引水、牽強付会、承知の上。大和の前に大和無く。大和の後に大和なし!(*3) 「ワープ(時空跳躍)」ってのは、一寸違うな。(*4) (1)小説「我輩は高速艇である」 http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/31361054.html(2)I am a Speed Boat.-Requiem for the ADY GILL- http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/31519870.html(3)はやぶさの「遺児」生還す。-「遺児」と言うより、意地かな。- http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/32918783.html(*5) 戦艦大和と言う「タダの鉄の塊」に「魂」を見てしまう時点で、立派なアニミズムであるが。(*6) いや、探照灯の反射鏡が、信濃の部品として製造されたのならば、還って来たのは信濃の方か。
(ア.)アニミズムについての一考察
【参考】(5.)後記 アニミズムについての一考察
「有機・無機を問わず全てのものには神が宿る」というアニミズムは、原始的な宗教とされる。木や石、山等の「モノ」を「御神体」として崇めるアニミズムよりも擬人化された「神」を崇める仏教やキリスト教や回教の方が高等であると言う意味と、私は解釈して言う。確かに後者の方が後発の宗教であり、教義や経典が整備され、布教活動が組織化されているのは事実だろう。従って信者信徒を増やしやすいし、それだけ社会的影響力も大きくなる。
だからと言ってアニミズムを「高等宗教」に対する「低劣宗教」と考えるのは誤りではないかと私は考える。宗教はある意味、恋愛に似ている。「当人にとっては大問題」だが、第三者や部外者にとっては「一体何が問題なのかさえわからない。」と言う部分が。アニミズムも宗教であり、原始的であろうが、御神体が人間の形をしていなかろうが、信ずる当人にとっては「有り難い」存在であり、それを原始的だの迷信だのと斬って捨てるのは一種の傲慢だと考えるからだ。「惚れてしまえば痘痕も笑窪」を「あれは痘痕だ」と糾弾するのは、野暮と言うものだろう。(無論場合によるが)
況や「異教徒は皆悪魔の崇拝者だ。」と考える一神教原理主義(一神教には限らないし、一神教徒が皆原理主義ではないが)とは、魂の自由を愛して止まぬ我輩、もとい、私とは相容れぬものがある。
キリスト教や回教や仏教の説教なり説法なりを聞いて感激するのも良いだろうが、例えば真っ白な雪をかぶった山の姿や、昇る朝日の旭光や、満天に輝く星などに「何者が、おはしますかは知らねども、忝さに、涙零るる」ならば、その畏怖心・畏敬心は一種の宗教であり、畏怖心・畏敬心を起こした当人にとっては聖書やコーラン以上の重大事であっても不思議は無い。
長々とアニミズムについて擁護したのは、今回勢いで書き上げてしまった小説「我輩は高速船である」に対する、一種の弁明だ。一読どころか冒頭の一節を読めば明らかな通り、此処では反捕鯨テロ組織シー・シェパードの高速テロ船「アディ・ギル」号(旧名 アースレース号)を擬人化して主人公に据え、船と言うモノに魂を与えている。一種のアニミズムだ。
モノに魂を吹き込み、擬人化するというのは、日本人には極当たり前のことのように思われる。元々日本古来の土着宗教と言うべき神道は「八百万の神」と言うほど神の数が多い多神教で、「竈の神様」から「便所の神様」まで居るのだから、ありとあらゆるモノに神が宿るアニミズムは、日本人の「デファクト・スタンダード」と言える。「神が宿る」と言う意識は無くとも、自分が使う道具や工具、あるいは機械に名前をつけたり、人の如く扱い話しかけたりする事は、日本人として珍しい事ではない。
だからと言ってアニミズムを「高等宗教」に対する「低劣宗教」と考えるのは誤りではないかと私は考える。宗教はある意味、恋愛に似ている。「当人にとっては大問題」だが、第三者や部外者にとっては「一体何が問題なのかさえわからない。」と言う部分が。アニミズムも宗教であり、原始的であろうが、御神体が人間の形をしていなかろうが、信ずる当人にとっては「有り難い」存在であり、それを原始的だの迷信だのと斬って捨てるのは一種の傲慢だと考えるからだ。「惚れてしまえば痘痕も笑窪」を「あれは痘痕だ」と糾弾するのは、野暮と言うものだろう。(無論場合によるが)
況や「異教徒は皆悪魔の崇拝者だ。」と考える一神教原理主義(一神教には限らないし、一神教徒が皆原理主義ではないが)とは、魂の自由を愛して止まぬ我輩、もとい、私とは相容れぬものがある。
キリスト教や回教や仏教の説教なり説法なりを聞いて感激するのも良いだろうが、例えば真っ白な雪をかぶった山の姿や、昇る朝日の旭光や、満天に輝く星などに「何者が、おはしますかは知らねども、忝さに、涙零るる」ならば、その畏怖心・畏敬心は一種の宗教であり、畏怖心・畏敬心を起こした当人にとっては聖書やコーラン以上の重大事であっても不思議は無い。
長々とアニミズムについて擁護したのは、今回勢いで書き上げてしまった小説「我輩は高速船である」に対する、一種の弁明だ。一読どころか冒頭の一節を読めば明らかな通り、此処では反捕鯨テロ組織シー・シェパードの高速テロ船「アディ・ギル」号(旧名 アースレース号)を擬人化して主人公に据え、船と言うモノに魂を与えている。一種のアニミズムだ。
モノに魂を吹き込み、擬人化するというのは、日本人には極当たり前のことのように思われる。元々日本古来の土着宗教と言うべき神道は「八百万の神」と言うほど神の数が多い多神教で、「竈の神様」から「便所の神様」まで居るのだから、ありとあらゆるモノに神が宿るアニミズムは、日本人の「デファクト・スタンダード」と言える。「神が宿る」と言う意識は無くとも、自分が使う道具や工具、あるいは機械に名前をつけたり、人の如く扱い話しかけたりする事は、日本人として珍しい事ではない。
そのアニミズムは、我ら日本人の「勿体無いMottainai」=モノを大事にする心に通じているのではなかろうか。であるならば、ますます「原始的宗教」だの「迷信」だのと、斬って捨てることは避けるべきであるし、日本人が守って行くべき「良き伝統」であろうと考える。
今回の一連の事件で見せた反捕鯨テロ集団シー・シェパードの行動、例えばまだ沈みもしない内に2度も「アディ・ギル号沈没」と声明したり、「海賊行為」としてオランダ法廷に告訴したり、そもそもFRP製船体の高速船で体当たり(*1)したりと言う行動は、「勿体無いMottainai」の対極であり、「環境保護団体」としてあるまじき態度であり、計画倒産ならぬ「計画沈没」の可能性さえ示唆している。
その狂犬シー・シェパードを糾弾する手段として、今は亡き高速船「アースレース」号(通称「アディ・ギル」号)に魂を吹き込み、語らせてみた(*2)のだが、さて、いかがであろうか。
勿論言うまでもないだろうがこの「小説」、構想そのものもタイトルも、夏目漱石の「吾輩は猫である」の二番煎じだ。小説としての価値を夏目漱石などと言う大文豪と争う何て気持ちは、正直無い。
今回の一連の事件で見せた反捕鯨テロ集団シー・シェパードの行動、例えばまだ沈みもしない内に2度も「アディ・ギル号沈没」と声明したり、「海賊行為」としてオランダ法廷に告訴したり、そもそもFRP製船体の高速船で体当たり(*1)したりと言う行動は、「勿体無いMottainai」の対極であり、「環境保護団体」としてあるまじき態度であり、計画倒産ならぬ「計画沈没」の可能性さえ示唆している。
その狂犬シー・シェパードを糾弾する手段として、今は亡き高速船「アースレース」号(通称「アディ・ギル」号)に魂を吹き込み、語らせてみた(*2)のだが、さて、いかがであろうか。
勿論言うまでもないだろうがこの「小説」、構想そのものもタイトルも、夏目漱石の「吾輩は猫である」の二番煎じだ。小説としての価値を夏目漱石などと言う大文豪と争う何て気持ちは、正直無い。
何しろ趣味で書いた小説だ。「売れる/売れない」すら関心の対象外。つまりそれだけ、「真剣みが足らない」小説だろう。
<注釈>
(*1) 一般的に、FRPは金属より衝撃に弱いとされる。金属なら変形して耐えるところも、大破壊してしまうのだ。
(*2) 無論私の勝手な推定が入っていないとは言わない。「バイオディーゼル機関はデリケート」と言うのもそのひとつだ。が、まだ走りの新技術であるし、そう間違っては居ないだろうと思っている。
追伸
Propaganda Busteroことテキサス親父殿が、本件についてシーシェパードを非難し、ついでと言っては何だがアディ・ギル号に黙祷を捧げている。仲々痛快で、一見の価値あり。
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