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 福島原発事故以来の東京新聞の「脱原発」心酔ぶりは、常軌を逸するものがあり、当ブログでも「社説を斬る」シリーズで散々斬りまくっている。
 
(1)「脱原発」の自己目的化-東京新聞社説「上関町長選 原発マネーと別れよう」を斬る!  http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/36039847.html

(2)やっぱり脱原発原理主義-東京社説「原発と社会の倫理」を斬る!  http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/36065678.html  http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/36065834.html 

(3)さらなる自己目的化-東京新聞社説「経団連 脱原発から目をそらすな」を斬る  http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/36048486.html
 
 前回の記事(上記(3))で東京新聞社説は、先頃脱原発を決めたドイツ(*1)を出汁に、「社会倫理で脱原発を決めろ」とも「脱原発を唱えない奴は非国民だ」とも言い出しかねない( 流石に明確に言ってはいない)主張を為した。
 
 今回取り上げる東京社説もまた、同様である。
 

<注釈>

(*1) 外国の原発技術に依存し、外国の電力供給に依存した「脱原発」。その外国はフランスが主であり、フランスの電力は8割が原発に拠るから、ドイツの「脱原発」は、限りなく「公称脱原発」ないし「自称脱原発」である。
 
転載開始========================================= 

東京社説 民の声を恐れよ 脱原発デモと国会

 
 原発の是非をめぐり大規模な集会やデモ、住民投票実施に向けた動きが広がっている。国会にこう訴えかけているのではないか。「民(たみ)の声を恐れよ」と。
 九月十九日、東京・国立競技場に隣接する明治公園で開かれた「さようなら原発五万人集会」。呼び掛け人の一人、作家の大江健三郎さんはこう訴えた。
 「私らは抵抗する意志を持っていることを、想像力を持たない政党幹部とか経団連の実力者たちに思い知らせる必要がある。そのために何ができるか。私らには民主主義の集会、市民のデモしかない。しっかりやりましょう」
◆「お母さん革命」だ
 この集会には主催者発表で約六万人、警視庁の見積もりでも三万人弱が集まったという。
 東京電力福島第一原子力発電所の事故を機に、脱原発を目指す運動は燎原(りょうげん)の火のごとく、全国各地に広がっている。
 子どもたちが学校で受ける放射線量の限度をめぐり、文部科学省が当初設定した年間二〇ミリシーベルトから、一ミリシーベルト以下に引き下げさせたのは、「二〇ミリシーベルトの設定は子どもには高すぎる」と行政に働き掛けた保護者たちだった。
 満身の怒りで国会、政府の無策を訴えた東京大アイソトープ総合センター長の児玉龍彦教授は、原発事故後、子どもの命と健康を守るために立ち上がった市民の動きを「お母さん革命」と表現する。
 原発反対、推進のどちらにも与(くみ)せず、極めて重要な案件は国民一人一人が責任を持って決めるべきだとの立場から、東京や大阪、静岡では原発の是非を問う住民投票実施に向けた動きも始まった。
 自分たちの命や生活にかかわることは自分たちで選択したい。この思いは、国会開設を求めた明治期の自由民権運動にも通底する政治的衝動ではないだろうか。
◆政治過信の果てに
 背景にあるのは「国民の厳粛な信託」(日本国憲法前文)を受けた国民の代表者であるはずの国会が、「国民よりも官僚機構の顔色をうかがって仕事をしているのではないか」という不満だろう。
 代議制民主主義が、選挙で託された国民の思いを正確に読み取り、国民の利害が対立する問題では議会が持つ経験に基づいて調整機能を働かせれば、国民が直接行動しなければという衝動に駆られることもなかった。
 例えば原発建設。地震頻発国のわが国に、なぜここまで多くの原発が造られたのか。安全性をめぐる議論は尽くされたのか。
 国民は素朴な疑問を抱いていたにもかかわらず、国会はそれを軽んじ、官僚と電力会社主導で原発建設が進んだのではないか。深刻な事故後も脱原発に踏み込めないのは、政官財の利権構造を守るためだと疑われても仕方がない。
 増税もそうだ。少子高齢化社会の到来に伴い増大する社会保障費を賄うためには、いずれ消費税を含む増税が不可欠だとしても、その前にやるべき行政の無駄や天下りの根絶は不十分だ。
 難しい課題にこそ与野党が一致して取り組んでほしいと国民が望んでいるのに、霞が関への遠慮からか、遅々として進まない。
 二〇〇九年の衆院選で民主党への政権交代が実現したのは、官僚主導から政治主導への転換に対する期待感からではなかったか。
 その民主党政権が二年間の試行錯誤の末、行き着いたのが結局、官僚との共存路線だった。野田佳彦首相に問いたい。菅前内閣のように官僚を排除する必要はないが、それは国民が民主党に望んだことだったのか、と。
 政治不信といわれて久しいが、むしろ私たちは政治を「過信」していたのではあるまいか。
 選挙は主権者たる国民が主権を行使する唯一の機会だが、選挙後は「どうせ政治は変わらない」と諦めて、声を発しようとしない。そもそも投票する人が減り、あらゆる選挙の投票率は低下傾向にある。そんな「お任せ民主主義」で政治がよくなるわけがない。
 仏革命に影響を与えた十八世紀の哲学者ルソーは社会契約論で「彼ら(イギリスの人民)が自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民はドレイとなり、無に帰してしまう」(岩波文庫版)と英議会制度の欠点を指摘し、直接民主制を主張した。
◆代議制を鍛え直す
 ルソーは代議制の陥穽(かんせい)=落とし穴を言い当てているが、二十一世紀の私たちは選挙後に待ち受ける代議制の落とし穴にはまらず、奴隷となることを拒否したい。
 政策決定を政治家や官僚任せにしないためにも、私たちには「民の声」を発し続ける義務があり、負託を受けた議員は最大限くみ取る。そうした当たり前の作業が代議制を鍛え直す第一歩になる。
=================================転載完了

デモを「民の声」として恐れていたら、日米安保は破棄されていたろう

 さて、如何であろうか
 
 先回記事で私は、「我が国のエネルギー政策の目的は見通せる将来に渡って電力の安定供給である。原発も自然エネルギーも、その目的を達するための手段である。我が国のエネルギー政策を決めるのは、冷徹な論理であるべきで、社会倫理なぞで決めるべきではない。と前回の東京社説を斬った。
 
 今回の東京社説は前回の社会倫理ではなく、「デモ」「民の声」だから脱原発しろと迫っている。それは、先回の社説で「経団連は民の声に従え」と迫ったのとも、以下に引用する「五万人デモ」に於ける主催者たる大江健三郎の発言にもあい通じるものがある。
 
大1> 「私らは抵抗する意志を持っていることを、
大2> 想像力を持たない政党幹部とか経団連の実力者たちに思い知らせる必要がある。
大3> そのために何ができるか。
大4> 私らには民主主義の集会、市民のデモしかない。しっかりやりましょう」
 
 その「あい通じるもの」=東京社説の主張は、以下に引用する当該社説の〆に結実する。
 
1>  政策決定を政治家や官僚任せにしないためにも、
2> 私たちには「民の声」を発し続ける義務があり、
3> 負託を受けた議員は最大限くみ取る。
4> そうした当たり前の作業が代議制を鍛え直す第一歩になる。
 
 早い話が「民の声」としての「脱原発」に「国会・国会議員は従え」である。上記3>の通り国会議員は国民の負託を受けているのだから、「国民の声を聞け」と言うのは一般的には正論である。少なくとも「経団連は経済団体の声ではなく国民の声を聞け」と言う暴論ではない。
 
 さて、チョイと意外に思われるかも知れないが、私は上記1>「政策決定を政治家や官僚任せにしないと言う主張には、賛成である。当ブログで幾つも記事にした通り、私は我が国が民主主義を標榜し、曲りなりにも民主主義体制である事を誇りともし、支持もしている。民主主義にとって衆愚政治は、最も忌む可き宿痾であると断じに、それは国民次第であり、「政策決定を政治家や官僚任せ」にするような国民であっては忽ち衆愚政治化するものと危惧する。而して、一昨年夏の「政権交代」はそんな衆愚政治の一例と考え、それ故に「政権交代」直後には、危うく日本国民と日本の民主主義に絶望しかけたほどである。

 何度も繰り返す通り、民主主義体制下の国民は、国民の選択で政策や方針を決定する必要があるから、「政策決定を政治家や官僚任せにする」様な贅沢は許されない。たとえ間接民主主義で実際の政策決定が国会の議決結果によるものだとしても、その政策決定のプロセスを注視・監視し、議論する必要がある。
 
 故に、我が国のエネルギー政策について、その手段である原発や自然エネルギーなどの発電方法について、大いに議論すべきであることに、異存はないどころか、大賛成である。
 
 と同時に、管直人の延命思いつき「脱原発」宣言にしろ、上記野5万人脱原発デモにしろ、まともにエネルギー政策を議論どころか検討さえも、しているとは思われない。今一世を風靡していると言って良い「脱原発」は、福島原発事故を契機とする原発アレルギーと言ってよいほどの拒否反応≒思考停止であり、それが忌まわしい事に福島差別や福島禁輸さえも惹起している体たらくである。
 
 繰り返しになるが、我が国のエネルギー政策を決めるべきは、冷徹な論理であって、一時の感情に流され移ろいやすくもあれば、怪しげでもある「国民の声」などではない。少なくとも冷徹な論理に基づく冷静な議論もなしに発せられた「国民の声」や世論調査、住民投票結果如きで、10年単位の長期計画になるはずの我が国のエネルギー政策を、決定するべきではない。
 
5>  原発の是非をめぐり大規模な集会やデモ、住民投票実施に向けた動きが広がっている。
6> 国会にこう訴えかけているのではないか。「民(たみ)の声を恐れよ」と。
 
 仰々しく当該社説は始まるが、以下の本文には「原発を是」とする議論理論は全く登場せず反原発一色だ。それが「脱原発原理主義」ならば当然の帰結ではあるが、「脱原発がブームであり盛り上がっている内に政策として固定化してしまおう」と言う意図が透けて見え・・・どころか、以前の東京新聞社説を想起すれば、そうであるに違いない、と私は断言する。
 
 無論、何度も繰り返す通り、私は福島原発事故を経て尚原発推進論者だ。私が原発を今尚推進するのは、それが我が国の電力安定供給に資する所大であると考えるからだ。逆に「再生可能な自然エネルギー」は、現状では水力以外は殆ど電力需要を満たす役には立たず、多分にファッションか自己満足でしかないと断じる。