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 日本人と言うのは、言語学には特異な才能があるのではないか、と考える事がある。
 
 「語学」の上位に位置する(*1)「言語学」に関してだ。「中高一貫6年間英語教育を受けてもロクにしゃべれない。」と言うのが多くの日本人の意識であることは承知しているし、「欧米では3ヶ国語4ヶ国語しゃべれる人間はザラに居る」なんて話もコンプレックスを刺激する。私自身と言えば英語は何とかなるが発音はネイティブには程遠いと承知しているし、ドイツ語ぐらいは片言でナントカするが、フランス語は字面を見て類推するばかり。ロシア語なんざ文字からして違うから暗号解読に近いし、アラビア文字は「昔の日本語横書きのように右から左に書く」と言う事しか知らないし勿論読めない。
 
 私自身がそんなものであるのに上記のように考えるのは、一つには以前記事にもした通り大陸渡来の文字「漢字」を見事に自家薬籠中のものとしてしまった実績であり、もう一つには幕末から明治にかけての文明開花で奔流の様に流入したに違いない西欧文明の知識を、ことごとくと言って良いほど日本語化なかんづく漢字化した事である。
 
猿真似ならず、人真似なり-日本語文字に見る日本人の独創性-  http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/25972179.html
 
 後者の方は独立した記事にはしていないが、「物理」「経済」「人民」「民主主義」「共和国」などなど数多あるから、「中華人民共和国も、朝鮮民主主義人民共和国も、オリジナルなのは「中華」「朝鮮」だけで、残りは全て日本語である。」と言う話はどこかに書いた。
 であるが、そんな輝かしい伝統を持つ日本人の言語学能力が、大いに失われているのではないかと言うのが引用する産経記事。
 
 その切っ掛けが福島原発事故報道だと言うのだから、色んな物の見方があるものだ。
 
 

<注釈>

(*1) と私には思われる。
 
転載開始============================================

社会学者・加藤秀俊 嗚呼、落ちた日本人の造語力よ 

 原発事故の当日だったか翌日だったか、記者会見で政府高官が「モニタリング・ポスト」をうんぬんし、それと前後してべつな高官が「ベント」を指示したとか、しなかったとか、しきりに「ベント」ということばを使用なさっているのをききながら、ああ、これじゃダメだ、とわたしはひそかにおもった。

原発事故でカタカナ語の洪水

 「モニタリング・ポスト」というのは各地に配置された「観測装置」ということである。「ベント」のほうは文脈からアタリをつけて解釈してみたら、どうやら「ベンチレーション」すなわち「排気」あるいは「換気」という英語の略であるらしいことがわかった。英語の語彙数のすくない人間にはなんのことやらわからない。英語を知っていてもカタカナ表記の和製略語になるとよほどの想像力をもってしなければ理解できない。難儀なことである。ここは日本国。説明なさる高官もわれら人民も日本人。日本語でいってちょうだい、といいたくなる。
 この種のわからない英語、というよりもカタカナことばがここ数カ月、まったく必要もないのに続々ととびだしてきた。「トレンチ」というのは溝のこと。こんどのばあいは「暗渠(あんきょ)」ということ。それをアナウンサーはわざわざ「トレンチと呼ばれるトンネル」という。そんならはじめっから「暗渠」といえばいいではないか。バカもいいかげんになさい。
 某高官は「シビア・アクシデント」を連発なさった。「深刻な事故」といえばだれにでもわかるのに、なぜカタカナ語でおっしゃるのか、まことに不審である。「ホール・ボディー・カウンター」というのもあった。カタカナ語だとなにやら特別なもののように錯覚するが、なんのことはない「全身測定器」ということである。
 きわめつきは「ストレス・テスト」つまり「耐久試験」である。それならそれで、さいしょから日本語でそういえばいいのに、なぜ英語でおっしゃるのか、わたしにはこれら高官のカタカナ語愛好癖がどうしても理解できない。

逍遙の「当世書生気質」並み

 夏目漱石がむかし「むやみに片仮名を並べて人に吹聴して得意がった男がごろごろ」していた時代があった、と回顧したのは大正3年。ちょうどいまから1世紀まえのはなしである。おそらく漱石の念頭にあったのは、坪内逍遙が『当世書生気質』に戯画化した明治の学生たちのことだったのだろう。つまり「ウエブストルの大辞典」を片手に、「一巻のブック」を読み、「このフホウミュラ(定式)をアップライ(応用)していいのか。…こないなイージイ(易しい)プロブレム(問題)ができんか」式のカタカナだらけの会話のこと。英語ができるのが自慢でしようがない、そういう文明開化のひとコマだ。いま読んでも、おかしくってしかたない。
 それとおなじ滑稽なことがいまの日本の政府、それも最高指導者諸氏のあいだで発生しているようなのである。要すれば、いまの政治家のカタカナ好きは「当世政治家気質」なのであろうか。「排気」といわずに「ベント」というのがハイカラであり、「溶解」という日本語のかわりに「メルトダウン」をつかうほうが高級だ、という思想がどこかにあるのかもしれぬ。だとしたら噴飯ものだ。

原子力ムラの隠語を借用?

 だが、それだけではあるまい。これらのエラいさんは、記者会見する担当省庁や電力会社の課長さんたちとおなじく、原発関係者の仲間うちだけで通用する業界用語を借用なさっているだけなのではあるまいか。察するに、たぶんあの業界では「暗渠」という「一般用語」をつかわず「トレンチ」という習慣があり、「観測」という日本語をわざわざ回避して「モニタリング」という約束になっているらしいのである。
 やくざ社会では、たとえば駅を「ハコバ」、指を「エンコ」、寿司を「ヤスケ」、しごとを「ゴト」、などという。ご同業仲間だけに通じる隠語である。それとおなじく原子力業界にも隠語があるにちがいない。業界内部のやりとりだけなら、それもよかろうが、その隠語をそのまま政治家や官僚が借用してわれら民衆に解説なさるのはまことに迷惑である。かれらは「業界」を批判しているようで、いつのまにやら、その仲間にひきこまれてしまったのである。ベクレル、シーベルトのたぐいは計測単位だからしかたあるまいが、それ以外のことはどうか日本語でおっしゃっていただきたい。
 学者先生のなかには、どうも日本語では表現できなくて、などとおっしゃるかたがおられるが、あれは知ったかぶりの大ウソである。たいていのことは日本語で表現できるのである。福澤諭吉、西周など明治の先人たちは「哲学」「経済」「主義」「社会」その他もろもろの造語をもふくめて外国語を日本語にするための努力をかさねた。なにが「ストレス・テスト」なものか。わたしの心は憤怒の「ストレス」をうけたのであった。(かとう ひでとし)
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「当世書生気質」と言うより、「ルー大柴語」かな。

 如何であろうか。
 
 ありがちと言えばありがちな論評であろう。「老人の繰言」と聞く人もあるかも知れない。主としてカタカナによる外来語やアルファベットの略語に辟易しているのは社会学者・加藤秀俊氏や老人に限るまいと思うのだが、一方で年を取るほど新語外来語には拒絶反応が強まるのも事実。だが、味読すれば分かるように加藤氏の引用文は「老人の繰言」には終らない。
 
 「老人の繰言」には終らないのは、一つには福島原発事故というホットな話題に絡めたからであり、もう一つには同事故に関わる述語に殊更カタカナ言葉が多用されるのは、専門用語と言うよりは隠語で以って本質を隠蔽し煙に巻こうとしているのではないかと言う疑義を呈しているからである。そこに「ヤクザの隠語」や坪内逍遙の『当世書生気質』を引用できるのは、社会学者・加藤秀俊氏の教養のしからしむる所であろうが、私のような俗物は章題にもしたとおり「ルー大柴」なんて芸人を想起してしまう(*1)。「片言英語交じりの日本語」と言うよりは引用記事に描出されているような「英単語を羅列してちりばめた日本語」である「ルー語」を売り物にしていた芸人だ。尤も、時代劇でNHK大河ドラマ「太平記」に出演し端役ながら(*2)見事こなしていたから、怪異な風貌に似合わず、否、怪異な風貌に負けず劣らず、芸は確からしい。
 
 言い換えれば、ルー大柴はルー語抜きでも見事な演技を見せるプロの芸人であるが、世の「原子力専門家」やら解説者やら原子力「評論家」やら、それに迎合するアナウンサー、キャスターらは、ルー語まがいの隠語臭いカタカナ言葉を連発して煙に巻いている、或いは分かったようなふりをしている、と言うのが加藤氏の痛烈な批判である。
 
 私自身「ベント」なんか散々使っているのだから、加藤氏の非難の的であると考え、反省しなければなるまい。
 
 「必ず、日本語で考える事です。」―映画「Fire Fox」・・・のパクリ―
 

<注釈>

(*1) 急いで付け加えれば、私は何度も書いている通り芸能ネタと言うものが大の苦手なんだが、そんな芸能音痴である私でさえ知っているほどの「ルー大柴」であり、後述の「ルー語」である。そのルー語を以ってCMにも出ていた気もするが・・・・
 
(*2) NHKの時代劇だから、無論「ルー語」は抜きだ。