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 当ブログは、個人のブログとしては相当しつこく「普天間基地移設問題」を追ってきたものと自負している。尤も、追いかけ始めたのは、恐るべき事にも喜ばしい事に前首相である鳩山が、Trust Me!と大見得切りつつオバマ合衆国大統領をペテンにかけた第二回日米首脳会談以来だから、普天間問題ウオッチャーとしては、相当後発の方だろう。
 そこは後発の強みで、本シリーズ開始以来当ブログの主張は殆ど変えることなく、一貫して ① 普天間基地移設問題は、普天間基地に駐屯する米海兵隊をどこに配置するかと言う問題である。 ② 同問題を検討する上で最優先すべき事項は、我が国の安全保障である。 ③ 上記②の視点に立てば、普天間基地に駐屯する米海兵隊を県外に移転するなどと言うのは論外である。鹿児島でさえ遠すぎるのに、グアムやサイパンやテニアンに移転などと言うのは正気の沙汰ではない。 ④ 現行日米合意である辺野古への米海兵隊移設が何らかの理由で出来ない/しないのであれば、普天間基地の継続使用がデフォルト状態である。 と主張してきた。それは最近米国議会で提案されたと言う「嘉手納統合案」なるものが浮上して来ても、なんら変わるところはない。
 
 それ即ち、琉球新報や沖縄タイムス等の、いかに「民意」だろうが「沖縄県民の総意」だろうが、鳩山級の頓珍漢としか思われない主張とは、全く相容れないと言う事である。
 
 ではあるが、否、であるが故に、普天間基地移設問題をめぐる社説は、斬り甲斐が在る。今回取り上げるのは、東京新聞と沖縄タイムス。いずれも表題にした通り、普天間基地移設問題と、福島原発事故に端を発する「反原発」「脱原発」とを絡めている。
 
 予ねて記事にて表明している通り、今以て原発推進論者と自認している当ブログとしては、斬り甲斐もまたひとしおと言う事だ。
 
 先ずは両紙の社説。篤とごろうじよ。
転載開始====================================================================================

東京新聞社説 弱者に押し付ける傲慢 沖縄米軍基地と原発 

 十五日は沖縄返還記念日。復帰後三十九年たつが、在日米軍基地の約75%が集中する現実は変わらない。負担を押し付ける構図は原発と同じではないか。
 米軍普天間飛行場の「最低でも県外」移設を訴えた鳩山由紀夫前首相の「公約破り」から一年。その後も打開の道筋が見えず、民主党政権と沖縄県との溝は深い。
 今月七日、東日本大震災後初めて沖縄県を訪問した北沢俊美防衛相との会談で、仲井真弘多県知事は身を乗り出してこう訴えた。
 「(県外移設は)民主党として総選挙で訴えた公約だ。ぜひ県外ということに取り組んでほしい」
◆自民党と変わらず
 日米両政府は、名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブ沿岸部にV字形滑走路を造る県内移設方針を堅持している。首相が今国会終了後に訪米、米側と最終確認する日程を描く。北沢氏の訪問は、その前に県側の理解を得る狙いだ。
 もともと仲井真氏は条件付きで県内移設を認める立場だが、県外を求める県民感情が高まり、昨年十一月の県知事選告示前に県外を求める姿勢に変えた。県が県内受け入れに再転換するのは至難だ。
 米上院軍事委員会のレビン委員長らが、辺野古案を全面的に見直し、これまでにも検討され、排除されてきた米空軍嘉手納基地への統合案を再び持ち出したのも、辺野古移設の難しさを表している。
 にもかかわらず、北沢氏は「大震災で膨大な支出が予想される。それによって沖縄振興に差し障りがあっては政府と沖縄との関係に齟齬(そご)が生じかねない」として、引き続き沖縄振興予算の確保に尽力する姿勢を強調した。
 重い基地負担に苦しむ沖縄に米軍基地を新たに造ろうとする無神経さといい、その受け入れを沖縄振興という金で迫る手法といい、自民党政権と何ら変わらない。政権交代の意味はどこにあるのか。
◆交付金を「アメ」に
 多くの人が好まない施設を、経済基盤が脆弱(ぜいじゃく)な地域に交付金や雇用、ハコモノなどの「アメ」とともに押し付ける。この構図は沖縄の米軍基地だけでなく、原子力発電所の立地にも共通する。
 安全保障も電力も、国民の生命と財産を守り、暮らしを豊かにするために欠かせない社会インフラであることは、誰しもが認める。
 本来なら、それに伴う負担は、その恩恵に浴する人々が、可能な限り公平に負担すべきだ。しかし、実際はそうなっていないところに問題の本質がある。
 沖縄の過剰な基地負担の上に成り立つ日本全体の安全保障。原発の電力は地元で使われることはなく、多くは人口密集地向けだ。
 民主党政権の公約破りは沖縄県民の、原発事故は福島県民や原発立地他県住民の、なぜ自分たちだけが負担を強いられているのかという不公平感を呼び覚ました。
 こうした地域の労苦は、負担を直接負ってこなかった多くの国民にとって他人事(ひとごと)であり、負担を押し付けることに、あまりにも無神経で傲慢(ごうまん)だったのではないか。
 政府ばかりを批判できない。それを許してきたのは、われわれ国民自身であるからだ。
 弱い立場に立つ人に押し付けて豊かさを享受する生き方を、そろそろ改めた方がいいのだろう。基地問題や原発事故の教訓は、そこにこそ見いだしたい。
 沖縄の米軍基地も原子力発電所も、今すぐに撤去することは現実的でないことは理解する。それにより雇用が生まれ、地域経済に組み込まれているのも事実だ。
 まずは、基地も原発も過渡的な施設と位置付けることから始めたい。その上で、新しい安全保障政策やエネルギー政策を議論し直し、実現のための工程表をしっかりと描かねばならない。
 アジア・太平洋地域の安定に実力組織はどこまで必要で、自衛隊と米軍は役割をどう分担するのか。その維持にはどのような施設が必要で、日本国内にどう配置するのか。その際、一地域に過重な負担を押し付けてはならない。
 また、原発をいつまで維持し続けるのか。新しいエネルギー源開発はどこまで可能か。電力供給に限りがあるのなら、電力に頼る生活の見直しも避けられない。
 国会議員や官僚、専門家だけでなく国民全体が当事者意識を持って議論に積極的に参加すべきだ。さもなくば、基地や原発の問題はいつまでたっても解決しない。
◆県内正当化は慎め
 地元自治体、警察、消防、自衛隊はもちろん、「トモダチ」作戦によって懸命の作業に当たった米軍将兵には感謝したい。人道支援に活動の幅を広げる日米同盟の意義を確認した思いだ。
 だが、この活動をもって普天間の県内移設を正当化しようとする動きには違和感を覚える。被災現場での献身的な活動を政治目的に利用することは厳に慎みたい。

沖縄タイムス社説 [原発と基地]変化見すえ政策転換を

  http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-05-16_17857/
 2011年5月16日 09時10分 
 
 東京電力福島第1原子力発電所の1号機で「メルトダウン」が起きていることが分かった。大量の燃料棒が溶け、圧力容器の底にたまっているという。1号機の原子炉建屋の地下に大量の汚染水がたまっていることも確認された。
 収束の方向に向かっているとみられていた原発事故は、震災から2カ月が過ぎても依然、深刻な状態にある。安定化のめどが立たない。
 政府と電力会社が足並みをそろえて安全性を強調してきた原発政策の結果がこれだ。
 米上院軍事委員会のレビン委員長らは、米軍普天間飛行場の辺野古移設について、沖縄視察の結果を踏まえ、提言を発表した。
 オバマ政権に大きな影響力を持つ議会有力者が、日米両政府の現行計画(辺野古V字形案)を「非現実的」だと、一刀のもとに切って捨てた。
 原発事故と普天間移設に、直接の関係はない。この二つの問題をあえて並べてみたのは、直接的関係がないにもかかわらず、多くの共通点を見いだすことができるからだ。
 原発も米軍基地も国策である。住民にとっては、両施設ともノット・イン・マイ・バックヤード(NIMBY)、自分の裏庭に置かれては困る迷惑施設だ。
 原発や基地を受け入れている自治体に対しては毎年、多額の交付金、補助金が交付される。市町村財政は原発や基地への依存度を高め、それが固定化される。原発や基地は、雇用の場にもなっている。
 住民は、そこから抜け出すことが困難な「がんじがらめの状態」に置かれている。
 住民を「がんじがらめの状態」に留め置くことが国のねらいだ。そのことに最も効果を発揮するのは「おカネ」である。基地建設に協力的な自治体にはカネをじゃぶじゃぶ流し、その自治体が非協力の姿勢に転じると、とたんに蛇口を閉める。「地域主権」も「地方自治」も二の次だ。
 だが、人はカネだけでは動かない。
 国は、原発については「国策」と「安全性」を前面に押し出し、基地については「国策」と「隣国の脅威」「抑止力」「地政学」を前面に掲げてきた。
 原発事故と基地問題の共通点はそれだけではない。国と電力会社と専門家・一部メディアが、「利益共同体」を形成し、原発推進のため圧倒的な影響力を発揮してきた。基地問題にも似たような構図がある。このような構図の下で、安全性に対する疑問の声や、生活に根差した地元の切実な声はかき消された。
 菅直人首相は、中部電力浜岡原発(静岡県御前崎市)のすべての原子炉の運転停止を要請し、会社側もこれを受け入れた。原発の「危機」を、エネルギー政策転換の「機会」に転換してもらいたい。
 基地問題もそうだ。6月に予定されている外務・防衛担当閣僚による日米安全保障協議委員会(2プラス2)が、現行計画を確認する場であってはならない。
 基地や原発の「あり方」を一から見直し、国民的議論の中から、転換期にふさわしい内容を見いだすべきだ。
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