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【東日本大震災】
命の限り叫び続けた 防災放送の女性職員、結婚式控え安否不明 母「頑張ったね」
2011.3.29 13:19
津波に襲われ鉄筋の骨組みだけが残った防災対策庁舎。遠藤未希さんは2階から放送で避難を呼び掛けていた=26日、宮城県南三陸町大きな揺れの後、津波の来襲と高台への避難をひたすら呼び掛け続けた。東日本大震災で、津波に押しつぶされた宮城県南三陸町で防災放送の担当職員だった遠藤未希さん(24)。いまだ安否が分からない。「しっかり頑張ったね。でも、何も命を張ってまで…」。いたわりと無念さに揺れる母親。秋に結婚式を控え、準備を進めていた。
「ないよね」。避難所に張り出された身元不明者、死亡者の特徴を書いた紙を指で追いながら、母親の美恵子さん(53)がつぶやいた。震災から2週間以上が経過し、更新される情報も日に日に少なくなっていく。
震災翌日から2日間はがれきの中を歩き続けた。「見つけられなかった。自分たちの手ではどうしようもなかった」。隣に寄り添う父親の清喜さん(56)はうなだれた。
3階建ての防災対策庁舎は津波にのまれ、赤い鉄筋だけが無残に立ち尽くす。
11日、未希さんは2階で放送していた。「6メートルの津波が来ます。避難してください」。冷静で聞き取りやすい呼び掛けが何度も繰り返された。海岸にいた両親にもその声は届いた。
庁舎に残った職員約30人のうち、助かったのは10人。高台の高校に避難した人からも波にさらわれる職員の姿が見えた。
未希さんは勤続4年目の昨年4月、危機管理課に配属された。介護の仕事に就くことを考えていたが、両親の希望を聞き入れ、町職員を選んだ。
昨年7月に婚姻届を出し、今年9月の披露宴に向け楽しそうに準備していた。景勝地・松島のホテルを早々と予約。昨年12月、初めて衣装合わせをしてみた。「3月にはウエディングドレスの新作が出るの。お母さん一緒に見に行こうね」。そう約束していた。
美恵子さんは「放送が途中で切れた」と知人に聞かされた。最後の方は声が震えていたという。「放送するのに精いっぱいで、逃げられなかったんだろうね。実際は怖かったと思う。母親の私が守ってあげられなくて。申し訳なくて」
町は人口約1万7千人。約8千人の所在が分からず、被害の全容はまだ把握できていない。それでも避難所へ逃げた女性(64)は「あの放送でたくさんの人が助かった。町民のために最後まで責任を全うしてくれたのだから」と思いやった。「『ご苦労さま。ありがとう』という言葉をかけてあげたい」と清喜さんは涙ぐんだ。
「未来の未に、希望の希」。美恵子さんは娘の名前をそう説明した。壊滅した町には新しい電柱が立ち、がれきの間に道が通るようになった。少しずつだが、未来に向けて動き始めている。
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続・敷島の、大和心の雄々しさは・・・東日本大震災 津波に呑まれるまで防災放送を続けた女性職員
北海道は稚内、宗谷岬の北端を望む丘の上に、「9人の乙女の碑」と言うのがある。
大東亜戦争(太平洋戦争)が終結した昭和20年8月15日直前に日ソ中立条約を踏みにじって対日戦を開始したソ連軍は、8月15日以降も戦闘をやめずに侵攻を継続。そのソ連軍が迫る南樺太は真岡( 現在のホルムスク)の郵便局に最後まで踏みとどまり、電話交換業務を遂行し続け、ソ連軍が迫って全員服毒自殺して果てた9人の少女電話交換手たちを悼んで立てられた碑だ。
「氷雪の門」と言う映画にもなったエピソードだが、映画の方は「反ソ的だ」などと言う非難にもならない非難を受けて、公開されることさえ滅多にない幻の映画だ。
「皆さん、これが最後です、さようなら」の通信を最後に自ら命を絶った9人の乙女達は哀れだが、其処に日本的美を見出さない訳には行かない。命果てるまで職務を全うする姿には、「死んでもラッパを放さなかった」日清戦争の木口小平にも通じるものであるし、さらに遡れば、「鳥居州強衛門の磔刑」、「弁慶の立ち往生」にも共通するものである。と同時に、その精神は、21世紀の現代日本にも脈々と活きている様だ。
報じられているのは東日本大震災に於ける宮城県南三陸町で防災放送。職員らが防災庁舎に踏みとどまって防災放送を続け、庁舎ごと津波に呑み込まれ、鉄筋3階建ての建屋は哀れ鉄骨を残すのみ。庁舎内残っていた30人の職員の内10人しか生き残らなかったと言う。
> 「6メートルの津波が来ます。避難してください」。
そう冷静に放送を続けた女性職員・遠藤未希さん(24)も未だ行方不明。この秋に結婚を控えていたそうだが、もはや生死不明と言うよりは、生存は絶望的と考えざるを得ない。
防災放送を続けていたのは3階建て庁舎の2階だそうだから、「6メートルの津波」と言う時点で自身に危険が迫っている事は分かっていた筈。実際の津波は庁舎の3階まで全て呑み込んだ様だから、放送続行を決心した時点で、津波に呑まれる事は逃れようがなかったであろうが・・・
> 「放送が途中で切れた」と知人に聞かされた。最後の方は声が震えていたという。
遠藤美紀さんもまた、真岡郵便局の9人の乙女と同様、最後までその職務を全うし続けた。
新ためて、明治天皇の御製を引用しよう。
敷島の、大和心の雄々しさは、
事あるときぞ、現れにける。
私はジェンダーフリー主義者とは真っ向から対立する者であるが、この御製に読まれた「雄々しさ」が、女性である遠藤未希さんに「現れ」て居る事には、満腔の敬意と共に同意するものである。
それにつけても・・・比肩するさえ憚られるが、鳩山や菅直人の「命がけ」の、なんと軽くて虚しい事か。