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絶対善と言う奴は、仲々気持ちもよければ小気味も良いものである。
何しろ判断基準が明快だ。その明快な基準で是々非々を論じるならば、それこそその論議は快刀乱麻を断つが如く。原則を断固として曲げない頑固さと図々しさがあれば、まず議論に負けるような事はあるまい。
「非武装中立」「核兵器廃絶」「アラー・アクバル」、何だって絶対善に祭り上げてしまえば相当な「主張の強さ」を獲得できる。
但し、それは「主張の強さ」ではあっても必ずしも説得力ではない。何しろ、「頑固さと図々しさ」であり、知的とはいわれないから、絶対善を固持することで論破される事は避けられるが、それは論戦としては防御に徹しているばかり。論破はされないかも知れないが、論破する事もまた難しかろう。
況や私のような捻くれ者は、「絶対善」ってだけで眉に唾つけてしまう。世の中に、そうそう「絶対」な「善」などあるものか、と。如何な行動如何な基準を持って来ようとも、神ならぬ身の人のなす事、善なる面も悪なる面も必ずあるに違いないと、疑ってかかる。それは、全知全能とされる絶対神であろうとも、だ。
全知全能には無理がある http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/30480317.html
http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/30480325.htmlであるならば、世の広い支持を受け、私自身も支持する民主主義とて、絶対善ではありえない。タイトルにした通りである。
1. 民主主義の根源
さて、ここで問題です。
「そもそも、民主主義の根源、根っことは何でしょう。」
「多数決」?残念。そいつは手段であって、根っこじゃぁないね。
「言論の自由」あるいは「思想信条の自由」?確かに悪くはない。が、根源まではもう1歩遡れるのではないか。
私が思うに、民主主義の根源とは「異論・異説に対する寛容・受容」だろう。
「そもそも、民主主義の根源、根っことは何でしょう。」
「多数決」?残念。そいつは手段であって、根っこじゃぁないね。
「言論の自由」あるいは「思想信条の自由」?確かに悪くはない。が、根源まではもう1歩遡れるのではないか。
私が思うに、民主主義の根源とは「異論・異説に対する寛容・受容」だろう。
「私は君の意見には反対だが、君がその意見を言う自由は死んでも守る。」と言うヴォルテールの言葉こそ(*1)、民主主義の根源である。
異論・異説の存在を認め、その存在を排斥せず、保証・肯定する事であり、これあればこそ、議論も議会も思想信条の自由、言論の自由も成り立つのである。(*2)
勿論、自らの持論・自説が在るからこそ「異論・異説」と言う概念が成立するのだから、まず、自分の頭で考えると言うのが大前提(*3)ではある。
民主主義と言う体制は、その体制が完全であれば在るほど、衆愚化した国民・主権者による衆愚政治を避けられないと言う事を、肝に銘じるべきだろう。
さらにいえば、以前に記事にした通り、民主主義と言うのは科学と同様にプロセスなのであり、方法論なのである。
科学と民主主義 http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/27314702.html
<注釈>
(*1) この言葉が、思想信条の自由、言論の自由を直接的には言っている事は認める。
(*2) 「一書に曰く」を連ねた日本書紀の注釈も、五箇条のご誓文の一つ「広く公儀を起こし、万機公論に決すべし。」も、この点では民主主義にあい通じるものがある。
(*3) これを「大前提」として「根源」としなかったのは、これだけでは民主主義は成り立たないから。主権者たる国民が、自らの頭で考える事は、民主主義の必要条件であって、充分条件ではないからだ。
2. 英国海軍に於ける副長の義務
それはさておき・・・・
「副長」と言うと「艦長」に次ぐ地位。(*1)
言うまでもなかろうが、艦内では艦長が最高責任者であるから、艦長に次ぐ艦内ナンバー2の地位にあるのが副長で、普通は一人らしい。
物の本(*2)によると、英国海軍Royal Navyの副長には、「艦長に必ず反論する」義務があるのだと言う。
「艦長に反論できる権限」ではない。「必ず艦長に反論する義務」であるところに注目だ。
繰り返すが艦長は艦内の絶対権力者であるし、海軍は軍隊であるから、艦長の決定には当然副長も従う。それどころか艦長の決定に敵前で反抗したりすれば、軍法に従って銃殺刑が待っている(*3)。だが、決定に至るプロセスで、副長は必ず艦長に反論しなければならない、とされているそうだ。言わんとする所は、艦長とは異なる視点からの検討の義務付けであり、それにより艦長の判断をより深いものとすると共に、バックアッププラン、Plan B(*4)の策定を副長に義務付けるのだろう。
或いは、英王朝に必ず居たと言う「道化」の伝統かも知れない。シェークスピア作「リア王」で有名な「道化」は、絶対王政下の英国国王に対し、冗談に託してとは言え、国王批判を許されていたと言う。「リア王」の道化もまた、冗句に託して悲劇のヒロイン・コーデリアを擁護し、リア王を非難する。聊か間接的であり、隔靴掻痒の観はあるが。事実、悲劇のヒロイン・コーデリアは、悲劇で幕を閉じている。(*5)
英国海軍Royal Navyでは、Yes MannならぬNo Manで在る事を、副長には求められるらしい。より直接的な「道化」たる事が求められると言うのは、いかにも「ユーモアを重視する」とされる、英国らしい。「古き、良き、英国の伝統」かも知れないが。
「一書に曰く(*6)」と言う訳だ。「私の歴史観」観 http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/21076216.html
「一書に曰く」-日本書紀に見る、異説を排さぬ知恵- http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/21306445.html
<注釈>
(*1) これに対し、隊長や司令官に対しては「副官」と言うようである。尤も、幕末の新撰組はなぜか○番「隊長」に「副長」、その下に「副長助勤」がついている。
と言う事は、帝国海軍ならびに海上自衛隊は、新撰組の末裔??
(*2) 実のところ、ブライアン・キャリスン作の海洋冒険小説「無頼船長トラップ」なのであるから、出典に問題なしとはしないが・・・キャリスンは英国海軍勤務の経験もあるし、大嘘ではなかろう。少なくとも、かつての英国海軍では、と言えよう。
(*3) 軍法会議により敵前逃亡、敵前反抗、スパイは銃殺刑と言うのが、グローバルスタンダードだ。
(*4) 「腹案」ってのが普通の日本語訳であろうが・・・誰やらの性で「腹案」の意味には「法螺」とか「ありもしない大嘘」ってニュアンスが強くなってしまったような気がする。
(*5) ま、それを言うならリア王にとっても悲劇ではあるが、リア王の悲劇は自業自得だろう。私には、オセロの悲劇と同様に、全く情状酌量の余地がないように見える。
(*6) 日本最古の歴史書の片割れ、「日本書紀」に付けられていると言う注意書き。「古代日本の歴史編纂者は、上司の記述に反論する事を義務付けられていた。」とは全く断言できないが、少なくとも「全ての異論異説を正史から排する」大陸の「史書」とは大分異なる、とは言える。
3. 絶対善ならぬ、次善の策。
前の前の章では、民主主義の根幹を問い、それは「異論・異説に対する寛容・受容である。」と断じた。
前の章では、一転して英国海軍副長に課せられた、「艦長に反論する義務」について述べた。
さて、「艦長に反論する義務」と言う事は、艦長に対する異論・異説の副長への強制ということだ。
ならば、英国海軍Royal Navyは、海軍を民主的に運営するために、副長に「艦長に反論する義務」を課しているのだろうか。
とてもそうは思えない。
確かに英国は議会制民主主義の大先達ではあるが、英国海軍は軍隊であり、先述の通り、軍隊においては敵前反抗は敵前逃亡と同様に銃殺刑が通り相場。その意味するところは民主主義とはほど遠い、上意下達の徹底に他ならない。実際、戦場に於ける軍隊は、孫子の昔から「兵は拙速」とある通り、反応の速さがものをいう部分があるから、敵を前にして反論したり議論したりしていたら、戦争に負けてしまう。戦争に負けてしまったら、どんな立派な民主主義体制国家も滅びてしまうのだから、民主主義国家とて反応速度を要する敵前の軍隊は、非民主的な意思決定をするのが当たり前だ。
先述の「英国海軍に於ける副長の義務」は、あくまでも艦長の意思決定、判断を下すまでの事だ。あくまでも、副長の「艦長に反論する義務」は、艦長の誤判断を少なくするための方策、と言うことだろう。
「三人寄れば文殊の知恵」と言うが、その3人が三人三様で異なる考え方をするからこその「文殊の知恵」であると言うことだ。
であるならば、
異論異説を許容し、戦場の敵前ではないので議論に時間をかけることが(一応)出来る、民主主義もまた誤判断を減らし、判断を誤った場合は素早く修正出来る体制に違いない。
私がタイトルの通り、民主主義を絶対善ならすも次善とみなし、支持する所以である。
「民主主義は最悪だ。
だが、これ以上の体制はない。」
とは、第2時大戦下に英国首相を務めた(*1)ウインストン・チャーチルの言葉。「最悪だがこれ以上はない。」なんてのは言語矛盾であるが、私には「最悪だ」と断じるのも、「これ以上はない」と断じるのも、充分理解できる気がする。ああ、もう一つ私が民主主義を支持する理由があることを認めなければならないな。
「人間は神よりも偉大だ。
運命を変えられる。」
と言うのは、古い香港映画「狼達の挽歌」の台詞。( だったと思う。)言わんとする所は、運命に逆らい、これを支配しようとするものとしての人間と言う意味だろう。
私もまた、私の運命を、可能な限り支配したいと願う人間である。人によっては(*2)運命に粛々と従う事を以ってよしとするのだろうが、私は御免こうむる。
であるならば、私は政治家ではないが、私の運命の相当部分を握る、我が国の政府を、可能な限り支配したいと願う。
一方で私以外の多くの日本国民も、同様に日本政府に影響力を与えようと願っているものと理解する。であるならば、互いに日本政府と言う権力目指して権力闘争に明け暮れるか、民主主義と言う、最終的には多数決で数がモノを「言ってしまう」のだが、そのプロセスで持論自説と異論異説を討論できる体制を支持する外ない。
私は、我が国の民主主義体制を支持する。
その体制は、世の常で完全ではなく、また先述の通り、民主主義体制は完全であればあるほど衆愚政治に堕しやすい事を承知し、さらには、現・民主党政権の誕生こそ、その衆愚政治の見本であると断じ、嘆きつつ、だ。
Freiheight in der Hand!
自由を、我が手に!!
<注釈>
(*1) で、第2次大戦が終るとほぼ同時に首相の座を追われてしまった。
(*2) 映画によっても、かな。大ロングセラー「ゴッドファーザー」シリーズなんてのは、運命にもてあそばれる人間を描いている・・・らしい。実はまだまともに見ていない。