(3.)「共産主義の悪夢」を考える


 さて、上記の通り私的に概観した「共産主義史」(と言うよりは正確には「ソ連共産党史」かな。最初に政権とった共産党だから仕方ない。)であるが、このままでは表題にした「20世紀の悪夢」との関連が不明確だから、補足説明しておこう。
 
 私が表題の通り共産主義を「20世紀の悪夢」と呼ぶのは、資本主義諸国=自由主義陣営が共産主義陣営の前に敗れ去り、膝を屈し、共産党一党独裁を受け入れるかもしれない、と言う可能性を恐怖したから、ではない。
 それは勿論悪夢と呼ぶに相応しい事態なのではあるが、私が「悪夢」と呼ぶのは、それ以前或いはそれ以降の事態だ。
 「それ以降」と言うのは当然例えば我が国が共産主義陣営の前に膝を屈した場合。私は逆立ちしたって「資本家」と呼ばれるような金満家(*1)でも投資家でも無いが、魂の自由を愛して止まないが故に反共主義、少なくとも私の知る限りの全ての共産党に反対する反共主義者であるし、それを公言して憚らずに来ている。
 世が世なら、「階級の敵」として糾弾され、シベリアなり何なりの「労働キャンプ」に送り込まれるならまだマシな方で、あっさり粛清即ち銃殺なり絞首刑なりにされてしまう可能性が相応にある。何しろ私は先述の通り、以前から「右翼」といわれ続け、保身なり何なりのために共産主義なり共産党に阿るような事はした覚えがないのだから。(*2)

 「それ以前」はより根源的な「悪夢」だ。冷戦華やかなりし頃でも、そして今でも、共産主義やら共産党やらに甘いもしくは阿る輩は、マスコミを中心に枚挙に暇がない。「それ以前」とは、例えば我が自衛隊三軍が武運つたなくソ連軍なり中共軍なりに敗退する以前に、我が国が自ら赤化=共産化してしまうという「悪夢」である。
 「死(トート)よりも赤化(ロート)がマシ」とは、西ドイツ(当時)で唱えられた「容共」と言うよりは敗北主義的スローガンであるが、我が国でも「ソ連軍が攻めて来たら、赤旗と白旗を持って威厳ある降伏をしよう。」等と堂々と抜かす自称「平和主義者」事実上・敗北主義者は掃いて捨てるほどあった。(*3)
 かような「堂々たる降伏」をされては、いかに自衛隊三軍が精強であろうとも、我が国の共産化は止めようがない。正しく「プロパガンダ戦の勝利」であるが、マスコミの影響が今よりも大きく、そのマスコミが偏向している(*4)当時に於いては、東西冷戦と言う背景もあり、一笑に附する事はできない「悪夢」であった。


<注釈>
(*1) 鳩山首相や、小沢一郎とは違ってね。「4億円。預かりました。」なんて金持ちが、「人民解放軍野戦司令官」を称してしまえるのだから、マルクスか毛沢東が聞いたら、何と言うかな。
(*2) 一方で私は魂の自由を愛するものであるから、「私は共産主義には反対だが、共産党がその主張を披露する自由なら、死んでも護る。」と公言してしまう。
 甘さといえば、甘さだが、異論異説への寛容が民主主義の根幹であり、真の民主主義国が最強であると信じ、我が国にそうであって欲しいと望む以上、この「甘さ」は譲れないものがある。
 それだけ、国民と言うものを「信用」している訳だが・・・はて、あんな民主党やそんな社民党を政権与党につけてしまう様では、正直、心許ない。
(*3) ついでに書くなら「和戦2段構え」と称して銃後の勝手な降伏を推奨するJos某は、この亜流に過ぎない。
(*4) マスコミの偏向は今も変わらないが、ネットの発達がある程度の抑止力になっている。中国みたいに、検閲かけたりしなければ、だが。



(4.)「20世紀の悪夢」を超えて

 上記悪夢の根源であった共産主義の内、ソ連を震源とする共産主義は、ベルリンの壁崩壊及びワルシャワ条約機構の解体を経て、20世紀の末に消失ないし大いに減退した。ソ連は解体して幾つかの共和国となり、ロシアはなおその最大部分を継承してはいるが、かつてのソ連軍即ち米軍に拮抗しうる軍事力は有していない。
 代わって台頭してきたのは、「社会主義市場経済」なるキメラを持って経済的な成功を確保しつつ軍備拡張に成功し続けている中国であり、兎に角核兵器だけ何とか完成させて世界を強請ろうという北朝鮮である。前者は共産党一党独裁に未だしがみつき、後者は「共産主義」の看板を外しながらも一党独裁と世襲独裁体制=金王朝の維持に必死である。
 どちらも、特に前者は軍事的に脅威である。それ故に、特に前者に尻尾振って迎合する者は、我が敵・小沢一郎はじめ枚挙に暇がない。現政権にも、マスコミにも、中国人民解放軍野戦軍に編入されていそうな奴はそれこそ腐るほどいそうだ。
 が、にも拘らず共産主義による悪夢は、私にとって冷戦華やかなりし頃、或いは20世紀初頭ほどではない。
 一つには、マルクスが提唱し、レーニンが受け継ぎ、ソ連として結実した共産主義以上の脅威が、政治的にも思想的にも軍事的にも今の中国にはないからである。旅客機ハイジャックしてまで北朝鮮に亡命する者が居た時代に比べて、如何に「経済発展著しい」とは言え、中国に亡命なり永住なりしようと言う日本人がどれほど居るか。
 そりゃ居ない事はないだろうが、ハイジャックしてまでと言う気概なり覚悟なりがあろうか。
 無論、それだけの気概があれば、今ならハイジャックなぞせずとも中国には住めようが。
 
 北朝鮮に至っては論外だ。核弾頭があるかなしかで、高だか数百発の弾道ミサイルとテロリスト以外は殆ど見るべきものがない上・・・・誰が今の日本から、北朝鮮に移住したがるだろうか。
 
 であれば、20世紀の悪夢であった共産主義は、21世紀の現実とならぬように十分な警戒は必要であるものの、「20世紀の悪夢」で終わりそう、終わらせたいと言うのが私の願望である。
 
 だが一方で、どっこい共産主義は生きていると言う説もある。当ブログにコメント頂いた阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)さんは、階級闘争史観を以って「現存共産主義」として、「資本主義の成果を継承した」新しい共産主義 を提唱している。
 「階級闘争史観」と言う時点で私なんかは眉に唾をつけてしまう。支配階級と被支配階級にせよ、資本国家と労働者にせよ、「階級同士が未来永劫シーソーゲームを繰り返す」と言うのは、ヒンズー教の正邪中立神の焼き直しと思えるのもさることながら、「階級同士が闘争している」と思えるような歴史的期間が、日本史にも西洋史にも極短くしか私には取れないからである。
 例えば古代ギリシャの都市国家群は、民主主義の先達にして奴隷制度と並存しており、最終的にはアレクサンダー大王率いるマケドニアに滅ぼされた訳だが、一体どの階級とどの階級が「闘争」していたのか、サッパリ心当たりがない。
  
 さはさりながら。
 資本主義に対するアンチテーゼ或いはコンティンジェンシープラン(凄まじいコンティンジェンシーでない限り選びたくないプランになりそうだが)としての「共産主義」と言う発想は興味がないではない。いわゆる「剰余価値説」は先述の通り、全く信じられないが。
 
 「あの共産主義が最後の共産主義とは思えない。
 第2、第3の共産主義が、現れるだろう。」(*1)


<注釈>
(*1) 初代「ゴジラ」のパクリの筈だが・・・記憶が曖昧だ。パクリになってないかも。