図1:鉄砲隊の構え段数と期待命中数
図2:突撃速度と期待命中数
図2:突撃速度と期待命中数
私が時たま買う( 立ち読みは毎号している)雑誌の一つに、「歴史街道」がある。総アート紙で相当部分がカラーページ。そのためもあって薄い割には値段が高い雑誌ではあるが、ヴィジュアル化された作戦図・配置図などはなかなかわかりやすいし、描かれる人物像も相当魅力的だ。(*1)とは言え、「歴史街道」編集部には申し訳ないかもしれないが、そうしたヴィジュアルな部分ではなく、記事の方に見るべきものがある時は、買う事にしている。
その「歴史街道」最新号で、特集として長篠の合戦を取り上げている。これは「買い」だろう。
その記事を基にして、再び長篠の合戦を考えてみることにした。
長篠合戦を考える http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/30013942.html
その「歴史街道」最新号で、特集として長篠の合戦を取り上げている。これは「買い」だろう。
その記事を基にして、再び長篠の合戦を考えてみることにした。
長篠合戦を考える http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/30013942.html
<注釈>
(*1) 戦国武将が相当「イケメン」なのは、いわゆる「歴女」狙いなのだろうけれど。
(*1) 戦国武将が相当「イケメン」なのは、いわゆる「歴女」狙いなのだろうけれど。
(1.)再計算―長篠の合戦の「冷たい方程式」―
先ずは「歴史街道」最新号を元に、データの修正と行こう。
火縄銃の装填時間は「歴史街道」によると20~25秒であると言うから、前回は15秒としたが、20秒に修正した。
火縄銃の有効射程100mと言うのは「歴史街道」で追認された形だ。
一方騎馬武者の突撃速度は案外遅くて「100mを駆け抜けるのに20秒」と言うから、分速300m。時速にすると18km/h。人間の世界記録の半分であるが、戦場は競技場でも競馬場でも無いし、乗っているのは小柄な騎手ではなく、( 現在の基準からするとやはり小柄かも知れないが)鎧武者である。おまけに馬の方は、日露戦争当時でさえ「馬ではなく、大きなイヌだ。」とロシア兵に馬鹿にされた小型種(*1)である事を勘案すると、妥当と信じ得る数字だろう。
鉄砲の数1000丁や命中率0.5はそのままで、先の記事の計算をやり直すと・・・アラ不思議。割り算が綺麗に割り切れるものだから、何段構えにしようとも、期待できる命中数即ち武田軍に与える損害は一定値に並んでしまう。(図1)
火縄銃の装填時間は「歴史街道」によると20~25秒であると言うから、前回は15秒としたが、20秒に修正した。
火縄銃の有効射程100mと言うのは「歴史街道」で追認された形だ。
一方騎馬武者の突撃速度は案外遅くて「100mを駆け抜けるのに20秒」と言うから、分速300m。時速にすると18km/h。人間の世界記録の半分であるが、戦場は競技場でも競馬場でも無いし、乗っているのは小柄な騎手ではなく、( 現在の基準からするとやはり小柄かも知れないが)鎧武者である。おまけに馬の方は、日露戦争当時でさえ「馬ではなく、大きなイヌだ。」とロシア兵に馬鹿にされた小型種(*1)である事を勘案すると、妥当と信じ得る数字だろう。
鉄砲の数1000丁や命中率0.5はそのままで、先の記事の計算をやり直すと・・・アラ不思議。割り算が綺麗に割り切れるものだから、何段構えにしようとも、期待できる命中数即ち武田軍に与える損害は一定値に並んでしまう。(図1)
<注釈>
(*1) と言うよりも、多分、今の競馬馬=サラブレットと言うのが「速く走る」ことに特化した、特異な状態にあるのだろう。
(*1) と言うよりも、多分、今の競馬馬=サラブレットと言うのが「速く走る」ことに特化した、特異な状態にあるのだろう。
(2.)突撃速度と馬防柵
ところで、件の「歴史街道」に描かれているのは何も上記の鉄砲隊や騎馬隊のデータばかりではない。むしろそちらは「おまけ」であって、より上位の視点、即ち徳川家康、織田信長、武田勝頼の3人の決断に至る経緯と誤算を描き出しているのがこの特集だ。「3段構えの織田鉄砲隊の前に無謀にも突撃し粉砕される武田騎馬軍団。」と言う一般的なイメージは実際とは異なっているというのは、むしろ枝葉末節の議論なのだが、此処ではもう少しその枝葉を追うとしよう。
今回の「歴史街道」に限ったことではないが、「武田騎馬軍団と言うのは正しいイメージではない。」と言うのが今の定説なのだそうである。即ち騎馬武者が一丸となって突撃する、西欧史によく見られる騎兵突撃(*1)のイメージは誤りで、実態は徒歩(かち)の歩兵が突撃の主力であり、騎馬武者は指揮官のみであるそうだ。
いくら指揮官先頭・率先躬行とは言っても指揮官だけ騎馬で突撃する訳には行かないから(*2)、突撃速度は徒歩の歩兵に合わせなければならない。
徒歩の歩兵の突撃速度を、騎馬の突撃速度の半分2.5m/s=9km/hとして先述の式に入れて計算した結果が、図で言うところの「勝頼の目算」。長篠の合戦の当日、織田・徳川連合軍に対する突撃を下知したときの武田勝頼が、覚悟していた( かも知れない(*3))損害数である。例えば「鉄砲1千丁、命中率半分、初弾装填済みとしても期待する命中数は千五百にしか過ぎぬ。ならば、一波二千の突撃をかければ、五百は無傷で辿り着ける!」と言う具合である。
実際の戦場となった設楽が原は、鉄砲1千丁を横並びにできるほど広いところではないそうである一方、防衛線のどこかで局所的にでも優位に立ち、一箇所でも食い破れば、そこから兵を流し込んで突破攻撃、何て事も、武田勝頼は考えていたかも知れない。武田が「騎馬軍団」かどうかは兎も角、その兵の精強さはつとに知られており、特に先代・武田信玄の衣鉢を継ぐと自負していた( であろう)勝頼にしてみれば、己が兵の強さには相当な自信があったであろう事は、「歴史街道」にもいくつかの記事で述べられている通りだ。
だが、現実はさらに厳しかったらしいのもまた、「歴史街道」に描かれている通り。
長篠の合戦で戦場となった設楽が原は、一面に水田が広がり、織田・徳川連合軍が馬防柵を築いて布陣したその前面は水田であったと言う。さらに前日には雨が降り、この水田を流れる川も泥流と化し、水田は現在の水田と異なって深田でもあった。武田勝頼の突撃は、この水田と泥流を押しての突撃となった。当然、突撃速度は落ちる。
どの程度落ちたかは推定による他無いが、人間の普通歩く速度である時速4kmまで落ちたとして、図1はプロットした。
突撃速度は半減しているから、当然損害は倍増している。
さらに、図2に示すのは、突撃速度と期待命中数即ち損害「覚悟」数の関係である。鉄砲隊の段数は一段=一斉射撃と三段をプロットしたが、上述の通り段数による期待命中数は殆ど差異が無いから、2本の線はほぼ重なっている。
図2から、突撃速度の低下に伴って期待命中数=損害「覚悟」数が増大し、「泥濘」になると一波二千ぐらいの突撃は破砕されてしまう事が示されている。また、この増大によって、初弾装填済みによるボーナスP・N( この仮定の中では500)による増加は効果がかすんでしまい、突撃速度低下による損害増加が目立つのも判る。
さらには、馬防柵である。これを壊さない限り、そこから先へは進めない。これを壊す間、突撃はストップする。火薬はあっても、成型炸薬だの工兵爆薬だのなんて便利なものは無かった時代である。馬防柵は人力蓄力、丸太やハンマーやツルハシで壊さないといけない。この馬防柵が、長篠の合戦場には三重に築かれていたと言う。
武田の突撃は、部分的にはこの三重の防衛線の内二つまで破ったと言うから凄まじいが、そこまで。
諸兄御承知の通り、武田勝頼の突撃は破砕され、長篠の合戦は織田信長・徳川家康連合軍の勝利として歴史に記録されている。
<注釈>
(*1) Assaultではなく、Chargeだろうな。
(*2) それこそ、飛んで火に入る夏の虫だ。
(*3) 織田信長が用意した鉄砲の総数を知りえたかと言うと、相当疑問である。
今回の「歴史街道」に限ったことではないが、「武田騎馬軍団と言うのは正しいイメージではない。」と言うのが今の定説なのだそうである。即ち騎馬武者が一丸となって突撃する、西欧史によく見られる騎兵突撃(*1)のイメージは誤りで、実態は徒歩(かち)の歩兵が突撃の主力であり、騎馬武者は指揮官のみであるそうだ。
いくら指揮官先頭・率先躬行とは言っても指揮官だけ騎馬で突撃する訳には行かないから(*2)、突撃速度は徒歩の歩兵に合わせなければならない。
徒歩の歩兵の突撃速度を、騎馬の突撃速度の半分2.5m/s=9km/hとして先述の式に入れて計算した結果が、図で言うところの「勝頼の目算」。長篠の合戦の当日、織田・徳川連合軍に対する突撃を下知したときの武田勝頼が、覚悟していた( かも知れない(*3))損害数である。例えば「鉄砲1千丁、命中率半分、初弾装填済みとしても期待する命中数は千五百にしか過ぎぬ。ならば、一波二千の突撃をかければ、五百は無傷で辿り着ける!」と言う具合である。
実際の戦場となった設楽が原は、鉄砲1千丁を横並びにできるほど広いところではないそうである一方、防衛線のどこかで局所的にでも優位に立ち、一箇所でも食い破れば、そこから兵を流し込んで突破攻撃、何て事も、武田勝頼は考えていたかも知れない。武田が「騎馬軍団」かどうかは兎も角、その兵の精強さはつとに知られており、特に先代・武田信玄の衣鉢を継ぐと自負していた( であろう)勝頼にしてみれば、己が兵の強さには相当な自信があったであろう事は、「歴史街道」にもいくつかの記事で述べられている通りだ。
だが、現実はさらに厳しかったらしいのもまた、「歴史街道」に描かれている通り。
長篠の合戦で戦場となった設楽が原は、一面に水田が広がり、織田・徳川連合軍が馬防柵を築いて布陣したその前面は水田であったと言う。さらに前日には雨が降り、この水田を流れる川も泥流と化し、水田は現在の水田と異なって深田でもあった。武田勝頼の突撃は、この水田と泥流を押しての突撃となった。当然、突撃速度は落ちる。
どの程度落ちたかは推定による他無いが、人間の普通歩く速度である時速4kmまで落ちたとして、図1はプロットした。
突撃速度は半減しているから、当然損害は倍増している。
さらに、図2に示すのは、突撃速度と期待命中数即ち損害「覚悟」数の関係である。鉄砲隊の段数は一段=一斉射撃と三段をプロットしたが、上述の通り段数による期待命中数は殆ど差異が無いから、2本の線はほぼ重なっている。
図2から、突撃速度の低下に伴って期待命中数=損害「覚悟」数が増大し、「泥濘」になると一波二千ぐらいの突撃は破砕されてしまう事が示されている。また、この増大によって、初弾装填済みによるボーナスP・N( この仮定の中では500)による増加は効果がかすんでしまい、突撃速度低下による損害増加が目立つのも判る。
さらには、馬防柵である。これを壊さない限り、そこから先へは進めない。これを壊す間、突撃はストップする。火薬はあっても、成型炸薬だの工兵爆薬だのなんて便利なものは無かった時代である。馬防柵は人力蓄力、丸太やハンマーやツルハシで壊さないといけない。この馬防柵が、長篠の合戦場には三重に築かれていたと言う。
武田の突撃は、部分的にはこの三重の防衛線の内二つまで破ったと言うから凄まじいが、そこまで。
諸兄御承知の通り、武田勝頼の突撃は破砕され、長篠の合戦は織田信長・徳川家康連合軍の勝利として歴史に記録されている。
<注釈>
(*1) Assaultではなく、Chargeだろうな。
(*2) それこそ、飛んで火に入る夏の虫だ。
(*3) 織田信長が用意した鉄砲の総数を知りえたかと言うと、相当疑問である。
(3.)戦略的敗北は戦術的勝利では補えない
「歴史街道」最新号は、この長篠の合戦=武田軍の敗退をクライマックスに、そこに至る背景を、信長、勝頼、家康それぞれの思惑と決断を絡めて描き出している。「描き出している」と言うことは、それだけ小説的或いは映画的であり、学術的では無いということなのだが、「歴史と言うのは史実と言う側面ばかりではなく、民族の物語という側面を持つ」と考えている私のような人間にとっては物語性も大いに意義がある。
歴史学者が扱う歴史と、歴史マニアが扱う歴史では、扱い方に差異があって当たり前である。その学者だって政治が絡めば、先の「日中共同歴史研究」の如く、学問の自由を一党独裁政権に売り渡して恬として恥じるところが無いのであるから、世の中、浜の真砂は尽きるとも、曲学阿世の徒には事欠かないのである。
閑話休題(それはさておき)、
先行する記事と前の項で示した通り、鉄砲隊が何段構えであるかは武田軍団の突撃を破砕する上で殆ど役割を果たさず、鉄砲の総数Nと命中率Pがものを言う。
初弾装填済みのボーナスP・Nは効果が無いわけではないが、突撃速度低下の効果の前には霞んでしまう。
と言うことは、そんな遅い突撃速度しか出せないような処には、突撃しないに限るのである。
「馬防柵」と言う言葉は当時まだ無かったそうだが、野戦築城を意味する「陣城」と言う言葉あったそうで、信長・家康連合軍が武田軍に包囲された長篠城救援に駆けつけず、少し離れた設楽が原にこの「陣城」を築き、「馬防柵」と組み合わせて、「勝てはしない(*1)が絶対に負けない」布陣を敷いた。
勝頼の側から見れば、そんな鉄壁(*2)の布陣に突撃何ぞかけずに済むならそうしたいところだ。
長篠城がさっさと落城していればその必要は無かったろう。勝頼は長篠城と言う拠点を得て、悠々と退却だって出来た筈だ。
が、長篠城は頑強に抵抗し、鳥居強右衛門は一命をかけて長篠城守備隊に信長・家康連合軍の来援を告げた。さらには家康配下の酒井忠次率いる別働隊が勝頼の背後を扼し、未だ落城せぬ長篠城共々、勝頼の東方への退路を脅かすに至り、目の前に布陣した信長・家康の大軍を俄かには追撃に移れぬほど痛撃しない事には、甲斐本国への帰還さえ危うくなった。
勝頼には、信長・家康連合軍に対する勝利が必要になり、連合軍が陣城から出てこない以上、陣城に対する突撃は、必須となってしまった。戦略的に、そういう状況に追い込まれてしまったのである。
閑話休題(それはさておき)、
先行する記事と前の項で示した通り、鉄砲隊が何段構えであるかは武田軍団の突撃を破砕する上で殆ど役割を果たさず、鉄砲の総数Nと命中率Pがものを言う。
初弾装填済みのボーナスP・Nは効果が無いわけではないが、突撃速度低下の効果の前には霞んでしまう。
と言うことは、そんな遅い突撃速度しか出せないような処には、突撃しないに限るのである。
「馬防柵」と言う言葉は当時まだ無かったそうだが、野戦築城を意味する「陣城」と言う言葉あったそうで、信長・家康連合軍が武田軍に包囲された長篠城救援に駆けつけず、少し離れた設楽が原にこの「陣城」を築き、「馬防柵」と組み合わせて、「勝てはしない(*1)が絶対に負けない」布陣を敷いた。
勝頼の側から見れば、そんな鉄壁(*2)の布陣に突撃何ぞかけずに済むならそうしたいところだ。
長篠城がさっさと落城していればその必要は無かったろう。勝頼は長篠城と言う拠点を得て、悠々と退却だって出来た筈だ。
が、長篠城は頑強に抵抗し、鳥居強右衛門は一命をかけて長篠城守備隊に信長・家康連合軍の来援を告げた。さらには家康配下の酒井忠次率いる別働隊が勝頼の背後を扼し、未だ落城せぬ長篠城共々、勝頼の東方への退路を脅かすに至り、目の前に布陣した信長・家康の大軍を俄かには追撃に移れぬほど痛撃しない事には、甲斐本国への帰還さえ危うくなった。
勝頼には、信長・家康連合軍に対する勝利が必要になり、連合軍が陣城から出てこない以上、陣城に対する突撃は、必須となってしまった。戦略的に、そういう状況に追い込まれてしまったのである。
この時点で、不利な状況での決戦を強いられた勝頼は、戦略的に敗北していると言える。
<注釈>
(*1) 武田に包囲されている長篠城を直接救援できないから。
(*2) どれぐらい鉄壁かは、見誤ったとしても。何しろ陣城は兎も角、「馬防柵」は初めて見たらしいのだから。
(*1) 武田に包囲されている長篠城を直接救援できないから。
(*2) どれぐらい鉄壁かは、見誤ったとしても。何しろ陣城は兎も角、「馬防柵」は初めて見たらしいのだから。
(4.)「歴史って素敵!」
勝頼には「勝てる見込み」が相応にあったろうと、「歴史街道」の記事は伝える。世上言われているような慢心ばかりでなく、信長・家康連合軍の「設楽が原」に陣城を築くと言う消極策があり、信長配下の佐久間信盛が武田側に寝返ると言う欺瞞情報が流されたと言う説もあり、配下武将と武田軍団に対する自信がある。と。
歴史上の登場人物たちの心情・真情なんてものは、なかなか文章としては残らないから、資料至上主義を取る学者センセイ方には往々にして無視ないし極めて軽視されてしまうものである。が、そこを補うのが歴史小説であり、想像力である。
無論、時代背景は考慮しなければならない。現在の常識は過去では常識ではないものもあるし、逆に現在の非常識が過去の常識であるものもある。
一方で、特に我が国の歴史、国史と言う観点からすれば、縄文人だろうが弥生人だろうが日本人であり、日本と言う国土風土の影響を受け、恐らくは現代の日本語とさして変わらない(*1)日本語を使っていたのであり、共通し、共感できる部分も多々あるに違いない。
であるならば、
長篠の合戦を巡る、武田勝頼、織田信長、徳川家康、或いは鳥居強右衛門の心情、逡巡や決断に思いをめぐらすことは、単なる知的ゲーム以上の価値があり、一種の( 学者センセイ方では返って困難な)歴史探求でもありうると考えるが、如何であろうか。
「昨日を知らなければ、明日は今日の繰り返しでしかない。」―映画「サラフィナ」より―
歴史上の登場人物たちの心情・真情なんてものは、なかなか文章としては残らないから、資料至上主義を取る学者センセイ方には往々にして無視ないし極めて軽視されてしまうものである。が、そこを補うのが歴史小説であり、想像力である。
無論、時代背景は考慮しなければならない。現在の常識は過去では常識ではないものもあるし、逆に現在の非常識が過去の常識であるものもある。
一方で、特に我が国の歴史、国史と言う観点からすれば、縄文人だろうが弥生人だろうが日本人であり、日本と言う国土風土の影響を受け、恐らくは現代の日本語とさして変わらない(*1)日本語を使っていたのであり、共通し、共感できる部分も多々あるに違いない。
であるならば、
長篠の合戦を巡る、武田勝頼、織田信長、徳川家康、或いは鳥居強右衛門の心情、逡巡や決断に思いをめぐらすことは、単なる知的ゲーム以上の価値があり、一種の( 学者センセイ方では返って困難な)歴史探求でもありうると考えるが、如何であろうか。
「昨日を知らなければ、明日は今日の繰り返しでしかない。」―映画「サラフィナ」より―
<注釈>
(*1) フランス語もイタリア語もドイツ語も、さらに英語も、元は同じ言葉である。が、特にフランス語の発音は独特であり、音声で「元は共通の言語」と認識するのは相当困難である。
それに比べれば、現代日本語にも相当な大和言葉が残っており、共通性は高い。
文字導入以前の言葉については、文字通り文献が皆無なので断言は出来ないが、漢字が導入されても確固たる大和言葉が残っていることが、状況証拠あるいは傍証にはなるだろう。
(*1) フランス語もイタリア語もドイツ語も、さらに英語も、元は同じ言葉である。が、特にフランス語の発音は独特であり、音声で「元は共通の言語」と認識するのは相当困難である。
それに比べれば、現代日本語にも相当な大和言葉が残っており、共通性は高い。
文字導入以前の言葉については、文字通り文献が皆無なので断言は出来ないが、漢字が導入されても確固たる大和言葉が残っていることが、状況証拠あるいは傍証にはなるだろう。