(5.)後記 アニミズムについての一考察
「有機・無機を問わず全てのものには神が宿る」というアニミズムは、原始的な宗教とされる。木や石、山等の「モノ」を「御神体」として崇めるアニミズムよりも擬人化された「神」を崇める仏教やキリスト教や回教の方が高等であると言う意味と、私は解釈して言う。確かに後者の方が後発の宗教であり、教義や経典が整備され、布教活動が組織化されているのは事実だろう。従って信者信徒を増やしやすいし、それだけ社会的影響力も大きくなる。
だからと言ってアニミズムを「高等宗教」に対する「低劣宗教」と考えるのは誤りではないかと私は考える。宗教はある意味、恋愛に似ている。「当人にとっては大問題」だが、第三者や部外者にとっては「一体何が問題なのかさえわからない。」と言う部分が。アニミズムも宗教であり、原始的であろうが、御神体が人間の形をしていなかろうが、信ずる当人にとっては「有り難い」存在であり、それを原始的だの迷信だのと斬って捨てるのは一種の傲慢だと考えるからだ。「惚れてしまえば痘痕も笑窪」を「あれは痘痕だ」と糾弾するのは、野暮と言うものだろう。(無論場合によるが)
況や「異教徒は皆悪魔の崇拝者だ。」と考える一神教原理主義(一神教には限らないし、一神教徒が皆原理主義ではないが)とは、魂の自由を愛して止まぬ我輩、もとい、私とは相容れぬものがある。
キリスト教や回教や仏教の説教なり説法なりを聞いて感激するのも良いだろうが、例えば真っ白な雪をかぶった山の姿や、昇る朝日の旭光や、満天に輝く星などに「何者が、おはしますかは知らねども、忝さに、涙零るる」ならば、その畏怖心・畏敬心は一種の宗教であり、畏怖心・畏敬心を起こした当人にとっては聖書やコーラン以上の重大事であっても不思議は無い。
長々とアニミズムについて擁護したのは、今回勢いで書き上げてしまった小説「我輩は高速船である」に対する、一種の弁明だ。一読どころか冒頭の一節を読めば明らかな通り、此処では反捕鯨テロ組織シー・シェパードの高速テロ船「アディ・ギル」号(旧名 アースレース号)を擬人化して主人公に据え、船と言うモノに魂を与えている。一種のアニミズムだ。
モノに魂を吹き込み、擬人化するというのは、日本人には極当たり前のことのように思われる。元々日本古来の土着宗教と言うべき神道は「八百万の神」と言うほど神の数が多い多神教で、「竈の神様」から「便所の神様」まで居るのだから、ありとあらゆるモノに神が宿るアニミズムは、日本人の「デファクト・スタンダード」と言える。「神が宿る」と言う意識は無くとも、自分が使う道具や工具、あるいは機械に名前をつけたり、人の如く扱い話しかけたりする事は、日本人として珍しい事ではない。
だからと言ってアニミズムを「高等宗教」に対する「低劣宗教」と考えるのは誤りではないかと私は考える。宗教はある意味、恋愛に似ている。「当人にとっては大問題」だが、第三者や部外者にとっては「一体何が問題なのかさえわからない。」と言う部分が。アニミズムも宗教であり、原始的であろうが、御神体が人間の形をしていなかろうが、信ずる当人にとっては「有り難い」存在であり、それを原始的だの迷信だのと斬って捨てるのは一種の傲慢だと考えるからだ。「惚れてしまえば痘痕も笑窪」を「あれは痘痕だ」と糾弾するのは、野暮と言うものだろう。(無論場合によるが)
況や「異教徒は皆悪魔の崇拝者だ。」と考える一神教原理主義(一神教には限らないし、一神教徒が皆原理主義ではないが)とは、魂の自由を愛して止まぬ我輩、もとい、私とは相容れぬものがある。
キリスト教や回教や仏教の説教なり説法なりを聞いて感激するのも良いだろうが、例えば真っ白な雪をかぶった山の姿や、昇る朝日の旭光や、満天に輝く星などに「何者が、おはしますかは知らねども、忝さに、涙零るる」ならば、その畏怖心・畏敬心は一種の宗教であり、畏怖心・畏敬心を起こした当人にとっては聖書やコーラン以上の重大事であっても不思議は無い。
長々とアニミズムについて擁護したのは、今回勢いで書き上げてしまった小説「我輩は高速船である」に対する、一種の弁明だ。一読どころか冒頭の一節を読めば明らかな通り、此処では反捕鯨テロ組織シー・シェパードの高速テロ船「アディ・ギル」号(旧名 アースレース号)を擬人化して主人公に据え、船と言うモノに魂を与えている。一種のアニミズムだ。
モノに魂を吹き込み、擬人化するというのは、日本人には極当たり前のことのように思われる。元々日本古来の土着宗教と言うべき神道は「八百万の神」と言うほど神の数が多い多神教で、「竈の神様」から「便所の神様」まで居るのだから、ありとあらゆるモノに神が宿るアニミズムは、日本人の「デファクト・スタンダード」と言える。「神が宿る」と言う意識は無くとも、自分が使う道具や工具、あるいは機械に名前をつけたり、人の如く扱い話しかけたりする事は、日本人として珍しい事ではない。
そのアニミズムは、我ら日本人の「勿体無いMottainai」=モノを大事にする心に通じているのではなかろうか。であるならば、ますます「原始的宗教」だの「迷信」だのと、斬って捨てることは避けるべきであるし、日本人が守って行くべき「良き伝統」であろうと考える。
今回の一連の事件で見せた反捕鯨テロ集団シー・シェパードの行動、例えばまだ沈みもしない内に2度も「アディ・ギル号沈没」と声明したり、「海賊行為」としてオランダ法廷に告訴したり、そもそもFRP製船体の高速船で体当たり(*1)したりと言う行動は、「勿体無いMottainai」の対極であり、「環境保護団体」としてあるまじき態度であり、計画倒産ならぬ「計画沈没」の可能性さえ示唆している。
その狂犬シー・シェパードを糾弾する手段として、今は亡き高速船「アースレース」号(通称「アディ・ギル」号)に魂を吹き込み、語らせてみた(*2)のだが、さて、いかがであろうか。
勿論言うまでもないだろうがこの「小説」、構想そのものもタイトルも、夏目漱石の「吾輩は猫である」の二番煎じだ。小説としての価値を夏目漱石などと言う大文豪と争う何て気持ちは、正直無い。
今回の一連の事件で見せた反捕鯨テロ集団シー・シェパードの行動、例えばまだ沈みもしない内に2度も「アディ・ギル号沈没」と声明したり、「海賊行為」としてオランダ法廷に告訴したり、そもそもFRP製船体の高速船で体当たり(*1)したりと言う行動は、「勿体無いMottainai」の対極であり、「環境保護団体」としてあるまじき態度であり、計画倒産ならぬ「計画沈没」の可能性さえ示唆している。
その狂犬シー・シェパードを糾弾する手段として、今は亡き高速船「アースレース」号(通称「アディ・ギル」号)に魂を吹き込み、語らせてみた(*2)のだが、さて、いかがであろうか。
勿論言うまでもないだろうがこの「小説」、構想そのものもタイトルも、夏目漱石の「吾輩は猫である」の二番煎じだ。小説としての価値を夏目漱石などと言う大文豪と争う何て気持ちは、正直無い。
何しろ趣味で書いた小説だ。「売れる/売れない」すら関心の対象外。つまりそれだけ、「真剣みが足らない」小説だろう。
<注釈>
(*1) 一般的に、FRPは金属より衝撃に弱いとされる。金属なら変形して耐えるところも、大破壊してしまうのだ。
(*2) 無論私の勝手な推定が入っていないとは言わない。「バイオディーゼル機関はデリケート」と言うのもそのひとつだ。が、まだ走りの新技術であるし、そう間違っては居ないだろうと思っている。
(*1) 一般的に、FRPは金属より衝撃に弱いとされる。金属なら変形して耐えるところも、大破壊してしまうのだ。
(*2) 無論私の勝手な推定が入っていないとは言わない。「バイオディーゼル機関はデリケート」と言うのもそのひとつだ。が、まだ走りの新技術であるし、そう間違っては居ないだろうと思っている。
追伸
Propaganda Busteroことテキサス親父殿が、本件についてシーシェパードを非難し、ついでと言っては何だがアディ・ギル号に黙祷を捧げている。仲々痛快で、一見の価値あり。
Propaganda Busteroことテキサス親父殿が、本件についてシーシェパードを非難し、ついでと言っては何だがアディ・ギル号に黙祷を捧げている。仲々痛快で、一見の価値あり。