3.全知にして全能であっても出来ない事、やらない事は何か?
以上述べてきたとおり、
(1) 全知全能神がその予め定めたルール(因果律、物理法則、化学法則)を破ってその全能性を発揮する事は滅多にない。
(2) 全知全能を標榜する唯一絶対神が複数の宗教に分かれて存在する以上、真に全能なのは、その中のたった一柱である。
さらにはこの世、この世の中でも太陽系第三惑星地球の地表面と言う極限られた範囲にその大半が存在する人類と言う高々個体数50億程の生命体の中でさえも、その思想・言動・行動は多種多様であり、私が今現在しているように唯一絶対神の全能性にいちゃもんをつける奴も居る。
中には当然唯一絶対神の神のお怒りに触れる者もあるだろう。その中には雷に打たれるなり新型インフルエンザにかかるなりして命を落す者も居るかも知れない。
が、全知にして全能なのであれば、何も「神をも恐れぬ所業」を待って現行犯逮捕するまでもなく、そもそもそんな所業を起こさせない、起こす気を起こさせない事が出来る筈だ。そうでなければ「全知全能」とは言われまい。
さて、私のこの記事が「神をも恐れぬ所業」かどうかは兎も角、「神をも恐れぬ所業」が実際にある、ありうるのに対し全知全能神がその実行を阻止しないということは、定命の者の浅知恵では、以下のどれかぐらいしか考え付かない。
(1) 全知全能神は「神をも恐れぬ所業」をなす者を見落とした。つまり「完全に全知」ではない。或いは監視を怠っていた。
(2) 全知全能神は「神をも恐れぬ所業」をなす者を罰する事で見せしめとすることを選んだ。即ち全能による「神をも恐れぬ所業」の阻止よりも、見せしめによる抑止効果を選んだ。この場合「神をも恐れぬ所業」をなした者は、はっきりと厳罰に処さなければならない。「長寿を全うした後で地獄送り」では見せしめにならない。
(3) 「神をも恐れぬ所業」をなす者は、予め全知全能神によって「神をも恐れぬ所業」をなす事が予定されていた。即ち「神をも恐れぬ所業」をなす事がその者に課せられた「神の御意思」である。
(4) 神の御心は人間なぞには計り知れない(と諦めて理論付ける事を放棄してしまう。)
(1) 全知全能神がその予め定めたルール(因果律、物理法則、化学法則)を破ってその全能性を発揮する事は滅多にない。
(2) 全知全能を標榜する唯一絶対神が複数の宗教に分かれて存在する以上、真に全能なのは、その中のたった一柱である。
さらにはこの世、この世の中でも太陽系第三惑星地球の地表面と言う極限られた範囲にその大半が存在する人類と言う高々個体数50億程の生命体の中でさえも、その思想・言動・行動は多種多様であり、私が今現在しているように唯一絶対神の全能性にいちゃもんをつける奴も居る。
中には当然唯一絶対神の神のお怒りに触れる者もあるだろう。その中には雷に打たれるなり新型インフルエンザにかかるなりして命を落す者も居るかも知れない。
が、全知にして全能なのであれば、何も「神をも恐れぬ所業」を待って現行犯逮捕するまでもなく、そもそもそんな所業を起こさせない、起こす気を起こさせない事が出来る筈だ。そうでなければ「全知全能」とは言われまい。
さて、私のこの記事が「神をも恐れぬ所業」かどうかは兎も角、「神をも恐れぬ所業」が実際にある、ありうるのに対し全知全能神がその実行を阻止しないということは、定命の者の浅知恵では、以下のどれかぐらいしか考え付かない。
(1) 全知全能神は「神をも恐れぬ所業」をなす者を見落とした。つまり「完全に全知」ではない。或いは監視を怠っていた。
(2) 全知全能神は「神をも恐れぬ所業」をなす者を罰する事で見せしめとすることを選んだ。即ち全能による「神をも恐れぬ所業」の阻止よりも、見せしめによる抑止効果を選んだ。この場合「神をも恐れぬ所業」をなした者は、はっきりと厳罰に処さなければならない。「長寿を全うした後で地獄送り」では見せしめにならない。
(3) 「神をも恐れぬ所業」をなす者は、予め全知全能神によって「神をも恐れぬ所業」をなす事が予定されていた。即ち「神をも恐れぬ所業」をなす事がその者に課せられた「神の御意思」である。
(4) 神の御心は人間なぞには計り知れない(と諦めて理論付ける事を放棄してしまう。)
ついでに書いておけば、上記(3)の解釈は、似非キリスト教徒にして隠れ主体思想主義者の気違いjos某との長くて不毛な議論の中で思いついた解釈である。神々自身の戦いさえ虚しくする愚昧相手であっても、まじめにやっていれば相応の成果になることがある、と言うことらしい。
神の御名を誉むべきかな。
神の御名を誉むべきかな。
4.神学論争を超えて
神学と言うのはキリスト教にしろ仏教(*1)にしろ相当古い学問であり、大体「大学」と言う言葉の本来は、比叡山延暦寺の学坊に由来する聞いた様な気がする。
その古い学問として、多くの当時最優秀の頭脳が議論を重ねてきたのだから、理学や工学のような即物的・俗物的な利益を生まなくとも神学には相応の英知が結集されていると見るべきだろう。
前節で私が挙げた「「神をも恐れぬ所業」をなす者は、その所業をなすことが「(全知全能の)神の御意思」である。」と言う議論は、その長い神学の歴史の中ではとっくに考えられていたようである。
私は神学にはサッパリ詳しくないが、宗教戦争宗教改革については歴史の一環として相応の知識を持っている。上記のように断じるのは、宗教改革の頃、新教・プロテスタントの雄カルヴァンの「予定説」による。カルヴァンによれば、この世の人間は全てその役割が決められていて、「永遠の罪人は永遠の罪人と定められている。」と考え、「その定めは変えられない。」と言うのが「予定説」と呼ばれる所以である。その説を敷衍すれば、「神を恐れぬ所業をなす者は、神を恐れぬ所業をなす者と予め定められている。」と言うわけだ。
この予定説は予定説で私は気に入らない。何しろ全てが神の予定なのであるから、人間様・定命の者としては努力も改善もしようがない(*2)。が、「神をも恐れぬ所業をなす者」の存在と「全知にして全能なる(筈の)唯一絶対神」を両立させる一つの解釈である事には同意する。
その古い学問として、多くの当時最優秀の頭脳が議論を重ねてきたのだから、理学や工学のような即物的・俗物的な利益を生まなくとも神学には相応の英知が結集されていると見るべきだろう。
前節で私が挙げた「「神をも恐れぬ所業」をなす者は、その所業をなすことが「(全知全能の)神の御意思」である。」と言う議論は、その長い神学の歴史の中ではとっくに考えられていたようである。
私は神学にはサッパリ詳しくないが、宗教戦争宗教改革については歴史の一環として相応の知識を持っている。上記のように断じるのは、宗教改革の頃、新教・プロテスタントの雄カルヴァンの「予定説」による。カルヴァンによれば、この世の人間は全てその役割が決められていて、「永遠の罪人は永遠の罪人と定められている。」と考え、「その定めは変えられない。」と言うのが「予定説」と呼ばれる所以である。その説を敷衍すれば、「神を恐れぬ所業をなす者は、神を恐れぬ所業をなす者と予め定められている。」と言うわけだ。
この予定説は予定説で私は気に入らない。何しろ全てが神の予定なのであるから、人間様・定命の者としては努力も改善もしようがない(*2)。が、「神をも恐れぬ所業をなす者」の存在と「全知にして全能なる(筈の)唯一絶対神」を両立させる一つの解釈である事には同意する。
さて、散々神の全知全能性をこき下ろしてきて最後に言うのもなんではあるが、私は畏敬・畏怖の対象としての神と言う存在を決して否定する者ではない。それが証拠に大概正月には初詣に神社仏閣(*3)へ出かけるし、折があれば靖国神社にも参拝している。結婚式で教会に行けば賛美歌の一つも歌うし、参拝したり賛美歌を歌ったりするときには、その場その場の神様仏様に相応の畏怖心や敬意を抱き、祈る事もある。回教のモスクに行った事はないが、行けばそこで礼拝している人達の邪魔はすまいと心がける。(*4)
「造物主としての神」は信じないが、運命を司る超越的存在としての神は信じる事ができるし、相応の畏怖も敬意も抱いているのが私だ。
「造物主としての神」は信じないが、運命を司る超越的存在としての神は信じる事ができるし、相応の畏怖も敬意も抱いているのが私だ。
要は、キリストだろうがアラーだろうがエホバだろうがクトゥルフだろうが、「全知にして全能」などと言う大風呂敷を広げ、未だに広げっぱなしにしているとする主張が、私には受け入れられないのだ。
「神様は上から見ているだけで良い。
手は出すな。」
寺沢武一作「コブラ」の主人公・コブラのこの決め台詞こそ、尤も端的に私の宗教観=神に対する意識を表しているように思う。而してそれは、典型的な日本人の宗教観であると思うのだが、如何なものであろうか。
手は出すな。」
寺沢武一作「コブラ」の主人公・コブラのこの決め台詞こそ、尤も端的に私の宗教観=神に対する意識を表しているように思う。而してそれは、典型的な日本人の宗教観であると思うのだが、如何なものであろうか。
<注釈>
(*1)仏教なら「仏学」だろうか。
(*2)ってぇ事は、私のような一神教嫌いの不信心者は、真っ先駆けて地獄に突撃する事に決まっている訳だ。
「了解。先に行って地獄を占領しておきます。」と言うのは、何の台詞だったかな。
(*3)神道の「神社」と仏教の「仏閣」をまとめて「初詣の対象」にしてしまうところが、日本人の凄さであり、有難い所なのだが。これはこれで記事にしたいなぁ。
(*4)コーランは一寸詠えないが。コーランの詠唱が一種の芸術である事は理解する。
(*1)仏教なら「仏学」だろうか。
(*2)ってぇ事は、私のような一神教嫌いの不信心者は、真っ先駆けて地獄に突撃する事に決まっている訳だ。
「了解。先に行って地獄を占領しておきます。」と言うのは、何の台詞だったかな。
(*3)神道の「神社」と仏教の「仏閣」をまとめて「初詣の対象」にしてしまうところが、日本人の凄さであり、有難い所なのだが。これはこれで記事にしたいなぁ。
(*4)コーランは一寸詠えないが。コーランの詠唱が一種の芸術である事は理解する。